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命(=精神や心)がない所に世界(=物質世界)は存在できますか。
命(=精神や心)がない所に世界(=物質世界)は存在できますか。 この世の存在を認識できるものは、命(=精神や心)だけだとしたら、 その命がなければ世界(=物質社会)の存在が危ぶまれると思うのですが・・・。 そうなると、宇宙の誕生と、命の誕生は、どちらが先なのか、どんな関係なのか不思議でなりません。 どなたか、命と物質世界の関係について答えを持っている方いませんか。
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物質が先(=唯物論)か、心が先(=唯心論)か、という問題は、古くからの課題です。 唯物論は、「物質が世界の本質=心は二次的に物質(脳)の中に生じる」とする立場で(一般の人が日常なんとなくそう感じているのを素朴唯物論という)、観念論(唯識論、唯心論)は、「心が世界の本質=宇宙は心の中に生じている」という立場です。 物理学は、物体の性質を本質的に追求していくものですから、基本的に唯物論ですが、量子論の根本として不確定性原理が明らかになり、その「不確定性」が二次的に生じるのではなく物質の本性が確率波動であるとするコペンハーゲン解釈、さらにその確率性が有限化(存在性)するのは観察においてであるという事実の延長に、「人間原理=宇宙は認識を可能にするようにできている」という立場が(かなり宗教がかっているにもかかわらず)アカデミックに認知されるようになったのです。 「唯物論の物理の追求の果てに、観念論に至った」と言っても良いのかも知れませんが、それは「心が先」という事ではなく、「自我仮説(心)と時空仮説(物質)が、(不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化している=全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完である」という事なのです(心が「先」になる訳でもなく、先にあるのは無)。 全ての存在性が量子的な確率波動に基づくなら、無限につめ込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇の中に、仮想的な認識体の断面を切り、その仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完(相補的不確定性)としての時空仮説を認識するのです。 それにより、「どちらが“先”か」という問題についても、回答が得られます。 我々は、「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在は現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。 超弦理論において存在の根源は量子=光速に還元され、非光速性は階層現象を(本質的に確定せずに)表面的に捉える時に派生する虚像であることが明らかとなっています。 「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、絶対化としての無限不確定性が、超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。 自我仮説(唯心論=時間軸)と時空仮説(唯物論=空間軸)は相補分化し、その複合(量子的相補的不確定性=時空性)において、存在(相補分化の相殺=『何かあるんじゃないの?』という疑問への無の射影)は派生しているのです。
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- Y Y(@yy8yy8az)
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「宇宙の本体は絶対の大心霊体である」 というのが、釈尊のたどり着いた“境地”のようです。 一人一人の個人の心にとっては、意識できることがすべてで、意識できないことは存在しないに等しいと思います。 小さな小さな心の世界の出来事です。 その自身の小さな心を離れて世界を見れば、いま現に自分が存在しているという事実において、過去の存在を否定なんてできないし、未来のあることも想像せざるを得ません。 となれば、「我」はいなくともこの宇宙は存在していると思えます。 そしてこの宇宙は何でできているのかというと、 時間、空間、物質の三つの要素で成り立っていると考えられます。 物質は、空間と時間がなくては存在できない。 空間は、時間と物質がなければ存在する意味がない。 時間は、空間と物質によって作られる(現象する)。 お互い切り離せない関係にあるようです。 また、物質に大きさ、重さ、温度。心に感情、理性、意志という三つの要素がありますが、物事の三要素という見方とは別に、この世の中の“二面性”といった見方も必要かと思います。 男と女、肉体と心、磁石のSとN、精神でいえば神と悪魔、など。 たとえが適当かどうかわかりませんが、紙一枚を見ても表と裏で“一体”。表だけで裏のない紙なんて想像できません。あるとすれば、二次元の世界か? 命の誕生“無から有”となるのは雌雄の合体よる。となればこの宇宙の存在は物質と精神の合体により現象していると思えるのです。 そして「現象」あるいは「存在」はエネルギー。精神の力、意志力による。 だから、「宇宙の本体は絶対の大心霊体である」と、思っています。
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ご回答ありがとうございました。
- ukiyotonbo
