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デュルケム『自殺論』の現代的意義と批判
- デュルケムの『自殺論』的な観点から読み解く日本の自殺現象と処方箋
- 『自殺論』における道徳と自殺の関係についての明確な接点
- デュルケム批判論者と関連書籍についての案内
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1)について。 現代の日本の自殺は、デュルケームの類型でいうと「自己本位型」が多いのではないかという印象を持っています。自己本位型の自殺は、要は献身や信頼対象の喪失に動機づけられるわけですが、これは現代社会に顕著な特徴だからです。 社会の凝集性は極めて低下していますが、同時に個人の価値観が多様を極め、またそれを是とすべきというリベラルな観念も強くあって、社会の凝集力はどこに求めたら良いのか見当もつかない時代です。 本来人間はある共同幻想の中でしか生きられないものですから、共同体による意識・無意識の紐帯が失われると、それは結果的に自己像の輪郭さえ不明確にしてしまいます。デュルケームは『社会分業論』の中で「人は社会的存在となることでその自由が実現される」という意味のことを書いていますが、現在の社会は全くその逆に、個人の自由を唱導するあまりに個人の真の自由の獲得を困難にしてしまっています。 ここから生まれる「存在の軽さ」の意識は、色々な現象や制度によって強化されていきます。それは例えば、社会の高度化や制度化の反面として感じられる「何をやっても変わらない」というどんよりとした閉塞感であったり、医療が高度化するなど死が身近でなくなった社会ゆえの「生命感の希薄化」だったり、相対思考の行く果ての「本当のものなど何もありはしない」という虚無的な感覚であったりします。私には色々な諸条件が、デュルケームの言う自己本位型の自殺を後押しする方向に働いているように思えます。 同じ背景があっても、自殺に向かう「意味への渇き」のようなエネルギーがうまく解消されるようなシステムが社会に準備されていればいいのでしょうが、清潔志向と暴力排除が行き着くところまで行ったように思える現代社会ではそれも難しいのでしょう。 もう1点、アノミーと関連づけて現代社会について感じることがあります。 自殺は、それを全うする場合であれ回避する場合であれ、往々にして「責任」というものと関連を持ちます。この「責任」に関する社会の考え方が、近年寛容性を失っているように私には思えます。これが自殺を後押ししていはしないかと感じるのです。 何かが行われる背後には必ず「責任」が伴っているもので、事故や不測の事態には必ずこれが表面化するのですが、そこに暗黙に前提されているのは「制御」という観念です。本来、制御不可能なものに対しては責任の発生しようがないわけで、例えば雨が降ろうと雪が降ろうとそれは自然の営為であって「仕方がない」こととして社会的に許容されることです。 しかし現代社会は最終的に「責任」が出てこないと物事が収束しないという、一種の硬直性を見せています。これは、社会の中に暗黙のうちに「全てが制御可能であるべき」という感覚が共有されていることを意味するでしょう。この世の多くの事柄は本質的に制御できないことであって、もともと責任が発生しないはずであるにも関わらず、です。 この不寛容性を人間の支配欲の裏返しと見れば、これも欲望を煽る一種のアノミーと論じることができるのではないでしょうか。「誰かが責任を取るべきだ」という一見正論として語られる言説は、実は社会に蔓延する制御願望や支配欲そのものが「規範」の装いをまとうことで無節操な悪循環をもたらします。あたかも「規範」の如く語られるものが、実は根本的に欲望を昂進させてしまっているのです。 実際のところ、正確に言えばアノミーとは単に規範が後退した状態ではなくて「欲望の神格化」ですから、欲望を抑えることがむしろ良くないことである、という「規範」が蔓延した状態と言うことができます。だからこそ諦めることが難しいわけです。このように欲望が言わば覆面をして内面化された状態こそがデュルケームの言うアノミーの本来の意味に近いのでしょう。 「なるようになるものだ」「自然に任せよう」といった類の、この世の硬直性に対するアンチテーゼも散発的に説かれるのですが、個人の内面宗教としての処世術の域を出ず、無意識下の二重道徳は温存されています。 アノミーは普通「無限性の病」で豊かさの中でもたらされる焦燥感です。これを拡大して、逃げ場のない閉じられたシステムとしてペシミスティックに分析するとボードリヤールの消費社会論になりますが、実は「この世の制御可能性」についての幻想が増長されていく一種のアノミー状態はなかなか息苦しいものです。この生きづらさが蔓延し自殺は増加せざるを得ない状況にあると見ることができはしないか、という気がします。 2)について。 確かに『自殺論』でも道徳が重視されているのはご指摘の通りだと思いますし、やはりその重要性はあると言えると思います。実際、デュルケームが同業組合とか職業集団を重視するのは、それが個人に対して優位に立つ存在であって、そこから「それに従わなければならない」という道徳力が生まれるからに他なりません。同じ物への愛着を共有している、という社会性が各々の個人において発揮される時、自然にそれは集団の規範や道徳となって表れるのだ、という理解です。 自殺は、従って、この集合的な力が欠如してアノミーが生み出されたところにもたらされる、というのがデュルケームの主張でしょう。 ただ、100年後の現代から言えば、そのままで道徳を持ち込むことは無理なはなしだと思えます。解体されてしまったのは道徳そのものの規範的価値ではなくて、道徳を規範として成立させる場の存在だからです。それを権力といっても慣習といっても良いのですが、単に道徳が廃れたのではなくて、道徳を社会に位置づける基盤が既に解体されてしまっているのです。 『自殺論』では自己本位:集団本位という対概念が提示され、両者のバランスが意識されていたのに対して、アノミーの対概念ははっきりとしていません。 私見になりますが、宿命主義、つまり煽りたてるアノミーに対して現状を肯定し受け入れる方向に働く言説が分析されていれば、デュルケームの分析は今日的な意義が一層増していたように思えます。言わば「鎮め」の働きは、道徳のように集団に依存することなく機能するものではないか、と感じるからです。 (しかし強制される諦めとしての宿命主義は、やはり進歩主義的なデュルケームには許せなかったのかも知れません) ※以上、私見です。長さの割に内容がなければ…どうぞご容赦ください
