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遊戯とは

念のため、質問者のスタート地点の提示として、フィンク『遊戯の存在論』の結びから一節とリルケの詩を引用します。 これに拘らなくてけっこうですので、遊戯とは何か、思われるところを広く自由な見地からお教えください。 「全体における存在者を遊戯として存在せしめるという、この異様な世界形式は、(・・・・)われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で「賭けられている」のだという予感をよびおこすであろう。世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。(・・・・)  したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性を、詩人は次のように歌っている。  きみが自ら投げるものをとらえる限りは  すべては たくみと任された獲物  きみの中心に 永遠の遊び仲間の投げよこすボールのとらえ手に突然きみがなるとき  正確に可能にされた飛翔のなかで  神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・  そのときはじめて とらえうるということが富となる----きみのではなく世界の----  そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば  いや もっと不思議なことに  勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・  あたかも歳が鳥を投げるように 渡鳥の群を  若い暖かみに古い暖かみを海を越えて投げよこしてくるように----  そのときまさに この冒険のなかで きみは正しく共に遊ぶ者  投擲はきみに軽くもなく 重くもない  きみの両手から流星が輝きいでて  自らの空間を駆けめぐる・・・            (リルケ『後期詩集』より) 」 引用文献 オイゲン・フィンク『遊戯の存在論』 石原達二訳 せりか叢書 

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回答No.4

こんにちは。 健やかにお育ちのことと拝察致しております。 寝かしつけの際には子守唄か絵本の読み語りでしょうか…。 まことに勝手ながら、私にとって懐かしい、「遊戯」に関する物語にふれさせていただきますね。すみません。 『だるまちゃんとかみなりちゃん』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=180 天から落ちてきた”かみなりちゃん(鬼のこども)”を見つけた”だるまちゃん”。 だるまちゃんは、高い木にひっかかって取れないかみなりちゃんの浮輪を取ってあげるべく、自らの傘をめがけて投げる「遊戯」をするものの。 何と傘が当の浮輪にひっかかってしまい、二人で途方にくれてエンエン泣いてしまいます。 そこへかみなりちゃんのパパが探しにやってきて、お礼に?かみなりちゃんの天の国へと招待されることに。 大歓迎を受けただるまちゃんは、180度異なる「異界体験」を大いに満喫したのち、お土産を持って無事戻ります(傘を開いて空から飛び降りる!)。 古来、「鬼」とはトリックスターのごとく、春をもたらす祝福の、そして「陰(おん)」の存在でもありました。 かみなりちゃんが悪戯心で天から落ちてきたり、だるまちゃんの傘投げを通じた人助けも、屈託のない好奇心と探究心に満ち満ちていています。 本来、こどもたちの世界とは「境界」を行ったり来たり自由自在であり、こども自身が想像力の豊かな異人的存在なのでしょう。 そして現代のこどもたちは、魑魅魍魎としたこの世の「陰の鬼の存在」を、どのように幼心に察していくのでしょうか。 『ゆきむすめ』 http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=8777 かぐや姫と似たプロットの、ロシアらしい素朴な民話です。 ”ゆきむすめ”が火の上を順番に飛んで、最期はふわっと消えてしまうところが、とても儚く切なくて。 春の到来を告げる祝祭の一幕なのでしょうけれども、 こどもたちの発案する「遊戯」とは、何と危険で残酷なのでしょうか。 いえ、こどもたちの他愛も無い「遊戯」だからこそ、半ば容赦なく時に危険、或いは残酷がまかり通るものでなくてはならないのかもしれません。 広い空の下の野原は家庭規範の及ばない治外法権の独立国、仲間外れや喧嘩は承知の上。 「ここまでやったら(言ったら)マズイ!やめとこうよ!」と、相手を最後まで追い詰めさせない限界基準や、最悪追い詰めてしまった果ての失敗などなど、 観念の理屈ではなかなか得られにくい稀有な「感性」だと思います。 ロシアの冬は長く厳しく、さぞ鬱々とした荒涼たる世界のはず。 それなのに、まるでなごり雪を愛で惜しむかのようなお話が生み出されたあたりに、 ロシアの大地や交響曲にも似た懐深さ、鷹揚さを感じずにはいられません。 ちなみに──"j"を辞書で追ってみると… ──jeter(to throw/投げる) ──jeu(game, play/遊び、遊戯) ──jeune(young/若い、幼い) ──jeuness(youth/青春、若さ) ──joie(joy/歓喜、喜び) ──joli(pretty/綺麗な) ──joue(cheek/頬) ──jouer(to play/遊ぶ、戯れる) ──jouet(toy/おもちゃ) ──jouir(楽しむ、味わう) …と、何とも若々しく楽しげな言葉が列記されてありました。 Jeunesseの古語はjouvence。 まるで「青春、若さ」と「戯れ」とが、同源のようでもあり。 あの頃──自らが投げていたのはいったい何だったのか── そしていま、いつの間にか「大人」になってしまった自分にとっての「遊戯」とは、何なのだろう、と── ご教示下さった美しい詩を拝見して、ふと、そのように思った次第です。

