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違和感を感じたり、許せないことがあったからと簡単に友人や知人と縁を切る
違和感を感じたり、許せないことがあったからと簡単に友人や知人と縁を切る人が増えていませんか?明らかな悪意がある言動ならともかく、本人に全くそのような気持ちがなく、受け取り方次第ではどのようにでも解釈できるようなことに対してこうした感情を抱き、縁を切るとか距離を置くといった手段に出るのはどうなのでしょうか。 ここでいう違和感や許せないってことは、世間一般的には「え、何でそれぐらいで」とか、「別に深い意味があっての言動じゃないんだから大目に見てあげれば?」といった類のものです。ただ彼・彼女らにとっては「私の中ではありえない。」という、彼・彼女自身のルールや正義感に則ったものが多いですけど。 僕は社会的なルールや道徳・倫理観に反するものであれば、人によって許容量も異なるからこうしたこともありえると思います。だけど彼・彼女らの「私」基準・ものさしで人の言動を判定し、言動の真意や背景を探ることなく、自分が違和感を感じたとか不愉快だったとかで、その人を断罪し切り捨てるような行動はどうなのでしょうか? 彼・彼女らに聞くと「私は傷つけられた・不愉快な思いをした。だからあのような人とはこれ以上関われない」と言い、突然その人と縁を切ったりします。そして「これは自分の問題だから」とも言います。確かにこうした人が確固たる自分があり、自分の中での正義やルールを確立し、自分に厳しい人が多いです。だけど、その厳しさを人に求めるのはどうかと思いますし、「だからこれ以上関わらない」などという行動に出て人を傷つけるようなことをするのはどうなのかなと思います。 こうした人は話を聞くと定期的に人を切っていますし、何かしらのトラブル(内容を聞く限りでは理解できませんでしたが)を起こしサークルやクラブなども突然辞めてしまいます。彼・彼女らは「自分の問題だから」と言いますが、そうした行動は多くの人を直接的・間接的に傷つけるし、ずっと消えない心の傷をその切られた人たちにも残します。 やっぱり周りの人は縁を切られた方が悪く見られちゃいますし… ここの相談でも「縁を切られた」で検索するとよく出てきますが、切った方が物凄く上から目線ですし、切られた方の人間性にまで言及し、同じ土俵に立つ必要がないみたいな意見が多いです。確かに縁を切った方が絶対的なアドバンテージを社会的には持つんですよね。そして切った相手に多くの面でダメージを当たえる。彼・彼女らの「私」基準で突然切られた方は何が起きたか分からず不安になり人間不信になる、そして共通の友人や知人には「縁を切られた側」として認識され、何か問題がある人と見られる。 何か話にまとまりがないですが、度量といいますか、人を許せる人が減りすぎていないですかね。人というものは傷つき、傷つけられ、繋ぎ、繋がれているものだと思います(社会的なルールや、道徳観、倫理観を踏み外していたらまた別ですが)。 人を許せない・度量がない人が多いと感じるのは僕でしょうか? そんな彼・彼女らと対等な人間性を持つ、完全超人ともいえるような人はこの世に存在するのでしょうか? 縁を切るということを簡単にできる人のメンタリティはどういうものなんでしょうか。
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- hikarucou
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縁を切るのを簡単にできる人・・・とありますが、それはひとくくりにしてはいけないことなのでは? 人によりますが、やはりそうするからには色々考えると思います。 私もたしかに今の世の中と人間関係は、どこかおかしい?気がしますが、昔を基準にしてもしょうがないことだし。 そういう人も、そういう経験をしていくと、時にはなにも感じないかもしれないけど、時にはあとで後悔するかもしれない。 そうして成長していくのかなと、私は思います。 もちろんそんなことしない人もいるでしょうけど、やはり人間関係が希薄になったからといっても、人の価値観はそれぞれなのです。 あなたが言うようにひとくくりに考えるのは違う気がします。 また縁を切られた人が、いつも可哀想?だとはかぎりません。 またそういう人の中には、反省し成長していける人もいますから、どっちもどっちかなと。ちょっとドライですが、今の社会でベタベタの関係は成り立たないと思う・・・。せつないっちゃせつない気はしますけど。
