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仏教のいける観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

お正月にソクラテスの考え方のダイジェスト版みたいな本を読みました。 高校時代に習った古文の書かれた平安時代などの信仰の在り方や今なお息づく神道などから古代ギリシャの精霊信仰は容易に理解できます。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 今回の質問は流れとして前回の 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5575674.html これに続きます。 知を愛すると言いますね。 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 なのに取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。 それから、信仰を表ざたにしないのが主流の日本で宗教におぼれる少数派はあくまでも肩身が狭いでしょうが、誤解を解こうとする回答をいただいていません。 これらを題材としてお考えをお寄せください。

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noname#135843
noname#135843
回答No.7

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > 作法のようなものとしてとりすがりでは無いでしょう。それが出来なくで、神に対して信仰のストライキを起こすぞと、脅かしながら交渉に及ぶのがとりすがりではないか。  現在におけます、農作物の豊作祈願・祭りは確かに慣習化したものかと思います。ですが、一昔までは、飢饉なるものが起こり、多くの犠牲者が生じたとされています(昭和の東北大飢饉でも、多数の身売り、欠食児童が続出したといわれています)。つまり、生命の危機等にまでおよぶものにつきましては、例外かと思うのです。以下に、キリスト教の「主の祈り」を載せております。これは、唯一、イエス・キリストその人が「祈るときは……(中略)こう祈りなさい」と言って弟子たちに与えたとされる祈祷文です。 マタイによる福音書 / 6章 9節から13節(共通口語訳) 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。アーメン  1世紀頃のガリラヤ地方では、慢性的な食料不足があったようでございます。その証拠に、当時の遺骨調査からも、栄養不足のため、当時の骨の中はスカスカなのだそうです。つまり、かような生命・さらには信仰の危機にまで影響を及ぼすような状況下におきましては、「主の祈り」のような「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」との祈りも許されると思うのです。また、未だ1世紀頃では、キリスト教は異端扱いされていました。その中で信仰を守り続けていく上では、共同生活・活動なるものが必要であったことが推察されます。そこで、信仰が絶えささないためにも、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と祈ることも、例外的に許されてもいいと思うのです。もし、信仰がなくなれば、その時点でその宗教は消滅し、2度と復活しないことは、歴史的事実かと考えられるからでございます(実際、仏教の誕生の地インドでは、もはや大乗仏教は信仰されてはおりません。唯一、日本とチベットのみが、大乗仏教を継いでいるのが事実かと存じます。ですが、そのチベット仏教すらも危機に瀕している状況でございます)。  以上まとめますと、現在の日本のような(もちろん将来はわかりませんが)、食料に恵まれた状況において、神仏に“取りすがる”ことは、大欲(貪欲)として、ある味“罪”に類するものと思われます。  ですが、信仰心、または信仰を守り続けていこうとする人たちの生命、これらにまで危機的な影響を及ぼすものにつきましては、例外的に認めてもいいと思っている次第でございます。 > 知性がかくのごとくあるならば、取りすがる態度を見せるのは、思考の閉塞に結びつくのではないか。  知の探求・哲学は、自らの意志と力で志向するものかと考えております。従いまして、“取りすがる”行為は、思考の停滞をもたらすものと解しております。  愚見お聞きいただければ、幸いでございます。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 事をとりすがりに関する批判に限定しないで、信仰心を表ざたにしない立場から、「祈る行為」については了解できました。折れます。 ただし、厳密かつ心情を厳しく見れば、故事は今や信行心のストライキにすぎないのではないかと考えます。 ここで蒸し返しますが、人間同士で和解が成立してお互いに助け合う事が出来れば神に救いを求める事は不要ではないか。そして聞けば聞くほどそれは過去においても取りすがりだったのではないか。世界中の災害の情報が一夜で駆け巡る現在では人間同士の和解とは、要するに互助とはテクノロジーの発達で自然発生していて今やなされており、神に救いを願わなくても人間同士が信じあうに値する事は証明されていると言えるのではないか。そのような互助が自然発生的であった事は人間とはもともとそのような本性を備えていることの証明でもあります。ところがそれを組織存亡にかかわると認めない危険で閉鎖的な祈りは有るでしょう。残念ながら有るでしょう。