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。 核家族のほかにだれも、子育てに手を貸す者も口をはさむ者もないものですから、 何だか締まらない空気ですが、お陰様ですくすくと成長しています。 なにか透明な気持ちにさせる「遊戯」をめぐるご本2冊、ご紹介いただいてうれしく存じます。 絵本が大好きな子なので、どちらもぜひ手にとってみたいと思います。 だるまちゃんとかみなりちゃんは動きのあるお話ですね。 落とす、放り投げるって最初の身体運動なのでしょう、少し前までさかんにやっていました。 はじめての主権発揮?世界征服?かなと見守るしかないのでしたが。。。 ゆきむすめはわたしが好きそうなお話です。ペチカ燃えるお部屋で読みたいですね。 異界をかんたんに受け止めて、渾身の力で投げては受け止めてという、子供というのは不思議なものですね。 そもそもこの世界に来た最初から異界体験でしょうし、手に触れて、獲得していくことに残酷の境界はないのかもしれません。 世界といっても実体などは習慣みたいなものですから、 身体運動の手応えの中や、スラップスティックだったり残酷だったり儚かったりする形で遊戯の中に、じわじわと現れることになっているのでしょう。 jの項は、面白いご観察をなさったのですね。 jazzも付け加えたいところ。jojo(悪ガキ)と。 throw and catch で世界を味わえない大人になると寂しいですね。弱くなる気がします。

その他の回答 (58)

  • 2012522
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.9

こういうのカルマ系が傀儡として独りでに機能するみたいなんだ。。。 兵法的には 不思議と                                ´          

amaguappa
質問者

お礼

気の長い話で金環日食の日にこのお礼欄を埋めようと思ったりもしたのですが それにしても、 あの日食は列島を舐めて渡り、黒龍の姿態さながらですね。

amaguappa
質問者

補足

兵法なの。 ペリー・メイスンが人妻の美人に言ってた。 「で、あなたは何をなさるの」 「戦うんです」

  • 2012522
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.8

そういうきゅうりかぁ 了解 当方も遡ってみて見当つきました。 それに削除されても別に気にしておりません。 散々されてきて慣れてますから それにマーフィー的には こういうのは法則的には消去して無意識に沈める方が効果はあるらしいから どっちでもええのんですわ。 私的には。 それに真意は破綻を期待しているのではなく 破綻しないように覚醒し引き返すように逆説的に語気強く言ってるだけなんですから。 削除された回答の補足文は見ました。 別に疑心暗鬼になんかなってないよ。 その辺判ってないね。 #9もさらにたわいないことだから別にいいんです。 ああ歪んでるんだなとは思うけど ノルマ的に

amaguappa
質問者

お礼

そう。 なんていうかな。 家をあけてたとき、半年の間にここを二度くらい見た。 くりやさんのご質問があって、あのご気性のとおりにではあるけど回答者をなぐさめておられた。 わたしは本当に胸が苦しかった。 自灯明 暗がりのもやもやした幻影も灯明に呑まれて消えますから、 考えなくていいことは考えなくなるよね。 ただそんな気持ち、かなあ。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.7

こんにちは。私は自閉症でしたが、虚無の中の虚無というのは、実感はないけど、逆に人造物の中の虚無にどう接していいのか分からない経験があります。 例えば、テーマパークの場合 熱い夏の日だった。そのなかは涼しい空気がながれていた。規則的に口をあけたり閉じたりを繰り返す自動制御の人形がならべられていて、そこを規則的な一定の速度でに自分を乗せたゴンドラが進んでいく。あらかじめ規則的にきめられたBGMがながれていて、「まあ、かわいい、かわいい」って隣の友達は繰り返す。やっと外にでると、布でできた人形をすっぽりかぶった蒸し暑くて気の毒な人が身振り手振りをくりかえしている。自分は気の毒で気の毒でしょうがないんだけど、隣の友達は、またもや「まあ、かわいい、かわいい」って、内心、バカじゃないかって信じられない気分でいたけど、必死のおもいで、迎合ロボットにスイッチをONした。でも哀しいかなそいつはポンコツなんだ。「本当にかわいいね」って言ってみた顔はひきつっていた。 なんだか変な経験だけど、自分自身も「たわむれ」をもう少し考えみたくなりました。

