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真実と普遍性

nakaotatsuの回答

回答No.7

真理とは宇宙の銀河系や太陽系等の成長や崩壊等、又、宇宙の法則や原理やあらゆる生物(万物)の生命の息(宇宙の意識)の源泉の現われ等、この宇宙の無数の銀河系の全ての活動現象、そのものが真理であります。2000年前の昔、偉大なる導師が「我語る言葉こそ真理なり」と言われましたが、人々は理解する事なく真理を求め続けました。「自分自身を自由にする真理を与えよ」とあらゆる主義主張や議論が多くありますが、さしずめ、その人々に、とってはそれが真理であるのです。 地球上においても海辺の打ち寄せる波や微風や太陽の陽光、月の満ち欠けや四季の移り変わり、森羅万象等、それらも大自然の真理なのです。真理とは本来、悠久普遍の摂理が真理であって誰がみても真実の道理であると考察され認められるものです。川の水は上流に向かって流れませんし又、太陽が太陽系の中心から外れて、外宇宙へ移動する事もありませんのでこれらは真理では、ありません。 真理とは宇宙の万物の現われや活動の総計が真理であります。人間はこれ等の諸活動の原因(万物の宇宙の意識の表現)を認識して、宇宙の万物の現われの総計の活動に対して深い知識と熟慮が必要となります。それが宇宙の万物の原因と結果を理解し知る事になるからです。その時に人間は自由になれるでしょう。 あらゆる宇宙の生命(万物)は創造主(父)の体現であり一体です。生命体に表現されている「至上なる叡智者(父)」に対する、へりくだった謙虚な尊敬感と畏敬の念を我々の思想とし、又。創造主(父)の息子や娘として、万人の神性を促し表現して愛と奉仕を社会で実行する事が要求されます。これらは人間の進化の為の根幹の宇宙の法則として子供や孫達に伝え実行主義として教育して行くべきものです。 本来、自由とはお互いに責任の伴うものであり、宇宙の法則や原理に則った、ものが自由なのです。そして人間は真理という範疇において人間的進化進級をして行くものです。我々は進化の階段を一歩々、確実に、ゆっくりと登り成長し学習すべきです。私達が転生の法則に則り、どこの進化した惑星で生まれ変わろうとも永遠に学び続けなければなりません。それが人間の目的でもあるのです。一時的に停滞をする事が、あっても上方への進化こそ人間として進むべき正道です。

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