- ベストアンサー
判官びいきは愚かか?
スポーツにおいて、弱いチームに感情輸入をし、弱いという理由 だけで応援するのは、物事の本質を冷静に考えていないのでは ないでしょうか? なぜ弱いチームは弱いのか? 弱いチームは強いチームよりも努力をしていないのではないか? と、考えれば弱いチームに同情する余地はないはずです。 むろん、才能がないので弱いという事はあります。 ですが、弱いチームが強いチームより努力をしているのに弱い。 という事はほとんどないように思うのです。 しかし、こういったケースはあるかもしれません。 「あしたのジョー」で矢吹ジョーと戦うため、地獄の減量を決意 した力石徹が、それをやめさせようとする白木会長に言った言葉。 「日本一の近代設備をほこる白木ジムの誘いを断り、橋の下の オンボロジムで旗を揚げ、血みどろになりながら、のし上がって きたのですよ。あの矢吹という男は。」 (注・多少省略、記憶違いのところもあり) と、いうように、諸事情で練習も十分にできない。栄養も満足に とれない。周りの環境に恵まれていない。という理由であれば、 感動してそのチーム(個人)を応援する事でしょう。 しかしながら、事情も何も知らずに弱いという理由だけで、 弱いチームを応援するのは愚かな事ではないでしょうか?
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
スポーツの試合で、そのチームを応援するというのは そのチームが勝つことを願うということです。 そのチームが優れていると認めること ではありません。そこを混同されていませんか。 応援するのに、そのチームが強いか弱いかは 無関係です。 たとえば、親はわが子が幸せになることを願います。 それは子供が優れているからではありません。 自分の子供だから可愛いのです。 それと同じです。そのチームが弱くても ろくに練習しないチームでも、自分が好きな チームなら応援します。 また、試合途中で勝っているチームは、そのまま いけば勝つので応援しがいがないということも あるでしょう。 そして、強いチーム、優れたチームがその試合で 勝つとは限りません。 同じチーム同士が10試合して、1勝9敗のうちの 1勝かもしれません。
その他の回答 (4)
- temtem1
- ベストアンサー率40% (106/260)
>なぜ弱い方に肩入れする傾向があるのか 一つには、そのほうが楽しいからでしょう。 人間、弱いものを応援したり助けたりすることで、自分が上に立っているかのような優越感が得られますから。 また、自分自身が強い相手に勝ったという錯覚を楽しめますからね。 そもそもスポーツなんて他人事ですからね。弱い側を応援してもなんの問題もないわけです。 また、逆境など、困難な状況を打破するというシチュエーションは成功すれば非常に大きいカタルシスが得られます。身近な例ではゲームなどはある程度、難しいものでないと詰まらないし、起業家などはあえてハイリスクハイリターンな手段を好む社長もいますし。 そういう快楽を知った人間は勝ち目の薄い側を応援することで逆境に勝利するカタルシスを得られるかもしれないと期待するわけです。 それに、勝負というのは、はたから見物するときは、接戦のほうが見ていて楽しいというものです。 であれば、弱い方に肩入れして勝負の均衡を保とうとすることは当然でしょう。 快楽原理から考えれば弱い方に肩入れすることはおろかでもなんでもなく、エンターテイメイントを楽しむ立派なテクニックです。 弱いチームに肩入れすることで自分が実害を得るような状況であれば愚かと言えるかもしれませんが、所詮はスポーツなんて遊びです。肩の力を抜いて好きなチームを応援すればいいんですよ。 スポーツという言葉の語源はそもそも「暇つぶし」という意味ですし。
補足
みなさん まことにありがとうございました。 たいへん勉強になりました。 またよろしくお願いいたします。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
どちらかのチームを応援したいときは、審判席から応援席に移動しましょうね。
普通の人間なら、どちらかといえば強い方を応援することが殆どだと思います。これは分かりますよね。強い方は勝つことが多いから、応援した結果が出やすく、応援のし甲斐があるということでしょう。大鵬やら巨人に人気が集中した現象はこれで説明がつきます。 弱い方を応援する場合もあります。よし、通常なら負けるだろうが、わしらがせっせと応援して勝たせてやろう、という場合、強い方を応援するよりも(負けてもチームからは感謝されるだろうし、まして)勝った場合の応援のし甲斐は格別でしょう。そんなひとを私は知っていますし、彼は弱いチームの弱い理由を深く詮索することは余りないようです。これを判官びいきといえば言えると思います。 確かに弱いチームには弱い理由があるはずです。そしてそれを彼らの道義的責任にしてその魅力のマイナス要因としてあげつらい、彼らに肩入れする愚を哂うというのもひとつの考え方かもしれませんが、ま、ひいき、というか好き嫌いというのはいちに理屈ではないわけで、好きなものはすきとしかいえない場合が大部分ではないでしょうか。いうならば、特に損得ぬきで何かをひいきにして一方へ肩入れするという、その行為自体がおろかな人間の一般的な性癖なのだというべきだと思いますがどうでしょうか。 ご参考まで。
判官贔屓の判官って、源義経でしたね。 彼は弱かったのかなあ。疑問です。 とてもじゃないけれど、弱い武将ではなかった筈。 当時最強の武将であった筈。 でも彼は政治に疎かった。 最強の彼の弱点がそう言う「政治的な取引や駆け引き」だったのです。 彼が己の命を懸けて尽くした兄頼朝に、彼は追われてしまった。 最強の筈の人に、思いもかけず見出された弱点とも言い切れぬ弱点。 時代が変われば、、、ねえ? 運が良ければ、、、ねえ? 弱いから、と言う理由で贔屓するのが判官贔屓ではない様に思います。 弱いチームを弱い、と言う理由のみで応援する人もまた居ないように思います。 あまりにも弱いチームが、強いチームに「あまりにもぼこぼこに」やられているから、その現状を「見たくはない」思いが応援にあるように思います。 弱いと言う理由が理由でなくって、「惨めな状況を見たくない」と言う見る人の自己保身が理由ではないかしら?と見当違いな回答をお邪魔しました。
お礼
なるほど、納得です。 ご回答ありがとうございました。