amaguappa
質問者

お礼

うん、そこは知っている、と、思います。 あの虚しい見世物のどこが可愛いのか、わたしもいまひとつ理解しかねるところはあるのですが、 たぶん多くの人々がそう思っているので、いつでもわりと空いているアトラクションなのではないかと。 まあそういうことは話の筋状どうでもよいのですが。。。 大きなからくり時計などの持つ魅力というのは、たぶん、この100年でとても目減りしてしまったものだろうと思います。 職人さんの技術の粋だったと思うのです。そして、おそらくは、 いまでもリズム時計の類というのは特殊な技術が要って、 職人的な仕事で賛美にあたいするのではないかなと、薄々思っているのですが、 なんだか、目も心も刺激に慣れてしまっているのか、 よほど贅を凝らしたからくりでもないと、からくりの「優雅」や「キテレツ」を感受できない自分が、ちょっと寂しいのです。 いま幼児の目線に合わせてふたたびからくりを見ていますが、まあ、感受性というのは習慣的なものですね。 わたしは、わたしの親がそうだったために、 きぐるみ(誰かのIDではない)やぬいぐるみへの偏愛がないので、わたしの子供にもあてがっておらず、 優雅なからくりを愛するおばあちゃまなどもいなかったので、わたしがそれほどからくりを愛して育っておらず、 わたしの子供も、たぶんあてがわれないことになるでしょう。 習慣的に学ぶ愛・愛着が、「たわむれ」の感受性を形成するのかなと、ふと思って、書いてみました。

  • 2012522
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.6

>わたしのきゅうりがパパ。 >(いちど言うてみたかった)。 この感覚だよ。 俺には意味解らんかったけど。。。 こんな感じでうまくひっ絡まっていけばいいんでないかな。 考えないで思い浮かんだ言葉をすっと言ってみる。 一言居士みたいにさ。                              ´

