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明治時代の花魁道中に付き添っている「禿」と「振袖新造」について

sijyaの回答

  • sijya
  • ベストアンサー率45% (44/97)
回答No.4

明治のことについては残念ながらわかりません。 「青蛙房」という書店から 「吉原夜話」という明治期の吉原について書かれた本が出ているので、ひょっとすると それから何かわかるかもしれません(私は未見です)。 主に大正時代から昭和時代の吉原について書かれた「吉原はこんな所でございました」によれば 「かむろ」はすでに遊女屋にはなく、振袖新造の代わりに「下新さん」と呼ばれる15,6の少女 (花魁に出られるのは18歳からでした)が、下働きをしながら花魁になる準備をしていたようです。 18で売られた人は、そのまま花魁になります。 が、15歳未満の女性はどうやら売られることはなかったようです。 何事にも裏がある、とはいいますがこの頃の吉原はかなり管理体制もしっかりした「公娼」地帯ですから めったなことはできなかったのではないでしょうか・・。 小学生くらいに売られた子の話はこの本にも、「華より花」というやはり大正から昭和にかけての 吉原について書かれた本にも出てはきますが、それはどちらも「吉原芸者」になった子の話です。 この時代に花魁道中が行われるなら、かむろは間違いなく近隣の少女が扮したことでしょう。

参考URL:
http://www1.tcn-catv.ne.jp/seiabo/sensyo.html
hazu99
質問者

補足

詳しいご回答ありがとうございました。 下新さんは花魁見習い。 つまり、花魁道中の振袖新造は、下新さんだったということで大丈夫でしょうか? 禿についてですが、「遊廓の世界」という本にも、大正時代の花魁道中の禿は「臨時にこしらえて間に合わせた」とありました。 この頃には禿は存在しなかったようです。 明治はどうだったのかはわかりませんが・・・ ご紹介いただいた「吉原夜話」と取り寄せて読んでみたいと思います。

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