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  • hyuuma8579
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回答No.8

知の探求や哲学が信仰と一致するか?の点ですが、 根本的には一致しないと思われます。 その理由は 第一に、ソクラテスの立場は、哲学者、思想家の立場から、真の知を得るための徳は何かを説いたものです。従って、宗教家や信仰面からのアプローチではないのです。 第二に、ソクラテスは、真の知を得るにはどうしたらいいかと考えた時に、次のように結論を導き出しました。即ち、「真の知は他人から注入されるものではなく、自己自身のみによって気づくものでもない。他人との対話(問答)を通じて、自分も他人も納得できる普遍的真理(真の知)に至ることができる。」 彼は、道徳の根拠を人間の内面に内在する神(ダイモニオン)に求め、道徳は絶対的・普遍的であると主張したが、だからといって上記の結論のように、神や祈りや信仰等には言及していないのである。 【ソクラテスの徳は真実に生きるための知を追求することであるのに対し、仏教の根本的な徳目は慈悲であるが、慈悲を実践するためには、修行生活が必要となる・・・この時点でソクラテスの説く対話とは全く別なアプローチである】 第三に、キルケゴールの思想より。 キルケゴールは人間の成長の三段階を次のように説いたのである。 第一段階は、感性的でエロス的な要求に従って、あれもこれもと享楽的に取り入れたがる「美的段階」 第二段階は、あれかこれかの善悪を判断基準として生きようとする「倫理的段階」 第三段階は、「宗教的段階」である。信仰をもって、神の前にただ一人で立つことであり、その時初めて人間は、真の実存となるというものです。この段階に入るには、飛躍が必要となるのですが、それは知性では理解することができないパラドックスを信じることによって可能となると説いたのです。 たとえば、永遠なる神が、有限な時間のなかで、受肉し、人間となって現れたというような非合理的なことを信じるということである。 彼曰く、「そういう飛躍を通じて、初めて真に神との関係を回復することができるのである。 従って、キルケゴールから言わせれば、知を求める段階は、人間の心の成長から見た場合、第二段階の成長期に過ぎないのである。 知を越えた領域に至らない限り、真の完成はないのであるから、 哲学者ソクラテスは、知のみを求める限り、真の知にも至ることができない逆説である。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 知恵袋みたいなお人からの必要な豆知識は大助かりです。

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noname#135843
noname#135843
回答No.6

 こんばんは、新春の候、いかがお過ごしでしょうか。Hidocchiです。 > 知を愛すると言いますね。    仰いますように、哲学(philosophy)の語源は“知を愛する”と記憶しております。 > 私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。    この考えは、実存哲学(に近いものか)と思われます。従いまして、この“実存”思想の観点から愚 見をのべさせていただきたいと思います。 [定義] 実存:独自な存在者として(機械の歯車の1部とは異なった独自の存在者、または主体性を持っ た存在者として)、自己の存在に関心をもちつつ存在する、人間の主体的なあり方。    第二次世界大戦後には、フランスに輸入され、イデオロギー化した“実存主義”が発展しました(サルトルらがその代表です)。  確かに、サルトルらの“実存主義”は美しかったと思いますし、またカッコよかったとも思われます。何しろ、自分が選択した事柄に全責任を負い、その影響が世界に対して及ぶという意味において、全人類に対してもまた責任を負う。この一歩、一歩、進む実存主義者の姿は確かに立派なものだったかと思われます。しかし、これは、まさにタフな人々(強い精神力、高い知性そして卓越した行動力を持つ方々です)にのみ許容できる哲学とも言えるかと思われます(ですから、カッコいいのでしょうけれど) 。  ですが、普通の一般人に、かような責任感を持ち、サルトルのような行動(アルジェリア戦争の際に は独立を目指す民族解放戦線(FLN)を支持する等です)には、そう簡単には、実行には踏み切れないと思うのです。 [レヴィ・ストロースとサルトルとの論争]  レヴィ・ストロースは、サルトルの実存主義の主体偏重に対して、主体ではなく、“主体間”の構造 こそが重要だと主張(主体が使う言語は“共同体社会”によって生み出された構造主義的なものなので 、絶対的な主体はありえないということです)。また、どのような民族においてもその民族独自の構造 を持つもので、西洋側の構造でもって、その他の構造に対して優劣をつけることなどは無意味だと主張 。   この論争によって、徐々に(少なくとも、哲学的思想上では)“実存主義”は衰退していくことにな りました。    以上の知見を踏まえ、以下のご質問にお答えしたいと思います。 > なのに(神仏に)取りすがる態度を見せるのは、行き場の無い考え方ではないか。    上述“主体間の構造”には、多分に“神話的”要素もしくは、それに基づく慣習・秩序が含まれていたかと察せられます(4巻に及ぶ『神話論理』は、レヴィ・ストロースのライフワークでした)。従いまして、習慣上によるもの、かつ、人知を超えたものにつきましては、“取りすがり”は致し方ないと考 えております(例えば、人知を超えた豊作の祈願等でございます)。 > 集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。    確かに、世の中には“狂信者”と呼ばれるひともいます(暴力と化しているひとたちです)。もちろん彼等(彼女ら)には論理・理屈はとおりません。一方的に、他の立場のひとたちの信条・信仰を認めないようなひとたちです(もちろん人としての自由・尊厳をも認めようとしないひとたちです)。かようなひとたちには、横暴の感は否めません。    ご参考になれば、幸いでございます。  