amaguappa
質問者

お礼

これを見たとき吹き出しました。 意味、わっかんないの? あなたのなすがまま  わたしのきゅうりがぱぱ。

回答No.5

 No.4ですが 早ここいらで異界からしゃしゃり出ます。  フィンクの文章なのでしょうか どうも次の文句が気になります。  ★ この引用につづく最後の文章があって、「われわれは幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」が最終の結びとなっています。  ☆ 《天国》と言い放ってしまっては そしてそのままにしておいては おそらく現代人には何の伝言も持たないのではないでしょうか?  かえってマイナスです。《異界》が フラットな世界の中に閉じ込められるようになってしまいます。  と言っても 異界は やはり現代では 遠野物語の示すようなそれでありつづけても 何だか雲をつかむようでありつづけると考えます。現代では とにもかくにも《関係》が脚光を浴びています。これを一つの基軸として解釈しておくのがよいのではないでしょうか。  早い話が agrippa さんとのやり取り これが 関係の世界でしょうね。   ○ (No.5) ~~~~~   ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~    お昼だから    いっちっぬっけた   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ はい。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《あそび》でしょうね。遊戯あるいは お遊戯でしょうか?  関係は こういう場合には 《間(ま)》でしょうね。  ▲ 永遠の遊び仲間の投げよこすボール〔とそ〕のとらえ手  ☆ だと この《間》が わかりづらいのではないでしょうか?  分析するとしますと つぎの両側面があるように思います。  ○ 垂直的な非思考における その心の窓とわたしとの関係  ○ 《遊び仲間》はあくまで人間であるという採り方。つまり水平的思考。  ☆ いえ 確かにこのタテとヨコの関係の錯綜こそが なぞであり《異界》の問題であるというのかも知れません。たぶん そうなのだと思います。しかも  ▲ 神の巨大な架橋のかの弧のなかで・・・  ☆ というように一種の種明かしをしてしまうと 先ほどの《天国》という言葉の問題と同じように われわれは白けるのではないでしょうか?  ▲ きみの両手から流星が輝きいでて / 自らの空間を駆けめぐる・・・  ☆ とまで聞かされると どこか けつがこそばいように感じませんか? agrippa さんとの間の取り方のような手綱さばきがへただと しょうじき 感じます。(ヨーロッパ人は あたかも絵をキャンバスいっぱいに塗りたくるようですからそれと同じように 言葉を全部吐き出したほうが感じよいと言うのかも知れませんが)。  あぁ わたしはつねに闖入者のようで お呼びでない植木等のようで 何が言いたかったかと言いますと まづ mashumaro2 さんの《異界》は そのままにしておくのではなく そうではなく この現実世界に位置づけることが肝要ではないかということが ひとつです。  もうひとつに 《至言》と評された nananisse さんの定義つまり  ◆ 遊戯とは、術的時空との本能的一体化です。  ☆ についても 《間》が問題になるはずだと思ったことです。《術的》というのが いまひとつ明確ではないように思いますが――単純に ひとの意志行為を言うと採りますが そうであるならばなおさら―― 関係性が 雲梯やブランコとのあいだにも おそらく仲間とのヨコの関係として存在している。のではないか。そのいま 過程しているのではないか。  シーソーにはパートナーがいるわけですが いづれにしても《一体化》という事態は 相手との関係性の問題であり 細かくは《間》の取り方になるだろうと見ます。いくら甘えたとしても 別に融合してしまうわけではないでしょうから。  あそぶ人は テクノロジは 超えてすすむでしょうね。テクノロジを超えてすすむでしょうね 間や関係性は。  異界も そうでしょうね。ジャングルジムをたやすく覆い包んでしまうでしょうね。ただし それは タテの関係性か それとも ヨコの関係における間なのか。というふうに すでになぞのあり方を明らかにしておいたほうがよいと考えます。  《あそび》は 息抜きや懐かしさや童心を含みますが 後者の事柄は それだけではあそびを構成しないのではないか。童心の見る異界が 遊びに息吹きを吹き込みますが 一過性だったり懐古のみだったりしても あまりおもしろくありません。  あぁ わたしはいったい何を言っているのでしょう? 減らず口をたたいて 自分から異界へ追いやられることを願っているのでしょうか? 鬼ごっこなのでしょうか? かくれんぼ成らぬ現われんぼ?  ★ 一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性  ☆ そのものではなく そのエックス線撮影でしょうか? 骸骨をも見させてしまったでしょうか?  たぶんこのようにしてこそ いまのわたしは――この質問への参加という切断面においては―― 間を取ることができるというものなのでしょう。つまり 相手の問題です。相手とのもんだいです。  削除してもらってもかまいません。  お邪魔虫は どこまでも意地がきたない。のつけ足しです。  ● (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~~~~~~  鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシズメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振り つまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆   のようです)。  〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。間はただのうつろなる時間と空間ではない。実は生命の蓄積されるおりめなのだ。  鎮魂の祈りを唱える宗教は多い。悲愴をよそおった鎮魂の文学もないわけではない。しかし 《やすらかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから》と懺悔するだけでは 鎮魂にはなりえぬ。  過ちは常に繰り返されて来たし 今後も繰り返さぬという保証はどこにもない。悲しみの回向に終わって たましいを眠らせてはならぬのである。  鎮魂を霊魂の鎮魂のみに志向させる祈りや詩情が 真の鎮魂と似て非なる虚像をはぐくむ。生者の責任を糊塗し死者と断絶する鎮魂は その真実にほど遠いのだ。  (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そう言えば 音楽は 音と音のあいだの間の取り方なのでしょうね。絵画 あるいは舞踊などは どうなのでしょう?

amaguappa
質問者

お礼

★ 一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性 ☆ そのものではなく そのエックス線撮影でしょうか? 骸骨をも見させてしまったでしょうか? どうでしょうね。わたしは、この開示性というのは自分にしかわからないものではないかと思います。 ここでbragelonneがこんなインターネットサイトの言語消尽の場を、そのような遊戯場とするなら、 われとして在ることは、IDやアバターのもとに形成されているわれに押し込められるでしょう。 自分の十全さを自分に開示するという方向性ではないように思われるし、 自分の十全さをコンパクトに表象するという開示方法のようにも思われます。 リルケの時代はおろかフィンクの時代にも(1971年)想像できなかった不自由さのなかに、人は遊戯を見出しているといえるのかもしれません。 上田正昭氏の引用、迫力のある文章ですね。興味深く読みました。ありがとうございます。 こういうところを読むと、bragelonneさんとagrippaさんは同一の主題を抱えるようにも思うのですけれどね。読み方が同じならですが。 あまり、〈間〉の視座に寄り添えなかったようです。 遊戯の〈間〉は対人的なものに絞れば簡潔なのでしょうが、 一人遊びなどでは時間との兼ね合いも入ってくるでしょう。 時間。。。記憶。。。反復。。。予期。。。 一筋縄ではいかないような気がします。

