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遊戯とは

fishbowl66の回答

回答No.56

お邪魔します。 面白そうな質問と、以前から気にはしていましたが、ご質問者様と、スタート地点も、徘徊方向も違っている、私の回答は、恐らく理解されないだろう、といった危惧感から回答をためらっておりました。本日6日に締め切るということで、折角の機会ですから、無駄な回答もまた遊戯の内かと、書いてみます。 「われわれ人間は、結局のところ、十八世紀がその素朴な楽天観の中で、とかくそう思いこみがちだったほど理性的であるとは、とうてい言えない。・・・  われわれのとるさまざまな行動の内容を検討するにあたって、およそ人間の認識し得る底の底まで掘りさげて考えてみれば、すべての人間の行うことは単なる遊戯にすぎないのだという思想が、あるいは浮かんでくるかも知れない。だが、この形而上学的結論でもう満足してしまうような人は、本書を読むべきではない。」(『ホモ・ルーデンス』ホイジンガ) 私のスタート地点は、「すべては遊戯である」というある種、判り易い結論に人はなぜ憧れるのか、そこから、なぜ人は、「遊戯とは」と、尋ねるのか、という方向に徘徊します。 ホイジンガも、前掲書の中で、遊戯と言語という項目を用意して、遊戯と言語の関係を考察しています、その簡単な結論は、遊戯というものが一つの語で表わせるような単純な概念ではなく、複雑な概念を含んでいるということ、複数の表現を持つということでした。 さて、ここで、冒険して見ます。そもそも言語の起源など私のような素人があれこれ申すのも恥ずかしいですが、漏れ聞くところによれば、全体の行動や全体の事物の中から、なにかの基準による同一性によって行動や事物を「言い分けする・ことわけする」と考えることが出来るでしょうか。 この点を遊戯に関して、言い直せば、私たちのすべての行動の中から、楽しい事・面白い事といった基準で、それらの具体的な行動に、「あそび・たわむれ」といった抽象的な概念を嵌め込んで「言い分けする・ことわけする」と表現することが出来るでしょうか。この時強調したいのは、元々楽しい事・面白い事は、単独であるわけではなく、苦しい事・嫌な事と複雑に絡み合っている、繰り返される諸行為や事物の中から、一部の同一性を引き出した、という点です。 ところで、私は決して、唯名論者ではありませんが、言語が単純な伝達の道具とは考えていません、「あそび・たわむれ」といった言葉が使われることにより、私たちの行動が、逆に、言葉の影響を受けて、益々抽象的な「遊戯」といった概念・形式を抽出して、ついには「純粋遊戯」「遊戯の本質」といった概念にまで、到達することでしょう。 つまり、最初は具体的行動とリズムを合わせて機能していた「あそび」という言葉が、抽象的な概念となりすぎることによって、具体性を欠く事になり、結局「遊戯とは」と、問う羽目になってしまったのだと。この事は、われわれの行動は複雑なもので、最初から最後まで遊戯であり続けるようなものは、殆んど無く、多くの行動が、遊戯から始まり真面目に終わる、とか逆に、真面目から始まり遊戯で終わるとか、時間の経過によって変わっていく性質を持っていると思うのです。言語はそうした性質には無頓着で、空間的に「言い分けする・ことわけする」事が、その特徴で、それゆえ判り易い、と言う事になるのですが。 ここまで書いてきて、少々不安になりました、ご質問者様はこの回答を、質問に対する批判と受け取りはしないかと。しかし、実を申しますと、私自身かって「遊戯とは何か」というテーマで質問しております。当時は上記のようなことは考えていませんでしたが、こうした言葉の問題を考慮した後にも、「遊戯とは」と思弁的な哲学、文学的な哲学を展開することは大変素晴らしい事と、敬服いたしております。ただ、回答者には文学的素養が無く、ご質問者の意図とは外れた回答しか出来ない、という事実でしょうか。長文・駄文、失礼しました。

amaguappa
質問者

お礼

さて、fishbowlさんの冒険譚に入ります。 言語の起源、といいますか、言語機能と同一の働きをすると考えられる認知、といったほうがより核心に迫りますが、 言語とは、まちがいなく、何かの同一性を行為や事象のうちに見出して、対象化と認識の統合を可能にし、 その本質はおっしゃるように「ことわけする」という営為であると言えるように思います。 ソシュールの連辞・範列関係を考えてもよいと思いますが、 「これはソファですか? 電車ですか?」に答えるためには貯蔵池をいくつも持つ地下水脈が必要ですね。 その意味で、fishbowlさんの示唆なさったように、あそび・たわむれの抽象概念は、 恣意的な同一性によってみいだされた「ことわけ」の結果にすぎません。 もしヴィトゲンシュタインに「遊戯とは」と尋ねたら、 複雑な場合分けや範囲の変数を含む回答をくれるとともに、わたしが一つを選び出すことによって また一つ回答を増やさなければならないと言うかもしれません。 > われわれの行動は複雑なもので、最初から最後まで遊戯であり続けるようなものは、殆んど無く、多くの行動が、遊戯から始まり真面目に終わる、とか逆に、 > 真面目から始まり遊戯で終わるとか、時間の経過によって変わっていく性質を持っていると思うのです。 > 言語はそうした性質には無頓着で、空間的に「言い分けする・ことわけする」事が、その特徴で、それゆえ判り易い そのとおりですね。 ただ、一つだけ付け加えさせてください。 わたしたちは、遊戯という対象化された概念についてばかりではなく、 その対象化された概念の、使用について、考察することができます。 その問題の中へはいっていくと、無数の行為の観察はいうまでもなく、 遊戯という概念を保つことの意味、遊戯の反復性、遊戯の変質、遊戯の権利と主体性、遊戯はなぜ意味を失うか、など、 たいせつなことが、目の前にひろがってくるかもしれないと思うのですよ。。。 (補足欄から続けて使用いたしました)

amaguappa
質問者

補足

ありがとうございます。どうか、そんなに恐る恐るおはなしなさらないでください。 というのも、わたし自身はフィンクと意見を一にしてはいないのです。 書棚から一冊出して、ひとつの考え方をフィンクから借用することから始めました。 そのとき手が触れた隣のウィニコットはすばやく却下されました。(『遊ぶことと現実』) だからこの質疑の最初の発言者が、フィンクというわけです。 みなさんが、それを足がかりないしたたき台に、考察をすすめてくださることを願ったにすぎません。 胸のうちを一つ明かすと、仏教のいう遊戯が視野に入っていました。ことさら取り上げる意図はないのでしたが、 小鳥が魚が遊ぶことについて回答を寄せてくださる方がいれば、この方面で伺ってみようかなと思っていました。

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