- kysp1124
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pudding11さんが「縁を切る人、切らない人」と世の中を二種類の人間に分けるのなら、私は完全に「切る方」に入ります。 多少自己弁護的発言になりますが、ちょっと聞いてください。 まず「縁を切る」と一言でいっても、たった一度「あれ?」と思っただけで「貴方とは縁を切るわ!」と声高に演出し、周囲に「自分は縁を切ってやった!」と誇張するケースは非常に稀だと思うのです。 私は、多少の違和感を感じても、最初の数回は自分の不快感を殺してでも同席を試みます。それでもこれじゃ先は無いな・・と思ったら、その人との関係から静かに退席するのが私のやり方です。 撤退の原因になる例としては、時間が守れない、人の悪口ばかり聞かさせる(私は聞きたくない)、嫉妬や嫌味が多いなどでしょうか。 「離れること」と「目線が上だ下だ」に関連性あるとは、考えたこともありません。 それらを「「私」基準・ものさしで人の言動を判定し・・」と呼ぶのなら、そうかも知れません。 しかし、決して『私は「青」が好きなのに、この人は「赤」が良いと言っている!気が合わない!!』などといった単純な好みの差を問題にしているわけではない点は重要なポイントだと思います。 それでも「度量が少ない」となると、私はいつも待ちぼうけで時間を無駄にしなければならなくなります。 学校は?と聞くので「大卒」と答えた途端『ヤダ、この人。先生だよ』と意味も無い皮肉を連発する相手とも仲良くしなくてはいけないということになるのでしょうか? イライラして、家に帰っても腹が立つので家族に八つ当たりして・・と、誰だって経験はありますよね? ストレスは私達の嫌な部分をグーッと表に押し出します。 溜めるばかりで吐き出さないのは非常にキツイです。 そうなると自分も悪口を言う人間になってしまい、自己嫌悪に陥ります。 大人になると、言われたから言い返す、やられたからやり返す、「目には目を」的行為は『自分までレベルダウンするので恥ずかしい』という気持が勝ちます。 ですので、下手をするとやられっ放しのバカになってしまいます。 怒りに任せて醜態を晒すことなく静かに完結しようとすると、立ち去る以外、どのような解決策があるのでしょう。 話し合いですか? 何度も大幅に遅刻してきて「子供がいる人は遅刻くらいしょうがない」と平然とする大人を相手に、どのような説教を垂れれば良いのか、私には分かりませんし、そこまでアツクなる余力もないのが本音です。 それでもまだ『度量が無い』と称されるのであれば、『あの~、何回までスッポカシされるのを我慢したら度量がある人間と思ってもらえますか? ずっと・・はキツイんですけど』と今度はpudding11さんの度量の大きさを求める質問をさせていただくことになります(笑)。 決してpudding11さんの考えが間違っていると言っているわけではないので、その点は誤解しないで下さいね。 自分の意見を人と分かち合うのは非常に良いことです。 ただ今回の場合、「疎遠という対策」を選ぶのは、本当にケースバイケースだということ。 十羽一絡げに「簡単に縁を切る人=人を許せない・度量がない」と締めくくらず、個々の事情を理解する度量も逆に必要では?と、『縁を切る人』側の私はそう思いました。 とても考えさせられる質問でした。答えを考える機会を与えてくださって有難うございます。
- jyukkasapp
