• ベストアンサー

江戸幕府旗本人名事典などで本国と記載があり発祥地との事なのですが、佐竹

江戸幕府旗本人名事典などで本国と記載があり発祥地との事なのですが、佐竹氏などは常陸の国が本国となるのでしょうか?また、この本国は変わる事が無いのでしょうか? 佐竹氏を祖先に持つ者が常陸から出羽そして上野から江戸などに移り住んだ場合でも常陸になるのでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数22

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

私も以前、調べごとで江戸幕府旗本人名事典などに目を通していたことがありますので一言。 (おそらく旗本にも何家かあるであろう)佐竹氏の記述が実際どうなっているか調べないと分かりませんが、ご質問については、一般論として氏族の発祥と家の起源を分けて考える必要があると思います。 本家筋であれば当然氏族の発祥地が本国(本貫)とされるでしょうが、(旗本に相当数存在する)先祖不詳の家では、ルーツが明らかな姓であっても本国は家の初代の出身地などが書かれていたように記憶しています。 つまり佐竹氏だからと言って本国が常陸となるのではなく、家の事情によって他の国が本国とされることもあるかと思います。

enbukan
質問者

お礼

ご教授ありがとうございます。参考にさせていただきます。

その他の回答 (1)

  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.1

他の方の回答がないようなので、一般論として。 一般に発祥地は名字の地のこと=本貫の地のことを言います。佐竹氏の場合常陸の国久慈郡佐竹郷が名字の地なので、ここが本貫で本国は常陸となると思います。現在の本籍地に近いものがあります。 一般論なので参考まで。

enbukan
質問者

お礼

ご教授ありがとうございます。参考にさせていただきます。

関連するQ&A

  • 旧国名について

    旧国名についてお尋ねします。 北から順に、陸奥、出羽、上野、下野、常陸~日向、大隅、薩摩という名称はすべてわかるのですが、例えば、奥州、羽州、上州、野州、水州(水戸藩のこと)といった「・・・しゅう」という言い方(名前)は、六十余州すべてにあったのでしょうか。 特に、越前・越中・越後といった、前・中・後のついた国どうしや、同音になりそうな国どうしは、どう呼び分けていたのでしょうか。 また、前記の、水州以外の常陸の国のような場合の扱いについても知りたいのです。 どうぞよろしくお願いします。

  • A型が祖先というのが定説のようですが・・・

    医学的?にはA型が祖先のようですが、人類の発祥の地はアフリカになっていますが、そのアフリカではO型が圧倒的に多いようですが、 やはり、医学的にA型が祖先という事になっているので、A型が祖先になるんでしょうか? ABO(表現型)による、人類移動を推測する事は、難しいのでしょうか?(不可能に近いでしょうか?)

  • 江戸幕府について

    お世話様です、私は歴史の事は教科書のうろ覚えしか知らない者です 先日暇なときにふと思いついたのですが、どうして徳川は江戸に幕府を作ったのでしょうか。 元はと言えば江戸は豊臣時代に異動を命じられた場所後には大都市になりますが当時は未開の場所晴れて天下を取った暁にその場所に留まって幕府を開くのは如何な物なのかと疑問に思いました。出身地である三河・所縁の多い尾張・大御所の住んだ駿府・はたまた強引に大阪へ乗り込むという手もあるかもしれませんが徳川は動かずに江戸に幕府を開きます。 江戸に根付つつあるので動きたくなかった、京都から離れるのを良しとした、のちの大都市江戸のインフラから見てここに大都市を作ってやろうと言うフロンテァスピリットにあふれていたなど考えましたが良く解りませんどなたかお詳しい方教えて下さいませ

  • 本能寺の変がなかったら江戸は町になれなかった?