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ?。 >人知を超えたものにつきましては、“取りすがり”は致し方ないと考 えております。 これに関してはですよ、祭りでお参りに行く時の作法のような感じで、まづ、「神様あなたがいるからこそ私がいます」こういう感謝の祈りを非思考として無意識的であってもささげたのち、願いとするなら、作法のようなものとしてとりすがりでは無いでしょう。それが出来なくで、神に対して信仰のストライキを起こすぞと、脅かしながら交渉に及ぶのがとりすがりではないか。 そうすると正しい信仰心には取りすがりは無い事となります。 よって、 >> 集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。   この主張を取り下げるのはまだ納得がいきません。

noname#117439
質問者

補足

質問の主文を少し修正します。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知をもたらすのは聖霊の姿をした神であり、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 知性がかくのごとくあるならば、取りすがる態度を見せるのは、思考の閉塞に結びつくのではないか。

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  • abc2012
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回答No.5

哲学や人知は、脳の論理思考に依存しています。しかし仏教のブツダは、脳を否定しています。ブツダは、座禅や瞑想で、脳を休ませる事で悟りました。不幸や迷いの原因は、脳の自我だといってます。だから仏教の教えは、脳を休ませる事で得られたものです。だから日本人は、西洋の脳の論理思考に対して、心の情緒思考です。行動も情緒的です。日本の伝統文化、和風文化は、情緒文化です。だから日本人は、伝統文化で情緒に目覚めましょう。新しい時代は、情緒の時代です。脳の論理思考の時代は終わりました。

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 いわば我執という形で約2千年前に編纂された仏教の唯識にも自我の原型と一致する論理がでてきますが、WIKIの記述を読むだけでも我執とはマナ職の投影とされています。安定した種子を伴った記憶であったり経験と一致した事柄ではなく、要するに脳には理性的には身に覚えが無い、実態に無い事柄です。したがって各種自我論は全て仮説であり完成したり確定したりはしていない。乱暴に言えば内容が薄いといっていいでしょう。仏教ですから唯識論も瞑想の類の観念研究でしょう。私も観念研究で自我に関してはここで引用したような考えを持つにいたりました。 それから輸入思想中毒というのもあります。 西洋では伝統として日本より強い自己が(自我で無く)必要でありそれを鍛錬する為の教養も多いでしょう。それらを一言一句直訳して輸入すると、和を尊ぶ日本では強い自己の補強とはならないで自我意識が強くなる。 そんな中毒です。

noname#117439
質問者

補足

そう言えば自己の本質や基盤が自我である筈なのに、自我論につかみどころがなく研究が進まないのはいかにも変ですよね。 この点を唯識になぞらえて我執とは意識上に上る実態のない投影としておくと考えが膨らみます。 心理学では自我は欲望や欲求とセットで研究されていますが、そうすると哲学などでは取りつくしまも無いですね。

