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究極の幸福とは?現実的、非現実

KUJIYAの回答

  • KUJIYA
  • ベストアンサー率34% (53/152)
回答No.19

ちょっと、見るのもイヤになっていたので無視していましたが、 まだ閉じていないので、久々に戻って参りました。 で、長い長い文章をいただいているのに黙りでは悪かろうと言うことで。 >文を読んで理解できない方には、分からないでしょうが 全くその通りです。 私的には「平行線」と結論は出ているので、質問について1つだけ 説明をします。「説明もせずに」を連呼されますし。 たとえば、端的にこの一文を出しましょう。 > あなたにとって一番の幸福が、ケーキを山ほど食べる事だったら? > それを永遠で説明する事自体、無理が在り当て外れでしょう。 「ケーキを山ほど食べる事」を究極と定義していますが、それが究極かどうか 検証をしていませんね。自分でそう思えばそれが究極として決定されるならば >最初に「質問の意図と違う」と申告した時点で終わっている話です。 ということです。「本当に究極なのか」という疑問なくして、 「永遠を感じること」という尺度を持ち出す場所がありません。 > <「私にとっては究極だ」と確定していない未来の究極を自分で > 定義しまうなら、別の価値観の出る幕がないのは当然ですね。 > > とやけっぱちにおっしゃっていますが と書いておりますように、「ケーキを山ほど食べる事」を「私にとっては究極だ」 と規定した上で、私の提唱した「永遠を感じること」という尺度を持ってきても 無意味なのは理解できるでしょうか。 「この棒は1メートルだ」と定義しておいて、メジャーをあてたら90センチだった。 間違っているのはメジャーですかね? 具体的に考えてみましょう。 「ケーキを山ほど食べる事」とは、「ケーキを食べる」という行為が 幸福である場合であり、かつ、「山ほど」という量の多さが付加される ことで、究極に近づいています。これを実際に食べるまでは、永遠に食べ 続けられるという予想が働いて「きっと究極の幸福だろう」と想像できます。 例示の中に永遠が含まれているので、的外れもなにも、ご自分で永遠を 語ってるんですが、お気づきでないところが悲しいところです。 「山ほど」とは「永遠に食べてもなくならないほど」でしょう? 「ケーキを食べること」だけでは究極に近づけません。 しかし、実際には山ほどのケーキでも食べ続ければ満腹になるし、ケーキが 永遠でも身体が許してくれないことも容易に予想できます。だから、この例では 究極と言うには少々弱い、と考えます。 「永遠を感じること」を尺度として考えると、「ケーキを山ほど食べる」は 決して究極と呼べるほどの幸福ではありません。 しかし、井の中の蛙の例のように、これを究極と思いこむことは自由です。 究極の幸福と感じている人を、もっと究極があると教えてあげて、不幸を 感じさせる必要性は感じません。 それは私の考える「永遠を感じる」という尺度と別の世界です。 永遠を感じなくても究極だと言い張るのは自由です。しかし、外から 尺度をもって計るなら、おそらく究極には遠いでしょう。 たとえば、ケーキの例を私流に究極に近づけるならば、 「ケーキを『いつまでも』好きなだけ食べられる」というのがより究極に近いと 思います。これでも身体的な問題が発生しますし、ケーキを食べることが いつまでも幸福の第一条件であり続けるのは難しいでしょうけど、 永遠を感じる度合いをアップさせることで、より究極に近付いたと思いませんか? 一度の「山ほど」より、未来に向かって「永遠に食べ続けられる」方が幸福では ないでしょうか。 > なにやら訳分からない奇文。<目立つのが、「仮定の究極」を「決定の究極」とした上で > 「永遠を感じる」に合致しないという論法。 このように、「永遠を感じる」という価値観をキーにした場合、「ケーキを山ほど食べる」は 「仮定の究極」であって、この価値観で計れば決して究極ではないにも関わらず、それを 究極だと定義(「決定の究極」)して、「永遠を感じる」に合致しないと言われても、 究極から遠ければ合致するはずがないんです。例示のほとんどがこのパターンです。 まず、例示が本当に究極と言えるのか、その検証は必要でしょう。検証をしないなら >最初に「質問の意図と違う」と申告した時点で終わっている話です。 に舞い戻ってしまいます。 これを書くにも時間がかかっています。 全部を説明しろと言われても、時間がかかるので遠慮したいところです。 「ケーキを山ほど食べる」の例で私の考え方に矛盾を感じたら、また書いて置いてください。 それから、「これは絶対、『永遠を感じる』では説明できないだろう」という例を1つ選んで くれませんか。永遠を感じるという要素を無視して究極の幸福は語れないと私は考えていますので、 その考えをうち破る論、または例を考えていただければ大歓迎です。 自分の考え方が変えられるなんて、これほど楽しいことはないですよ。 短く書いたつもりだったけど、長いですね。 出きる限り順を追って、わかりやすく書こうと思うと、文章が長くなっていけません。