    もし、本能寺の変がなかったら、江戸は町になれなかったのではないでしょうか? 江戸は、豊臣秀吉によって、北条氏滅亡後の関東に移封された徳川家康が本拠地を置いた事によって町になりました。 そしてその後、徳川家康が天下をとった事によって大都市に発展しました。 しかし、もし本能寺の変がなければ、豊臣秀吉が天下人になる事はなく、また秀吉によって徳川家康が関東に移封される事もありません。 織田信長は江戸を切り開こうとはしていませんでしたし、関東の中心は滝川一益が本拠地を置いた上野国(群馬県)になっていたと思います。 上野国は甲斐・信濃・越後・奥州を統治するのに地理的に中心で都合がいいです。 織田信長が、江戸のような湿地帯で物流の中心にもならず、ただ防御に適しているだけの場所に関東における根拠地を置くとは考えられないし、現に信長配下の滝川一益は上野国に根拠地を置いています。 そう考えると、もし本能寺の変がなかったら、江戸は関東地方の中の一部の地方の中心地にすらなれず、よくて太田道灌のいた時の規模だったと思います。 どう思いますか?

  • 江戸時代に廃藩置県が起こるまで、藩によって金持ちの

    江戸時代に廃藩置県が起こるまで、藩によって金持ちの財がある藩と同じ石高の藩でも貧富の差があった。 要するに藩主は国を欺き脱税していた藩には財力があった。 10万石の領地を持つ藩で金持ちの藩主がいたが、国に所有地で取れる米の量は10万石とお上の国に申告し、江戸幕府の視察団が来ても田んぼは確かに10万石しか取れない土地であったので視察団はそのまま帰っていった。 では、10万石の大名はどのように国の目を欺き脱税していたかと言うと、山の表面に米田畑を作り、裏面に売れる木を植えていたのである。 要するに副業で林業をやって木を国を通さずに直接売買して副収入を得ていたのである。 という話を聞いて、昔の藩主も脱税してたのか。 それで金持ちの藩が存在していた理由が分かった気がした。 高い銃を大量に買える財力がなぜか領土が小さい藩に存在していた。 大きい広い土地を持つ藩主は土地も広いが国に納める税金も高かったので不作のときに大きく蓄えを減らし、領土の大きさが逆に財政を悪化させていたのだ。 で、江戸幕府も小さい藩主なのに羽振りが良いので、直接藩主になぜお前の藩は不作が続いているのに人々は餓死もせずにピンピンしているのだと聞いた。 実は米が不作でも林業で現金収入があったので米を買って村人に配っていたので栄養失調にならないのでピンピンしていたのだが、さすがに脱税してるお金があって財力に余力があるからとは言えないので、江戸幕府は結局、どういうカラクリでその藩だけ疫病に掛からないのか知りたくても真実は聞けなかったというお話。 これ以外の脱税話を知ってたら教えてください。 多分、他の藩も脱税していたと思う。

  • 幕臣 山岡鉄太郎

    官軍がびっしり屯する東海道をお江戸上野の住まいから単騎で大参謀“せごどん”の本陣に突っ走る、“金も命も 名誉も地位もいらぬ始末に負えぬ男”(別れて見送る隆盛の嬉しい述懐)。 山岡鉄太郎は自ら幕臣であると名乗って西郷との会見に臨んだ。 或る知行地の奉行の五男。 そして新たに設けられた歩兵頭にも任じられたり、明治天皇の侍従にもなっています。 【質問】 この山岡鉄太郎が幕臣であることは言うまでもないが、大名や旗本ではないとすれば幕府に対する身分としては所謂る御家人であったのでしょうか?

  • 東京の歴史スポット。

    こんにちは。 来月に友人の住む東京へ行きます。 一日、案内してくれるそうですが、人ごみは苦手だし、有名な観光地はだいたい行った事があります。 そこで、私は歴史が好きなので、何か歴史にまつわる場所をまわりたいと思ったのですが、オススメの場所はありますでしょうか? 特に戦国時代から江戸時代~幕末にかけて、とても興味があります。 明治時代も興味があるので、生活を知る事ができるところや、の文学者も好きなので、それらが関係する場所など。 東京なので、江戸幕府関係や、いま流行の新撰組、明治時代だったら、その時代背景がわかる博物館など。 教えてください。よろしくお願いします。