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回答No.4

 No.1です。お応えをありがとうございました。  ★ (No.1お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   抽象的ですが問いたいのはこれです。    >知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この主題でしたら 片がつきますよ。  信仰は 非思考における志向性ですから その《心の明け もしくは 伸び》において何らかの表象(かたちに表わすこと)を持たねば ひとに伝え得る意味内容は出て来ません。つまり哲学がそれです。  信仰という非思考から 経験合理性にもとづく哲学としての経験思考が出て来ます。そういう意味で一致していると思います。  ★ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   しっかし、とりすがりとは単なる姿勢やそぶりとして釈明が通るかもしれないが迷惑千万です。  「ねーえわかるでしょわかるでしょ」「私のことおわかってくれるでしょ」。  あなたは間違いなくあなたで私ではないんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問題は 期せずして《日本教》の問題として合っていたようです。  ○ 《とりすがり》は 《自覚無しの甘え》のことです。《日本教徒》には 生まれたときからその行動様式が刷り込まれ植えつけられます。    というわけで《甘え》の問題にもかかわっていて じつはそこに書き込んだ文章ですが 掲げます。  《日本教》の問題ということは つまり日本教徒という人間のもんだいです。集団における一種の規範であるならば つまりはその信徒たちのあいだの仲間意識のそれです。われはどこに帰属しているのかという意識のもんだいです。  日本教には 見えない総本山があります。そこからやはり目に見えない運河が下に横に その結果として縦横無尽に 張り巡らされています。  この観念の運河を 信徒はおのおの観念のゴンドラを漕ぎつつ行き交いする。この通行証を持っているという感覚――つまりは おれは日本教徒なりという確信―― これがすべてを決めているようです。  この一般には《無宗教・無信仰》と自称する《日本教》の成員であるなら 《おまえはおれ おれはおまえ。おまえのものはおれのもの おれのものもおれのもの》という世界が開けます。  前半(《おまえはおれ おれはおまえ》)は 文字通りさもうるわしき仲間意識です。後半は 社会が二階建てに成っており そこにはどの二人の人間どうしを取り上げても多少とも上下の関係(=《アマテラス逆立主導‐スサノヲ従属》の連関関係)があるからです。  でも中には この運河の通航に支障をきたす人びとも出てくるようです。  通行証を持っていたはずなのに だからほんとうのことを言ったはずなのに そのちょっと心の真実を言っただけで 皆から爪はじきにされてしまった。けっこうゴンドラをあやつることもうまかったのに ちょっとホンネを出したら 途端に村八分だ。  こういう事件に遭った人びとが その人びとから見ていかにも自立して自信を持った人だと見れば とうぜんのごとく その人に近寄って来て頼ってくるでしょう。取りすがりもおこなうでしょう。西も東も分からなくなっているかも知れないからです。  もっとも そのように自信を持って ひょっとすると通行手形も持っていないのに自信を持って 運河をつばめが飛ぶように通行していると見なされれば そのときには 信心の強い日本教徒であるならその自信のある人に対して ちょうど巡査になった気分で どんどん職務質問をしていくるでしょう。意識のうんこを投げつけてくるでしょう。  これは 取りすがりの反対側にある心理的な反応なのでしょう。  どちらも そういう《空気》の問題であり そういう《観念の運河》の交通規則であるようなのです。どこにもその条文は書かれていないのですが。つまりは 不文法であり慣習法であるようです。  運河の通航にかんする取り締まりにはきびしいものがあるようです。そこから弾き飛ばされる人びともいるようです。そういう人びとは 取りすがりをおこなう。こういう説明になります。  どうですか?

noname#117439
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 交通のお話の論理は完成度が高く参考になります。 でも、観念世界にそうした交通の支障は無いのではないかとも考えます。 ちょっと考えを整理していきたいと思います。 まだ形を成さないのですぐに答えが出るかわかりませんがやってみます。 ご教授ありがとうございました。

noname#117439
質問者

補足

A6の補足の後に余剰スペースとしてちょこちょこと書いています。 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知をもたらすのは聖霊の姿をした神であり、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 仏教的的観念についての質問なので、 現代日本の信仰の受け皿の主流は仏教ですが、観念の研究をイデア界と同一の観念世界からもたらされた事柄と理解すれば、知をもたらすのは仏の慈悲そのものであり、知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 このようにも説明できます。