amaguappa
質問者

補足

闖入者のお邪魔虫とは、いやらしくもひねくれましたね。 この家にはあがりますけれども、客の顔ぶれからして長居はできませんなんて、まるでキリスト教徒みたいなことを。 「われわれは幼な子のようにならなければ...」は訳注によればマタイ伝18章3節のようです。お覚えがありますか。 フィンクはもちろん括弧にくくっています。論の最後を垂直的非思考にゆだねたというわけですね。 わたしはリルケはちょっと口がうまいところが赤裸々に感じるので、特に読み込んだことはないのです。 たぶん和訳が原語のクリアーさを伝えていないので、ここで詩を取り立ててもあまり実りがないと思うのですが、 マラルメやゲーテの影響から身に着いた感覚では、この詩は、人間存在ひとりの世界のことを描いているように思いました。 時間を超えた自我への統合的な愛、それをもっての世界への愛というような。 十全さ、というものをとおして、自在さに辿りつくような、自由な人間の輝きですね。 まあ、サイテックスさんが熱意をこめて偏執的に語られている宇宙ととくに変わらないのではないですか。 (あれは特にオリジナリティはないと思うんですけどね。。。演算で再現する作業のほうに重点を置くと何かいいことあるんですか) agrippaさんとのあいだに遊戯的な《間》があると感じるのですか?  bragelonneさんは、くだらないものが脳の中になさすぎるのではないでしょうか。 遊戯的《間》って、能狂言や茶道華道ではよく意識できますでしょう。それもうまいへたが天地の開きです。 坊主が円相を描くのも、面白いのとつまらないのとがありまして、  遊戯であれと智に傾くとあざといので、もう本人がアホであるしか表現に至る道はないのではないかと思います。 ・異界を現実世界に位置づけること は、そうですね。遊戯の根元だと思えます。 でも、他者との関係という横軸とのすりあわせはもっと大きな問題を提起するように思います。 めいめいがうつむいてゲーム機をいじっている小学生たちの遊びは、 一人遊びなのか、集団遊びなのかということも考えてみないといけないのではないでしょうか。 術的時空との本能的一体化というのは、 作用するところの時空と結びつくようにして遊戯の主体が生まれる ということのようにわたしは思いました。 深読みでなければ、ナナさんはこれくらいのことは思考に載せている習慣をお持ちだと思いました。 でも謎の人物ですしセクシュアリティに穏やかならざる気質を持っている気配があるので実際のところわかりません。

noname#131234
noname#131234
回答No.3

乗間 と テクノロジーをぬきにして、 遊戯を語ることはできないのではないでしょうか? ジャングルジムと自分 雲梯と目的 シーソーとパートナー ブランコとリズム 遊戯とは、術的時空との本能的一体化です。

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。 鋭いような、ざっくりしているような。。。 情感とテクノロジーじゃなくて情愛ノルマ いえ、乗間 という語は初めて見ました。 ジャングルジムがあるからこその、そこに登る自分であり 雲梯があるからこその、目的であり、 シーソーがあるから眼前の人はパートナーなのであり ブランコがあるからリズムなのである。。。 プラクシスとテクネーの結婚なのかなと思います。 > 遊戯とは、術的時空との本能的一体化です。 至言ですね。

回答No.2

 こんにちは。  感想程度です。  リルケの詩は  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そして君が 投げかえす力と勇気をもつならば  いや もっと不思議なことに  勇気と力を忘れ そしてもう投げているならば・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この個所がいいですね。能天気や甘えがからんでいるように思います。(と何でも 我が田に水を引きますが)。  ただしそのほかの部分は あまりおもしろくありません。まさに遊戯としてのごとく宇宙大の幻想を想い起こさせますが どうも修辞学の技術が勝っているように感じます。  フィンク――を知りませんが――の文章では 次の個所に注意をそそぎました。  ◆ 世界の本質が遊戯として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(entsprechen *)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。  ☆ わたしなら 次のように締めくくります。  ○ ・・・ことのできる唯一の存在者であるということ〔に思い到ったなら その思念がほかの人びとにも起こるのかどうかを知りたいと思う。考えるに 《自分ひとりだけ》ということが おのおの人それぞれに想起されているのではないかということ〕が〔わたしには〕帰結される〔のだが はてさて どうであろうか〕。  ☆ と。と言っても 問題は 《ボール投げのやり取り》であるならば この関係性ということは とうぜんのことのようですが。つまり 言わずもがななのかも知れません。  くだらない感想でした。つまり それでは《遊戯とは何か》がそこで始まるのですが じっさいわたしはホイなんとか言う人だとか もう一人いましたね ホモ・ルーデンスだとか言ったのでしたか そのような文献を読まなかったのですから 論じる用意がとぼしいというところです。つまり 回答の成り行きを見て 参加の仕方を推し量ってまいります。ごあいさつまででした。