  • 外国人登録の誤記と訂正義務の有無

    現在、家族と永住許可の申請手続きを行っておりますが、家族の外国人登録証の誤記が非常に気になっております。 外登に表記されている出生地が、添付資料として提出した本国から取り寄せた戸籍謄本に記載してある出生地が異なっているのです。 本人に確かめたところ、上陸当時(50年近く前のことなので、記憶が定かではない)、入管又はその他手続きを担当した係官等の勘違いで出生地の記述を間違えていたそうです。本人は、本国における出生地はそれほど重要な事項ではないと考え、訂正の手続きをしなかったそうです。なので、その後50年近く、そのまま放置してました。それ以外の、本人に原因がある変更事由(住所変更、在留期限更新、世帯主変更等々)については全てその都度届け出ています。唯一出生地の誤記が放置されたままです。 気になるのは、外人登録に、本人に責めのない事由で誤記が生じた場合、訂正をする法律上の義務はあるのでしょうか?(最も、今更本人に責めるべき点があったか、或いは虚偽申告したものではないと立証することは困難ですが・・・)また、こういった書類上の矛盾に、一般的に審査官はどのような心証を形成するのでしょうか?

  • 日本最古の七福神巡り発祥の地は京都の都七福神巡りで

    日本最古の七福神巡り発祥の地は京都の都七福神巡りではないのでは? 七福神を考案したのは江戸時代の初めに上野の寛永寺を開いた天海大僧正だそうです。 どう考えても東京上野の寛永寺が含まれてないとおかしいと思うし、東京の僧が考えたのに京都で七福神巡りを作る意味がない。 日本最古の七福神巡りは東京が発祥の地だと思う。 違いますか? 東京上野の寛永寺が含まれる東京の七福神巡りが日本最古の七福神巡りだと思います! 京都の都七福神巡りが日本最古の七福神巡りというのは嘘だと思います! 東京上野の寛永寺は弁才天を祀るお寺で寛永寺を回る東京の谷中七福神巡りこそが日本最古の七福神巡りだと思いますが、公式サイトでも谷中七福神巡りは東京最古の七福神巡りと書かれています。 なぜ京都の都七福神巡りが発案者より先に七福神巡りをやっていたのか分かる人いますか? 矛盾があることに気付かない人だらけですか? 矛盾があることは認めますか? 矛盾すら気付きませんか? あと日経bpの会員の人に読んで貰いたいんですが、 なぜ七福神は外国の神様ばかりなのか? http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/16/122600033/070500015/ 日経ビジネスはなぜ七福神は外国の神様ばかりなのだと結論付けてますか? 2ページ目以降も読める人読んで結論を教えてください。 日本の社長にゴマスリするだけのオナニー日経新聞社の会員登録するのは生理的に無理なんです。

  • 川向う、って差別用語?

    川向う、って言葉は差別用語でしょうか? 聞くところによると、 「昔は現代ほど河川に橋が架かっておらず、また有料の橋も多かったので、川によって人の往来が分断されていることは珍しくなかった。 故に川を越えると文化、風習、社会ルール(法律)が異なる事も珍しくなく、 自分から見て相手の風習や考え方が異なること、許せない事、などを  ”そんなことは川向うの理屈だ” といったのが始まり。  また、江戸時代の松の廊下事件(赤穂浪士討ち入りの原因)の後、吉良上野介が江戸城内から 隅田川を越えた本庄に屋敷替えをさせられた際、 幕府は ”川向うは江戸城内に非ず。よって討ち入りや戦が起きたとしても江戸城外の事なので、知らん振りをするつもりで屋敷替えを命じたのだ。もう一度、川向うは江戸城内に非ず” と考えているに違いない。 ということで、単純に都会者が田舎者を嘲る意味で、川の向こうに住んでいる(都心とか県庁所在地とか市街地から離れた方向)の居住者をバカにする意味である」 という事らしいですが。 ちなみにわが地域では自分の居住地から見て、単純に川の向こう側に住んでいる知り合い、同級生等を「あいつは川向うに住んでいる」と呼んでいますが、そこに特に差別的な意味はありません。 (がしかし、この言葉は市街地側に居る側しか使いません。市街地から離れた側の居住者が、市街地側の川の向こうの居住者を指してこの言葉を使うことはありませんので、やっぱり多少の”田舎者”的なニュアンスは含んでいるかも知れませんが。) 詳しい方、おねがいします。