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noname#136007
noname#136007
回答No.3

. >私が私である生きる実感が哲学とも聞きます。 ソースを教えて下さい。 .

noname#117439
質問者

お礼

なんとなーくです。

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回答No.2

神→全ての法則に対する解答であり事象 と仮定すればけっこう重なりそうですが 神→全能であり至高の意思を持った存在 と仮定すればむしろ哲学の敵になるかと 自分なりの理を見つける過程が哲学なら 悟りを教えてくる他人は邪魔なだけです 語り合うコトは良いコトかと思いますが

noname#117439
質問者

お礼

ご回答有難う御座います。 今回の質問内容に疑問があるのだなと解釈しました。 ご意見として了解です。

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回答No.1

 こんばんは。  少し主題を逸れます。   ただし その主題の土俵のようなものについてです。  山本七平に《日本教》という切り口があります。  これはけっきょくのところ たとえばいまこの質疑応答の場が OKヱーヴ部門の哲学カテゴリという日本教支部だという意味です。  そのように日本人なら誰しも この日本教に《絶対的に》属しているという分析です。意識しているにせよいないにせよ 多かれ少なかれ 日本教教団の活動の一端をになっているという捉え方です。  つまりは 生きた哲学も観念論哲学も 取りすがりも何もかも われわれの生活日常のピンからキリまでが 大きくは言ってみれば世の中に《観念の運河》が張りめぐらされていて われわれはこの運河を通らないことには 何も為し得ないという見方です。  こういう日本社会論がありますが どうなんでしょう?  * 極端なと言いますか 単純なと言いますか 手短かに例を言えば 共産党も右翼も 日本教のそれぞれそういう支部を成している。ゆえに 誰もどの集団も互いに地続きであるという日本人論です。  つまり 日本教の中のシントウ支部やコンフュシアニズム支部やブディズム支部やクリスチアニズム支部等々があるだけだ。それを思えば ブディズムがいくつかの宗派に分かれているなんてのは ちゃんちゃらおかしい たとえけんかをし合ったとしても ただのコップの中の嵐でしかないという見方です。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 踏まえておく事柄ですね。 抽象的ですが問いたいのはこれです。 >知の探究や哲学は信仰などとも一致するのではないかとも考えました。 しっかし、とりすがりとは単なる姿勢やそぶりとして釈明が通るかもしれないが迷惑千万です。 「ねーえわかるでしょわかるでしょ」「私のことおわかってくれるでしょ」。 あなたは間違いなくあなたで私ではないんですよ。

noname#117439
質問者

補足

肝心のタイトルにタイプミスがありました。 仏教における観念研究を哲学と見なすならば知性とは神のもたらす恵みである

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    下記の哲学の言葉につき分かりやすく教えてください。 高校時代履修した世界史の教科書を久々に読んでいたところ、 これらの言葉が出てきたのですが全く理解できなくて--。 ・帰納法/演繹法 ・観念論 ・弁証法哲学 ・実存哲学 ・マルクス主義

  • 《分かるか分からないかが分からないナゾ》が 神。

     たたき台を述べます。その当否を問うています。  《分かるか分からないかが分からないナゾ》 とは《非知》と呼ばれる。  それは 《非経験の場》である。  すなわち 図示しますが:  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~   非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)  _______________________   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)  ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《宗教》というのは 個人が信仰にあって得られたヒラメキを観想(テオーリア)としてコトバに表現したところに発する。すなわち その観想を表現したものを オシエとするところからである。  オシエのもとに群らがり始めたら それは個人の信仰を去って その抜け殻としての宗教に変身したことを意味する。そこは 《信じる》の問題ではなくなり 《考える》をとおして理解した人間のあたまの中の観念の神へと変わる。  けれども 神は 非知なるナゾである。    人間は いのちのもとにあるから・そして命のつづくことを欲し・また良くつづくことを志向するから このイノチのみなもとなる神を 善と見る。至高の善という属性を 神に付与する。じっさいには 善悪の彼岸としてのナゾの場である。  同じようにして この上ない愛・慈悲・また 義あるいは真理とも呼ばれるようになる。愛憎をふくむ愛 あるいは 相対的な主観真実における義不義や真偽を超えたところの真理。  神が この世界を見守るというようなイメージにまで人間の想像が及び これは 摂理というコトバで呼ばれる。そこから ダルマまたは宇宙の法則などとも呼びたくなり呼ぶ場合もある。  ところが 《非知:すなわち 人間の能力では分かるか分からないかが分からないナゾ:つまり非経験の場》のことを想像し思ってみたとき そこにすでに神に触れた感覚(予感)が得られるのではないだろうか。  これを 《考える》ではなく 《信じる》と呼ぶが この信じるは 信じないと言っても 同じコトになる。信じないと信じたことになる。《非知に触れた感覚》 これが神と接した体験である。

  • シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である

     1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。    人間の現実      経験世界      非経験の場  2. 非経験の場とは 非知として想定されている。    人間の現実      経験世界(経験事象)         可知(可感をふくむ)            既知            未知         不可知(知り得ないと知ったモノゴト)      非経験の場         非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. ひとは この現実を持って生きる。それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。  4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。  5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。  6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引く補助線である。  7. かくて たとえば非知すなわちふつうに言う神は 不可知であると見た人がいる。けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。  8. 神は感じるものだというシュウキョウもある。それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。それしかないと言い張るなら あしきシュウキョウである。  9. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または われひとり)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張るインチキ宗教である。  10. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説くシュウキョウがある。これは 悪しき無限に落ち入る。落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。これも 補助線を神そのものと見なしているからには アホンダラ教である。  顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?

  • 観念論について少し書いてみました。

    なにが阻むのだろう。 光明が目の前にあってもだれもつかみ取れない。 ただすべてが幻となるばかりだ。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 コレ↓を、整理してみたよ。 https://okwave.jp/qa/q9503548.html 人間の実際の多角的な知覚能力は言語以外にも及び、無意識はいわゆる憑依現象による同調と一体感で、血を交わすような濃厚な他者への理解をする。 それは絆という言葉だ。 踏まえること、その1。 主に絆について、西洋では根拠を感情面に注目して「愛」を神格化した傾向がある。 感情面で実際に根拠を研究していくなら「愛」のみに注目しないで、社会成立の感情面での同期として、愛情と友情を並べて検証する必要がある。 踏まえること、その2 現代で無意識といえば分かったつもりになる、情緒面でのあいまいな知覚は、それ以前「精霊のささやき」であっただろう。 なぜなら私はそのつもりで考察して成果が出ているからだ。   さて、それらで、仮面ライダー プリキュアへの変身には憑依現象を応用したフェアリーフュージョンというのを宣伝している。 ソレ、一度正確に定義しておこう。 「精霊伝心」だよ。 なぜなら、「人と人を結ぶ伝心は精霊が仲介する」からだ。 そうでなかった場合とは、精霊に人霊が同伴する「生霊飛ばし」で他者の人格が直接標的にされた人物の人格を侵食する。 どうやら、日本の王朝時代の名前のルールや、神々への名前のルールは、人霊同伴を慎重に回避するために編み出されたのだろう。 こうした能力はテレパシー的だが、超能力ではなく、観念能力というのがふさわしい。 涅槃、やイデアと言われた観念を中継する能力だからだ。 霊能力というのも同系統だが、あちらは呪術的技術だ。 なぜなら、ビジョンなどの内観する映像は多くの人が思考の補助に使っているだろう。 しかし、ビジョンを通して観念を理解しようとすると、相当あいまいで明白さが希薄だろう。 霊能力という場合、観念能力を「死の思考術」に集約して観念の認識力を補強する技術だ。 涅槃やイデアを死の国として規定するんだよ。 おかげで肉体を失うと死者の国に行くことになる。 人の死後がなぜ不明かの根本的原因を一言で言おう。 本来は死者の国ではない。 したがって死者の国を見定めようとすると、そんなのはないんだよ。 怖い土産話だ。 ところがね、観念世界には看板を「死者の国」にして営業活動している業者もいるんだ。 そこに入店すると、生きた体が死んでいるのに限りなく近い状態になる霊症が起こり、滞在は極めて危険を伴う。 今回は個人的な研究を深めるためのたたき台です。 なにか突っ込みを入れてくれれば回答はそれで充分です。

