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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学者は何故、世襲しないのか?)

なぜ哲学者は世襲しないのか?

agoraphobiの回答

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回答No.14

単に確率の問題だと思います。まず、 仮定1:哲学者はつくるものではなく、生まれるものだ。 これは、哲学者を数学者に直せば、アンリ・ポアンカレが言ったことです。つまり、実際に職業としてなるかは別として、哲学者としての性質は先天的なものである。したがって教育によって哲学者をつくることはできない。ということです。つぎに、 仮定2:哲学者が生まれる確率は遺伝に(ほとんど)影響されない。 これについては理論的な裏付けがあるわけではありませんが、身体的な形質は遺伝しても、神経のはたらきのようなものは、それを発現する因子が存在するわけではなく、多数の因子が複雑に絡み合って生まれるのではないでしょうか。そうすれば確率に支配されることになると思います。 仮定1、2を認めれば哲学者は世襲しない、というよりできないということが結論できるのではないでしょうか? ちなみに、仮定2の反例になるか分かりませんが、ベルヌーイ家は17世紀から18世紀にかけて少なくとも8人の数学者を輩出しました。しかしこれはかなり特異な事例だと思いますが。このことから遺伝の影響には程度のばらつきがあっても、ほとんどの場合、実質無視できると考えたほうがいいのかな。

noname#136007
質問者

お礼

  回答ありがとうございます。 主張には根拠を添付。 質問でも書き、他の回答者のお礼でお何度も書きました。 それでも、根拠を添付しないで、主張だけを行う回答者が多く、困惑していました。 agoraphobiさんは、その点、主張の根拠を書いてくれているので嬉しいです。 根拠がないと、その主張の妥当性が検証できないからですからね・・・・・ と言うわけで、根拠を検証すると、 >仮定1:哲学者はつくるものではなく、生まれるものだ。 この、仮説は十分に納得できますね。自分が哲学に興味を持った原因を考えても・・・ ただ、これは、同じ条件の下なら、哲学者はランダムに生まれるという事を言っているのであって、親が哲学者である場合の検証が十分になされていないと感じます。 親が哲学者の場合は、同じ条件の下・・という前提が崩れるので、この仮説をそのまま採用できない気がします。 個人的には、親が哲学者の場合、子供は哲学者になりにくい作用が働くと思っています。 根拠の一つは、自分が哲学者の子供だった場合を想像したら、心の中に生じる違和感のようなものです。 子供の知的成熟度では、哲学者の存在意義を理解できないと思いますよ。 それは、ぼんやりとした、反発心を生むかもしれませんしね・・ 二つ目は、人生の蹉跌、失敗という点ですね。 自分の場合、哲学に興味を持ったきっかけは、家庭の問題、自分の人生の失敗の繰り返しにあります。 哲学は、人生を俯瞰して見ることのできる、知力を養う事が出来る気がします。 だから、哲学者は、子供の失敗も俯瞰して見ることができ、大局的な行動ができると思います。 表面的な、常識的な、善悪論にとらわれずに・・・・・ そうなると子供は、失敗から、迷い、悩み、人生を根本的に考えるというきっかけを持てない気がします。 以上二点により、哲学者の子供には、哲学者になりくい作用力が働く。 (確率の問題ではない) と考えます。 また、書き込んで頂くと嬉しいです。    

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