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- neil_2112
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補足拝見しました。 デュルケームが進歩主義、と書いたのは誤りです。本来なら「進化主義」と書くはずだったもので、要らぬ誤解を招いて申し訳ありません。彼が本当の進歩主義側からはむしろ保守反動などと批判されたのはご案内の通りです。 私が書こうと意図していたのは、別段コントの精神発達の三段階のようなことではなくて、単に彼がアノミーの対になるべき「宿命主義」のような概念について消極的なのは、社会における個人の自由の問題を歴史的に論じてきた彼なりにやはり「社会進化主義」の残滓を引きずる所があり、「宿命主義」は旧時代の悪弊のように感じられたせいなのだろうか、というニュアンスです。 彼が社会進化主義に立っていたかどうか議論のあるところですが、例えばレヴィ=ストロースのデュルケーム批判は知られていますね。彼の徹底した構造重視の立場からはデュルケームには抜き難く社会進化主義的な視点があったわけで、特に宗教分析にあたって共時的視点が欠けていた、という点はよく批判されます。
お礼
なるほど、進化主義ですね。もう少しお話をおうかがいしたいのですが、13日に日付が変わり次第締め切りたいと思います。機会がありましたら、またお世話になりたいものです。ありがとうございました。
お礼
進化主義ですね。ありがとうございました。
補足
ご回答ありがとうございます。まさかこのような丁寧で説得力のあるご回答をいただけるとは思いもしませんでした。ありがとうございます。 >本来人間はある共同幻想の中でしか生きられないものですから、共同体による意識・無意識の紐帯が失われると、それは結果的に自己像の輪郭さえ不明確にしてしまいます。 まったくその通りで、これは特に若年層に見られる傾向だと思います。たとえば自閉的で人付き合いの下手な若者が増えていると言われますが、それは、人と付き合うことによって自分が社会の一成員となり、それが日本全体ひいては世界に広がっていき、そして未来につながるという「共同幻想」が崩壊したからかもしれません。ある社会に属しその一員として規範を遵守していくということは、その社会に所属することによってしか生きられないということと、またそれが結果的に自分の人生の安定につながるという現実的な目標もあったと思います。しかし今の若年層においては、フリーター志向(年金不払い)が強くなってきていることなどを見ると、そういった長いスパンで人生を設計できなくなっている現実的な傾向があるのではないでしょうか。 >デュルケームは『社会分業論』の中で「人は社会的存在となることでその自由が実現される」という意味のことを書いていますが、現在の社会は全くその逆に、個人の自由を唱導するあまりに個人の真の自由の獲得を困難にしてしまっています。 これは私としては最も重要な論点だと思います。今の日本に、自由を「獲得」する機会がどれだけ用意されているでしょうか。それは特に「教育」における問題だと思います。与えられはするけれども「獲得」はしない、その上に奇妙な平等主義(悪平等)が幅を利かせて、能動性をいっそう封じ込めているような気がします。 また、若年層の公共心の欠如がしだいに露骨な形で表に噴出するようになってきました。そこでは、「公」と「個」(の自由)が背反の関係になっていますが、本来それは表裏一体のものであるはずです。社会生活を送っていれば、場合によっては、公が先行したり、個が先行したりするのは当たり前のことですが、それらの一方が暴走しなかったのは、社会に一定の道徳的公準があったからではないでしょうか。しかし、道徳や規範などというものは、あくまで社会通念であって、言ってしまえば従わなくても実際にはどうということはない「共同幻想」のようなものばかりです。ですから、それが崩れるときは、あっという間だと思います。成人式という厳粛な場でやりたい放題馬鹿騒ぎすることは、誰でも愉快に決まっています。まさに今、その急速な道徳の「崩壊」が始まっており、そのため「個」とか「私」が暴走し始めているのではないか。私は、そのあたりに、どうしても危機感を覚えずにはいられません。ですから、そういった意味では、私も今の日本社会には「自己本位型」がじわじわと幅を利かせつつあるのではないかと感じます。 >欲望が言わば覆面をして内面化された状態こそがデュルケームの言うアノミーの本来の意味に近いのでしょう。 …個人の内面宗教としての処世術の域を出ず、無意識下の二重道徳は温存されています。 なるほど、勉強になります。 それと、デュルケムは進歩主義者だったのですか?逆だと思っていましたので、これは意外です。どういう意味において進歩主義者だったのですか?補論していただけると嬉しいのですが。 お礼が遅くなり、申し訳ありませんでした。本当にありがとうございました。