  • 哲学の意義について作文しました添削してください

    哲学を志す方々は存知かと思いますが、書店で入門用の哲学書を購入すると、特定の哲学者が著作者である場合には、まずその著作者特有の神との係わりに関する見解と、そこから知性を発達させる手法に関して考え方が述べられています。 おもにこのような手法をとる西洋哲学を理解しようとして、日本人が哲学を研究するとなると、文献を理解するためにキリスト教文化への見識が必要になります。 すなわち哲学研究が西洋の精神文化や宗教の研究と混在して日本を含むアジア人が知の探求に取り組むことを困難としています。 その哲学を私なりに定義すると、人間が知性を備えるという事実は哲学が表すように神の存在と関わり、神に対して真剣な答えを求めることが、哲学の問いかけそのものであった、 だからこそ日本人が自分で独自に哲学研究する場合には西洋と同一の手法で仏教や神道に関して自らの考えを持つことが大事です。 なぜなら自らの信仰心からしか神に言葉を伝えることはできないからであり、人間が知性を持つことの果実だからだ。 知性とは神への言葉である必要があるのだ。 信じてこそ神と通じる。 その言葉は真となる。 だからこそ信仰を問うことが、日本人として自らの考えを正す姿勢と言えます。 そのように哲学を志とすれば、宗教そのものについて考えることと、哲学として考えることの違いが出てくるのですが、それは同一であり、知性とは神を問うことにみにあります。今まで日本人が行った哲学は、仏教文化により無我でありながら、あえて我として考える、とでもいうような苦し紛れの言い回しがあったのでその点に焦点を当てようと考えています。

  • 哲学の意義について作文しました。添削してください

    前回はコレ↓ http://okwave.jp/qa/q7711979.html どのくらい読みやすくなったか評価して助言してください。 わたしは普段簡潔かつ断定的に短い文章で考えを述べてこそ、そも明白さが知性の表れなのだと考えて実践してきました。 このように言葉を膨らませて柔らかくする事は不慣れです。 どちらかと言うと国語的な質問ですがよろしくお願いします。 書店で入門用の哲学書を購入すると、特定の哲学者が著作者である場合には、まずその著作者特有の神との係わりに関する個人的見解と、そこから知性を発達させる手法に関して考え方が述べられています。神と個人の関わりの限りでは哲学であり、広く、神と人とのかかわりであればそれは宗教である。 おもにこのような手法をとる西洋哲学を理解しようとして、日本人が哲学を研究するとなると、文献を理解するためにキリスト教文化への見識が必要になります。 すなわち哲学研究が西洋の精神文化や宗教の研究と混在して日本を含むアジア人が知の探求に取り組むことを困難としています。 その哲学を私なりに定義すると、人間が知性を備えるという事実は哲学が表すように神の存在と関わり、神に対して真剣な答えを求めることが、哲学の問いかけそのものであった、 だからこそ日本人が独自に哲学研究する場合には西洋と同一の手法でありながら日本人としての信仰の風土を尊重し、仏教や神道に関して自らの考えを持つことが大事だ。 なぜなら自らの信仰心からしか神に問いかける事はできないからであり、それこそが人間が知性を持つことの果実だからだ。 知性とは神への言葉である必要があるのだ。 信じてこそ神と通じる。 その言葉は真となる。 そのように信仰を問うことが哲学の前提であり、日本人として自らの考えを正すために西洋から哲学を学ぶとすると、自らの信仰を明らかにする必要がある。 哲学を志とすれば、宗教そのものについて考えることと、哲学として考えることの違いがおのずから出てくるのだが、それは同一であり、哲学の起源から知性とは神を問うことに生かされ神の発見が人間知性の起源ではないかと類推します。今まで日本人が行った哲学は、仏教文化により無我でありながら、あえて我として考える、とでもいうような苦し紛れの言い回しがあったのでその点に焦点を当てようと考えています。

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