jjjiiiooo
質問者

お礼

では続きを <「仮定の究極」であって、この価値観で計れば決して究極ではないにも関わらず、それを 究極だと定義(「決定の究極」)して、「永遠を感じる」に合致しないと言われても、 究極から遠ければ合致するはずがないんです。例示のほとんどがこのパターンです。 え、何をいってるんでしょうか?(笑) 私はあなたの言う「幸福の尺度=永遠を感じるで説明できる」に矛盾を感じたので 「ケーキを山程食べるのが、究極の幸福である人」を話の仮定としてだして、あなたの説明を要求したわけです。 それで<究極から遠ければ合致するはずがないんです。例示のほとんどがこのパターンです。 とおっしゃっていますので、上の論理はあなたの幸福にのみ該当する 尺度 という事が、あなた自身理解できたと思います。価値観は個人によって相違する→幸福感も同意。永遠に連動した事で、幸福の尺度として説明できるなどとは皆目見当違いですよ。それで永遠と連動しなければ究極とは遠いなどと個人の価値観を無視し勝手に決め付ける。 そもそも自身の幸福の具体的事象からその方程式を考えたといってましたね?その時点で、あなたの~なのです。そしてあなた自身、それは一時の法則でしか無い事も理解したほうが良いですよ(幸福は年や流れで変わりますから、あなた自身10年後の究極の幸福が変わってても自然な事でしょう?それを無理に一定にする事など・・・・ちょっと、ねえ、論理が浅はかです。 <永遠を感じるという要素を無視して究極の幸福は語れないと私は考えていますので、 その考えをうち破る論、または例を考えていただければ大歓迎です。 意味ないですよ。だってそれが永遠と遠い所にあったなら、あなたは「究極とは違う」とおっしゃるでしょうから。例?まだ理解されていないので書きますが 例1「散歩をする」・・・これが究極の幸福の人が居たとします。では永遠とどう関連が?他にも例を書きますか?「ビールを飲む」これが究極の幸福の場合は? 永遠と関係無いでしょう、なにより無理にこじつける必要はないし、あなたが連想する理由も、それが自分の究極の幸福からきた方程式と言う時点で、説明の意味が無いです。理由は、あなたじゃない他人なんだから です。 文を書き切れないので、続きは上の方のお礼の所に書かせてもらいます。(上の方スイマセン)

jjjiiiooo
質問者

補足

さて、まずは最近何かと忙しくて まったく返信できなかったことをお詫びします。 では返信を、・・・・・しかし結論から言うと「究極の幸福」がどう在るべきか、もう答えが解かってしまったので(個人の価値観など関係無くこうあるべき、というモノが)・・・・ちょっと議論に進展はないと思いますよ。 ま、それでも論理を語り合うのは面白いので暇ならまた返信してくれれば返信します。 それでは、まず >「ケーキを山ほど食べる事」を究極と定義していますが、それが究極かどうか検証をしていませんね >「本当に究極なのか」という疑問なくして、 「永遠を感じること」という尺度を持ち出す場所がありません。 ただの仮定です。その場合、どう永遠が関係しているのか?という趣旨のはなしです。 >「永遠を感じること」を尺度として考えると、「ケーキを山ほど食べる」は 決して究極と呼べるほどの幸福ではありません。 >しかし、井の中の蛙の例のように、これを究極と思いこむことは自由です。 >永遠を感じなくても究極だと言い張るのは自由です。しかし、外から 尺度をもって計るなら、おそらく究極には遠いでしょう。 あのさ、個人の価値観はそれぞれ人によって違うでしょ、当然、幸福の具体的事象もソレにあたる。あなたの幸福が永遠と連動してなくては駄目のようですが、ただ食欲を充たすだけの単純な行為に至極の幸福を感じる人だって居るわけです。(生命的に純粋な行為を好むのは極自然だし) <決して究極と呼べるほどの幸福ではありません あなたの価値観で決め付ける事じゃないでしょ。失礼ですよ、なにより<究極の幸福と感じている人を、もっと究極があると教えてあげて、不幸を 感じさせる必要性は感じません。 自分でいってる事を理解してますか?その言葉通り「あなたの観点→そこに非なるからと言って 究極の幸福と呼べるほどじゃない。などと良く言えますね。 御自身の論理が、正当な尺度などと考えるのは浅はかな事でしょう。 (続きは↓に)

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