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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:祖父の戦没地)

祖父の戦没地を探す方法について

このQ&Aのポイント
  • 祖父は沖縄で戦死したが、具体的な場所がわからない。次回沖縄へ行く際に慰霊塔や資料館を訪れて調査する予定。
  • 渡嘉敷島の慰霊塔や資料館の戦没者名簿には祖父の名前がなかった。ネットや検索で詳細を探しているが見つからず、助言を求めている。
  • 次回訪れる阿嘉島の慰霊塔や沖縄の図書館や県庁で調査を行い、祖父の戦没地を特定したいとの思いを伝えている。

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  • k762
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回答No.3

海上挺身基地第三大隊は20年2月17日に臨時独立第三大隊に改編。 大隊本部 50名 歩兵中隊3個 中隊は3小隊 180名 小隊は軽機分隊3(各軽機1梃) 重擲分隊1(重擲弾筒4筒) 機関銃小隊 30名 重機2銃 2月18日 沖縄本島上陸 独立混成44旅団に配属 4月27日 首里防衛の為「国場」付近に前進歩兵64旅団の指揮下に入る。 同29日 独混44旅団の進出に従い44旅の指揮下に。 5月2日 第62師団歩兵64旅団に配属替え。 旅団長は独歩23大隊長に配属して安波茶の防備を強化した。 5月3日 戦闘 5月12日 残存兵力 約20名 大略この様な状況の様です。 厚生省の留守名簿が一番正確だと思います。 一度問い合わされては。

satomi56
質問者

お礼

回答ありがとうございます! 行動が細かくわかるんですね。 どちらでお調べになったんでしょう? 厚生省に問い合わせてみます。 留守名簿というものがあるんですね。 少しずつ近づいてきたようで、うれしいです。 ありがとうございます。

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その他の回答 (4)

  • k762
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回答No.5

>渡嘉敷島ならk762さんにおしえていただいた戦歴を辿ってみようと いや沖縄本島ですよ。 渡嘉敷島は終戦時迄部隊は建制を保っていましたから戦死者名は判明 している筈です。 海上挺身基地第三大隊の残置部隊は勤務隊と整備隊を併せ216名で内 38名が亡くなられています。 特設水上勤務104中隊の戦死者が不祥なのは、兵員14名人夫210名で あり消耗が激しく終戦時既に部隊の形をなさなかった為でしょう。 留守名簿は留守部隊で保管する動員部隊の名簿ですから必ず有ると 思っていたのですが.......19年8月19日 宇品で編成です。

satomi56
質問者

お礼

渡嘉敷島の戦死者名簿にないということは、そこから分かれて、 沖縄本島へ行った部隊に所属していたと思われるので、 本島上陸したあとの戦歴をたどればいいのかな、と思っています。 留守名簿については、他の方のHPでも拝見したので私もあるのだと思いましたが、 厚生労働省でその旨を伝えたら、沖縄戦では・・・という回答でした。 残念です。 でも、さらに詳しい戦歴がわかるだけでも進歩なので、うれしいです。

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  • k762
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回答No.4

>どちらでお調べになったんでしょう? 防衛庁防衛研究所 戦史室著 戦史叢書「沖縄方面陸軍作戦」です。 全102巻 発行は朝雲新聞社ですが現在絶版だと思います。 確か1000部位しか出ていないと聞いた記憶が有ります。 公立図書館の司書に好まれる様な本では有りませんので探すのに苦労するかも...... 以前友人の父の戦死地がこれで判った事も有ります。 お祖父様の軌跡が判明するよう願っております。

satomi56
質問者

お礼

回答有難うございます。 御礼が遅くなってしまってすみません。 県庁と厚生労働省にに問い合わせをしたら、県庁と厚生労働省にある資料は同じと思います、との事だったので、 まず県庁に戦歴を送ってもらう申請をする事にしました。 母が今もっている資料は、県や国で作ったものではなく、戦友会?などの団体の方が作られたものなんで、 もし県庁からの資料と同じ戦没地であれば、祖父の戦没地を特定するのは難しいようです。 その場合は、所属部隊の戦歴から推測するしかないのかもしれないですね、との事でした。 まず、県庁からの資料を見て(申請書を送ってから大体一週間くらいで送ってくださるそうです)、もし渡嘉敷島以外なら そこへ行き、渡嘉敷島ならk762さんにおしえていただいた戦歴を辿ってみようと思います。 それから、厚生労働省の留守名簿についてですが、南方などの戦地のものはあっても、沖縄戦のものはないのだそうです。 k762さんはとても貴重な資料をお持ちなんですね。 ご友人もさぞ喜んでおられたことと思います。 戦没地がわからないと、戦死したことが分かっていても、もしかして、と淡い期待をしてしまいそうです。 現に母は、もう60年たっているのに渡嘉敷島に名前がなかった時に、この島の山の中にひそんでいるのかも、 とか本島にいるのかも、とほぼありえない期待をしていました。 母の気持ちは全てわかってはあげられないけど、でも心のどこかのあるあきらめられないよ、 という気持ちが残ってしまうのは私にもわかります。 今、色々な事がわかってきて進んでいるので、母も喜んでいます。 親切にお答えいただきありがとうございます。 今回の沖縄行きがとても有意義なものになりそうです。

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  • k762
  • ベストアンサー率31% (42/133)
回答No.2

渡嘉敷島ですと海上挺身第三戦隊、海上挺身基地第三大隊の一部、特設水上勤務百四中隊の一小隊が配置されていました。 「戦没者名簿にお名前が無い」との事ですので戦死者不祥になっている 特設水上勤務百四中隊の所属でしょうか?

satomi56
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 渡嘉敷島には特設水上勤務百四中隊という隊も配置されていたんですね。 祖父は、県からもらった資料によると「海上挺身基地第三大隊」の所属だったようです。 所属部隊で調べていたら、この部隊は昭和20年に「臨時独立第三大隊」と一部改隊して本島へ渡ったみたいで、 k762さんのおっしゃる「海上挺身基地第三大隊の一部」以外の、本島へ渡った方に祖父は所属していたのかもしれませんね。 図書館と県庁へ行く予定でいるのですが、戦没者名簿は図書館や県庁にあるんでしょうか?それとも平和祈念資料館なのでしょうか?行く前に聞いていった方がいいですよね。 すごく数が多くてまわりきらない気もしますが、最後の手段は慰霊碑巡りでしょうか・・・。

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  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.1

所属した連隊や中隊がわかると、厚生労働省や軍人OBの会などでわかるかもしれないですね。 少なくとも隊の行動は戦史なのでもわかりますよ。

satomi56
質問者

お礼

軍人OB会というものがあるのですね。 早速探してみようと思います。 以前にも所属をキーワードにして調べていたんですが、途中で他の隊と一緒になったり分かれたりで、 混乱していましたが、やっぱりその線でも調べるといいんだなと、またやる気がでてきました。 ありがとうございました。

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