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ご質問に正面から答えていなかったので、たびたび、お邪魔します。 >世界が平面であることを信じて疑わなかった時代から、実は球面にいるという事実を常識と化したように、 この例はいいですね。 世界が平面だった時代、世界は平面だったと言えます。本当に平面だったんです。 地球が球の時代は、地球は球です。本当に球が常識ですよね。まさに本当に球ですよ。 でも、おそらく、どちらも間違いでしょう。 精神が世界を平面とし、あるいは、精神が地球を球としていますよね。 空間や宇宙に広がりをもたせているのは精神に他なりません。 時間も同じです。時間は今さえもないのです。ところが、そのありもしない今を過去にしてその余韻を今に残して時間にしているのは精神です。 とするなら、精神が消失すれば、世界は消失します。つまり、世界を世界としているのは精神だからです。 精神が消失しても世界は存在し続けるではないかと反論を受けるでしょうが、 その反論は、世界が存在し続けるではないかと思っている精神の存在を忘れきってしまっています。 そのままの時間が流れ、空間が広がっていると思いこんでいます。 確かに人間の時間感覚、空間感覚では精神が消失しても世界は存在し続けるに違いありません。 平面なら、平面のまま、 球なら球のまま存在し続けるでしょう。 しかし、その感覚の限界を離れると、つまり、精神が完全に消失すると、そこには時間も空間も物質も何もありはしません。在りようがないです。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- erumera
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NO.2のerumeraです。 何だかこの質問、凄い波紋を投げかけてますね(笑)。やっぱあれですかね。「人はどこから来て、何処に行くのか」というどーにもこーにも解決できない大問題があるからでしょうか。質問者さん。あなた凄い問題用紙バラ撒いたかもですよ(笑)。 皆さんの回答を読ませていただいて感じたんですけど、「命と世界」「精神と物質」って、やっぱ別なものなんですかね?俺はどうしても全てイコールというか境界線はないんじゃないかと思うんですよ。 ただ現在の我々は、その「境界線のない何か」を説明する、いや感知する能力が未熟なんじゃないかと。 凄くおバカな話で失笑を買うとは思うんですけど、俺、おしっこしてると世界との一体感を感じるんですよ。 おしっこするでしょ?流すでしょ?でまぁ色んな所を通過して海に行くわけじゃないですか。そんで海水がなんだかんだで雨雲になって雨を降らせる。その雨がまたいろんなところを通過して俺等の生活に欠かせない水となった帰って来る。 この時に思うのが世界、地球、更には宇宙との一体感。そこには欠けてる物も余計な物も何もないっつー。 地球は俺で、俺は地球。地球は宇宙だから、俺も宇宙。 ん~単なるおバカかキチガイですね(笑)。 でも俺、ホントバカなんで感じたままを書いてみました。 勿論誰かに論争ふっかけてるわけじゃないですよ?コテンパンに叩きのめされますって。 まぁスッゲェ難しい話をしてる人が沢山いるから、バカも一人くらいいても良いかな、と。 さぁこの質問はいつまで白熱するのでしょう(笑)。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
>命(=精神や心)がない所に世界(=物質世界)は存在できますか。 これが解きにくいのは、人間は時間と空間をアプリオリ=先天的に知るからです。 これらをそのまま受け入れざるを得なかった我々は、自然と物質が先にできて、その後に精神が誕生したと考えますが、この考えの根底には、人間の時間感覚と空間感覚が強く残留しています。これに人は非常に気づきにくいのです。 時間と空間が如何なるものであるかを探求すると、一瞬と永遠、引いては、点と無限空間は同じものであることが解ります。 とすると、何もないものからこれほどまでに豊かな宇宙を創造しているのは精神であることを悟ります。 物理学は、客観的に対象を観察しますが、人間のアプリオリな時間感覚、空間感覚から離れていません。 だから、何もないところから宇宙がビッグパンによって誕生したことになるのです。 しかし、実際は、そうしているのは精神側です。 宇宙には何もありはしません。ビッグバン宇宙論でいうところの特異点の中なのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 世界が平面であることを信じて疑わなかった時代から、 実は球面にいるという事実を常識と化したように、 現代に考える最先端の学問もいずれは常識と化し、 その時代に生きる人の認識は、現代のそれとはかけ離れている。
- maimaisus
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んー、逆に考えてみてはどうでしょうか。 全く存在しないものを、認識者は存在を認識出来るでしょうか?出来ないはずです。 「認識者」自体が存在である以上、存在なしに認識は、出来ないのではないでしょうか。 そもそも、 >この世の存在を認識できるものは、命(=精神や心)だけ と思われているようですが、精神や心が認識をしているのでは無く、人間の機能が認識をしているのだと私は思うのです。
お礼
早朝からご回答いただきありがとうございます。 「存在」のないところに「認識者」はないし、 「認識者」のないところに「存在」はないと思うのです。 これは古くからある論争のようです。
- eld3399
- ベストアンサー率4% (16/345)