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。 この引用につづく最後の文章があって、「われわれは幼な子のようにならなければ天国に入ることはできない」が最終の結びとなっています。 だいぶ人間らしくなった子供をみていると、(甘やかしと適度な放置のあいだを行ったり来たりして、殊更構う親ではないですが) 生きることは遊ぶことという日常で、ひとつひとつ確かめるものごとが、いちいち全存在的です。 まだ、細部というビジョンを持っていないのでしょう。全体というビジョンも。 この構成をおこなう過程には、たくさんの戸惑いが生じることでしょうね。 わたしの記憶から言っても、そんな戸惑いのなかに幼年時代がありましたから。

noname#105531
noname#105531
回答No.1

鳥獣戯画 あまがえる 見参                               ´

amaguappa
質問者

お礼

ありがとうございます。 あまがえる。。。 電子音みたいな合唱、 野原が雨上がりの曇り空といっしょにふるえていました。 繋がれた馬がたたずんで、じっと聞いていました。 その散歩の帰り道、息をつめた野兎とわたしは道の真ん中で見つめあいました。 なんにもない夕方でしたけれど、なんにもないぽっかりした感じが思い出になってます。

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    ライプニッツの最善説と弁神論に関する質問です。 ライプニッツは、この世界は可能世界の中では最善の世界であり(最善説)、この世に悪が存在するのは、被造物である人間に問題がある(弁神論)があるといっています。 しかし、この主張からは 「悪に満ちた人間が、神の作ることのできた最善の人間の姿である。つまり、神は『悪をなさない』という完璧な人間を創造することはできなかった」 という、神の全能性を否定する立場が読み取れますが、ライプニッツはそういう立場だったのでしょうか?

  • 量子論? 光の粒子と私達は互いに影響を与え合うということですか?

    こんにちは。 量子論の入り口で悩んでいるものです; もともと文系です 私達は光によってこの世界を知覚しますよね。つまり、私達の世界(=私という存在)は光によって存在するとも言えると思います。 …ところが、私達が「光を介してこの世界を知覚」したことによって、光の粒子(つまり光量子)も変化または変質するのでしょうか? それによって、私達の知覚する世界も姿を変えたりするのでしょうか? つまり、私達の存在も、光(そして光によって現れる世界)というものに影響を与えているってことでしょうか?? 私は量子論について正直ほとんど理解していないような人間なんですが; 「シュレディンガーの猫」の話などを読み、量子論の本質って、もしかしてこういうことなのかな???……などとひらめきました。 これって、 ・量子論的にも ・物理学的にも ・哲学的にも 的外れな発想なんでしょうか? どのような意見・アドバイスでも構いません。 どなたかご助言、よろしくお願い致します。。。

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。  

  • 「存在」について

    存在そのものに対する疑問は哲学者で誰が研究されたことがありますか?できるだけ世界的に有名な哲学者の名を挙げてください。できれば著書もお願いします。 存在は人間に認識されて初めて価値を持つでしょう。しかし人間が認識せずとも、それは存在し、そのものは自然界においての自らの役割を果たします。存在って何なのでしょうか?

  • 社会に出るにあたっての抽象的な相談。

    大学生です。 今の世界の組織は人間を代替可能な存在として扱っているように見えます。 しかしそんな組織の中にいる個人にとって自身は代替不可能な存在であって当然です。 この矛盾を解消するために個人は所属している組織にとって代替不可能な存在となることをこれからの時代より一層求められてくると考えます。 そこで、組織の中でのし上がる力、その中の自分を豊かにするためにまず他人を豊かにする力がこれからの時代重要になってくるんだと思うのですがどう思いますか。

  • ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

     ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。