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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:戦争から帰ってきた侍(兵士))

戦争から帰ってきた侍(兵士)の取り扱いは普段通りだったのか?

kurisogenoの回答

  • kurisogeno
  • ベストアンサー率31% (558/1748)
回答No.1

以前に聞いた話ですが、 日本の農村の村人の多くは、戦場では一番の最前線で戦う事が多く、 戦に行くと死ぬ確率が高かったと聞きます。 戦の後に自宅に戻る率は高くは無いが、帰宅できたとしても日常的な暮らしに戻れるのは ごく一部で、大半は人を殺めた時の感覚や相手の死に際の顔が頭に焼き付いて、 精神を患う人が多いと伝えられています。 精神的に強い人や元々好戦的な人は、日常的な暮らしに戻る人も居れば、 戻れなかった人も居るそうで、村に戻って夜盗になる人が多い村もあったとも聞きます。 村の規模が大きいところでは、諸外国と同じで清めの儀式などを行う処もあったようですが、 戦から帰ってきた人の多くは、数週間の神社や祠での隔離の後に日常生活に戻される事は 余り無いとされています。 戦の帰りには、村の近の河川で体に付いた血糊を落として帰る事は当たり前で、 帰宅後に湯船に浸かると言う事は殆どありえませんでした。 自分が聞いた話は、とある大学で歴史の講師をしていた人から聞いた話です。 多少の誤解や誤認があるとは思えますが、諸外国と違い農村で暮らす人の多くは 風呂と言う暖かい湯に浸かると言う習慣は無いと思えます。

gagagrgf
質問者

お礼

一部、読み返して気になった部分にコメントしておきます。 >諸外国と違い農村で暮らす人の多くは風呂と言う暖かい湯に浸かると言う習慣は無いと思えます。 いえ、私はそういう意味を添えて湯につかると例示したのではありません。私の知る限り、湯につかるのはむしろ日本(特に現代の日本)の方が特殊で、諸外国は水というのが多いと思います。 いずれにせよ、回答、ありがとうございました。

gagagrgf
質問者

補足

早速の回答、ありがとうございました。 河川で血糊を落として帰るなど、貴重な情報ありがとうございました。 kurisogenoさんのは主に戦士自身の行動という部類の話ですが、できれば、戦士に対する周りの人の反応、配慮などを思わせるような慣習の話を聞きたいです。もちろん、戦士自身の行動の話も引き続き歓迎します。

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