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遊戯とは

ENERGAIAの回答

  • ENERGAIA
  • ベストアンサー率9% (5/53)
回答No.53

 神(全体における存在者)をオハナシ(遊戯)として存在せしめるという、この異様な世界形式は、われわれ有限的人間がまさに魔術的生産の創造力と栄光のなかで、深刻な意味で試されている(賭けられている)のだという予感をよびおこすであろう。 ↑神に試されていなければ、これだけの発展はなかっただろうね。  世界の本質がオハナシ(遊戯)として考えられるならば、人間にとって、自分だけが広大な宇宙のなかで支配する全体に言応ずる(する?)ことのできる唯一の存在者であるということが帰結される。 ↑そうかな... オハナシを作ったのは誰だろう?そして、それを破壊する者はどうなんだろう?  したがって、一切の存在者の遊戯的存在根拠への人間的生存の遊戯的開示性 ↑ オハナシを前提として成り立っている雨合羽。

amaguappa
質問者

お礼

フィンクの二つ目の文章から  世界の本質=遊戯  自分だけが・全体に言応ずる(ママ)・唯一の存在者 ということが読み取れるので、これを最初の文に代入すると以下になります。  唯一の存在者たる自分(全体における存在者)を  世界の本質(遊戯)として存在せしめるという、  この異様な世界形式は、  われわれ有限的人間がまさに  魔術的生産の創造力と栄光のなかで、 ....(a)  深刻な意味で「賭けられている」のだという  .....(b)  予感を           .....(c)   よびおこすであろう。 ここで、ENERGAIAさんのおっしゃる「神」や「オハナシ」と考えられるものは、(a)の魔術的生産という力動ではないでしょうか。 「有限的人間が・なかで・賭けられている」という記述からも、外部的な 力の場 を想定しているものと読み取れます。 そこは、魔術的であるので明証性がなく、また、創造力と栄光をともなう生産をおこなう場です。 (b)の「賭け」は、遊戯として存在するのでなければ「自分」が存在しない「全体」であることから、 「自分」の存在や「全体」の存在を、非在や消失でないほうに「賭け」ているものと思われます。 それは、根拠や確証のない意思である ということもできるかと思います。 しかしこうした想定、設定的想念というものが、(c)「予感」であることを、フィンクは明記しています。 そして、フィンクは次のように続けます。  したがって  一切の存在者の遊戯的存在根拠への  人間的生存の遊戯的開示性を、 .....(d)  詩人(リルケ)は次のように歌っている。 つまり、ないものへのひろがりかた、意思としてのあらわれかた、をフィンクはリルケの詩に見出したといえるかと思います。

amaguappa
質問者

補足

念のため確認です。「 」のなかは、すべてフィンクの本からの引用です。 のちほど、あらためてお礼させていただきます。

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