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般若智における不異から即へ(感性による照合の深まり)

sheep67の回答

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.3

下の方への返事を見て思ったのですが、 不異は、確かに状況判断かなーと思います。今の目の前のを認識して、違いがないというのが不異だと思います。 即は、つまり逆に、それは状況判断だけではない、と思いました。 即という言葉には、ある種の完全性、時間も空間も現実も皆含まれている、と感じます。 空間を切り取るような状況把握に加えて、 時間による変化も足さないとと思うし、 感性や関係性とは、全く時間経過による「変化」が本質だと思ってます。感性や心は、時の流れがないと存在しないし。 空間的な把握、時間的感覚、そして意識、という3要素が大事と思うのですが、3つの要素の一致が必要と思います。 そうであれば、不異は、空間的要素だけかな?と見えます。 でも、即は、今ここでこの瞬間に意識がある、という意味に取りますし、それは3要素の一致だと想像します、経験はしてないですけど・・ 感性と把握の一致を意識することが即なら、2つの物は、実存的と概念的の両方の性質を兼ね備えた物で、それはつまり実存的のみでも概念的のみでもないと思うし、 (実存=現実的な物、概念=空間認識的なものとしてます、加えて感性的な物でもあると思ってます) もしどちらか一方だけが色や空だったら、考えとしておかしなことにならないでしょうか? いえ、たぶんですが・・ 僕も考え途中です。変なとこあれば、またお書きください。

noname#112847
質問者

お礼

有難うございます。 実存と概念の違いについてですが 概念とは対象と言語との照合において選択され、規定されたものではないでしょうか つまり実存を表するものであって、実存そのものでは無いという感じがいたします。 実存とは何でしょうか 即、が実存かもしれません 即という照合の確定は、同時に完全なる実存の把握かもしれないのです。 多根源の法は一つで生じも滅しもしない・・・ という言葉があります。 この一つというものが空という実存(究極の実在)なのかもしれません。 色即是空の別な言い方だと思われます。 ここまで来ると、空というものの大凡の察しがつくと思われます。 一言でいえば、法身そのものでしょう。 現象に対して空という表現を取らざるを得なかったのではないでしょうか。 無我であるとか、縁起であるが故に空性であるとか、実体が無い事だとか・・・ これらの認識や表現は全て概念面に留まる感じがいたします。 心経の終りに、呪を説いたのは概念以上の世界を明確に示したものと受け止めるべきなのかもしれません。 それは、「作用」の世界に踏み込む事を意味しています。 作用の世界を示す必要が何故あったのかという事を考えなければいけないと思います。 そこまで行かなくてはいけないよ・・・という事なのかもしれませんね。 感性による照合の世界から、作用の世界を暗示して心経は終わっています。 智慧によって単に知るだけでは終わらない、現象と空の作用面に至ってこそ、完璧な即の世界が展けるのかもしれません。 以上、拙い考察を申し上げました。 ご批判、ご教授などありましたら遠慮なくお願いいたします。

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