宇宙が誕生し数億年、数十億年かけて、生命が誕生していくのだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問者様のようなお考えを「唯物論」と呼ぶそうです。 唯物論者が多いことに少し戸惑いを感じています。 他の回答者様において、すごい回答があります。 是非ご覧ください。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
そう言う質問の考え方ならば、物質世界(宇宙の誕生)が先だと思う。 この世の存在を認識できるものは、命(=精神や心)だけだとしても、それは、あくまでこの世界の中だけのこと、したがって、命は世界の一部と考える方が矛盾が無いのではないでしょうか。 実際、普段の生活の中でも、認識していないだけで在るモノも沢山ありますよね。 そうでないと、発見も失敗も存在しなくなるのではないでしょうか。
お礼
深夜にもかかわらず、 ご回答いただきありがとうございます。 反論となりますが、 認識者のないところに存在はあり得ないと思うのです。 あり得るとおっしゃるのは、あなたご自身が認識者だからです。 他の回答者様の中に、とんでもなくすごい回答がございます。 そちらをお読みになってください。 但し、外国語のように難解です。
- abcdeq
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お礼
動画を見せていただきました。 1回見ただけでは、チンプンカン。 2回目は一時停止を繰り返しながらみましたが、半分以上は理解不能でした。 プレゼン最終局面で、某協会名が出てましたが。 この協会はいかがわしい協会ではないのでしょうか。心配です。 ご回答ありがとうございました。
- pupPeTeer119
- ベストアンサー率30% (633/2077)
ANo.3で回答させて頂いたpupPeTeer119です。 補足で説明いただきました内容についてですが、 >この世の生命をすべて死滅させ、回答者さん独りがこの世で生存しています。そして最後に残った回答者さんが消えました。そしたら完全なる死の世界が想像できるでしょう。 との事ですが・・・”完全なる死の世界”というのは、一切の生命が存在しない世界の事ですよね? はい・・・それはそれで想像できると思います。 で、次ぎに >でもそれではつじつまが合いません。消えたはずの回答者さんが、生きていて完全なる死の世界を想像しているではないですか。完全なる死の世界を想像できるというのは消えずに誰かが生きているということです。だれもいないというのは、完全なる死の世界も想像できないということです。 はい・・・生きていて想像しています。 ここで良く分からないのが、”でもそれではつじつまが合いません。”の一文です。 実際に「一切の生命が存在しない世界」があった場合、それは空想の中で考える「一切の生命が存在しない世界」とは異なる、という事を伝えようとされているのでしょうか? 少し規模を小さくして考えてみましょう。 例えば、金魚鉢の中に金魚を飼っているとします。 金魚にとってはその中だけが世界です。 金魚が糞をすると金魚鉢世界の水が富栄養化していき・・・という様に、金魚の存在は金魚鉢世界に影響を及ぼします。 逆に、金魚鉢世界を形作っている金魚鉢にヒビが入ると、そこから徐々に水が減っていき、金魚の生活スペースを圧迫して・・・と言うように、金魚鉢世界の変化は金魚に影響を与えます。 で、この金魚鉢を加熱することで、中の水分から何から、全て燃え尽きたとします。 これにより、後には金魚鉢と一部の灰分が残されて、生命は死滅した状態になります。 それでも、金魚鉢という世界は残っていますよね? その中に存在した金魚やその他微生物が存在しなくなっても、金魚鉢は残ります。 つまり、世界を認識している生命の存在の有無は世界の存在に影響を及ぼしていないことになります。 さて、ここで先ほど質問者さんが書かれた一文を思い出してみます。 “だれもいないというのは、完全なる死の世界も想像できないということです” そうですね・・・中に住んでいた金魚に代表される命は既に存在しません。彼らは死の世界を想像しないでしょうし、世界にとってそれはどうでも良い事です。いや、どうでも良い事だと思う事も無く、ただ、世界はそこにあり続けます。 そして、続けて次の一文を思い出してみます。 “でもそれではつじつまが合いません。消えたはずの回答者さんが、生きていて完全なる死の世界を想像しているではないですか。” そうですね・・・私は金魚鉢世界の外にいてこれらの事を眺めていますから・・・・。 この“世界の外にいる”というポイントが重要なことだと思いませんか? 想像や妄想、空想というのは、現実世界を外から眺める行為に他なりません。 従って、思考実験の中ではどんな状況もつくり出せます。 つまり、生きて想像の内で形作る完全なる死の世界は、完全なる死の世界足り得るので、これを辻褄が合わないとは言えないのではないでしょうか? といったところで、命の有無に関わらず世界は存在する・・・という結論に戻らせていただきたく・・・
お礼
回答者様のような考え方をする人を唯物論者と呼ぶらしいですよ。 私のようなのを観念論者と呼ぶらしいです。 深夜まで考えていただいたようで、たいへんお疲れさまでした。 ありがとうございました。
すみません。下のURLは、コピーミスがあるようです。正しくは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%88%91%E8%AB%96
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お礼
これほど難解な文章は初めてです。 一般人にも分かるように咀嚼して欲しいところですが、 でも、こんなにいっぱい答えていただいて感謝しています。 どなたか理解できる方の目に触れるといいのですが、 ありがとうございました。 そしてお疲れさまでした。