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>縁を切るということを簡単にできる人のメンタリティはどういうものなんでしょうか。 そういう人たちは人間関係(いわゆるコネ)を消耗品と認識している、と考えれば説明はそれなりにつくようです。 「彼との人間関係は少々キズがついたから、新しいの調達しよう★」 人間関係を財産として捉えるなら、彼らは”裕福”なんですよ。 多少の出費もそんなに痛くない。 >縁を切った方が絶対的なアドバンテージを社会的には持つんですよね。 きっとそれは 「他にも友達は沢山いるから特定の人間関係に固執する必要が無い」 という余裕が評価されているのだと思います。 >完全超人ともいえるような人はこの世に存在するのでしょうか? 極めて豊かな人間関係を持つ”富豪”はいます。 この世は格差社会なんですよ? 人間関係という物差しではかったとしても、ね。 参考:社会的交換理論
- toshipee
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類は友を呼ぶと言います。学校の友達作りを見ていて感じますが、似た者がグループを作ります。やんちゃさんグループ、おとなしいさんグループなど。そのグループでモメるんですね。で、グループを出ようとして相談に来る。「他に行くとこあるか?」それでも出ていく子は、渡り歩き、退学していきます。 ヒトはいろいろなタイプが居ます。そのベクトルが似たものがグループを作る。だけど、完全に同じ者は居ない。あなたの言うメンタリティは、それこそありとあらゆるモノがあることを、ムリヤリひとつの答えを求めているように感じます。だから縁を切るし切られる。似たものなんですよ。だから寄り添った。君も、縁を切るヒトを許していないのです。故に周りにそういうことが多発すると考えるべきだと思います。 そういう縁切りは私の親しい周りではあまりありません。他の回答者さんがおっしゃる錯覚は、そういうところから起因していると思います。
- spaider01
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「縁を切った方がアドバンテージを持つ」というのは錯覚ではないかと思います。 「縁を切る」とはそもそも相手のある話であり、本来その効果は対等に及びます。そこで、先に縁を切ると言った方が、相手の方に一方的に問題があるということを、さももっともらしく共感が得られるように加工して公言し、実際に共感が得られてしまっているような場合、そのことが切られた方にとって人間関係の維持形成上、不利に作用するという意味で縁を切ると言った方がアドバンテージを持つと言い得ているのだと思います。 「切った相手にダメージをあたえる」というのも同じで、そのダメージというのは縁を切ったこと自体でなく、それを説明する過程で行われる誹謗によって与えているということだと思います。 恋愛関係でもなければ、わざわざ切ってくる相手に切られたくないとは思わないのが普通なのではないか、お互い様ではないかと考られるからです。 「切られた方の人間性にまで言及・・・する意見」がどの程度、その切られた個人を特定できるように公言されているか、は問題になると思いますが、一般的な考え方として誰がどのような価値観を持つか自体はやはり「本人の問題」でありその人の自由と言わざるを得ないと思います。それと異なる価値観を主張してもそれが相手にとって主観的に説得的でないなら、それを絶対的に批難するということは原則としてできません。 また、「“だからこれ以上関わらない”などという行動に出て人を傷つける」という考え方を絶対化すればそれはそれで逆にその人の考え方の善し悪しを客観的に断定しているということでもあり、一方でそれによって傷つけられるかどうかはその人の主観の問題でもあります。 「人を許せる人が減りすぎていないか」というのも、そう思っている人はそうだと思うし、そう思っていない人はそうでもないと思うという次元でしか答えはでないと思います。その上で私の主観で答えれば、どちらかというとご質問者さまの感覚に近いです。どのような感覚を持つか自体は、どのような価値を重視しているかによります。 ご質問者さまの感じとっている雰囲気に似たものを象徴することとして、90度を超える急な角度のついたT字路交差点の停止線で車を一旦停止して左右を確認しているときその対向車線に右折してくるドライバーが、完全にハンドルを切り過ぎなおかつ適切な減速をしないで右折してきて自らが中央線を大きく食い込んできているだけなのに、一旦停止しているこちらの方を「前に出過ぎて邪魔をしている。最近は常識のないドライバーが増えているがコイツもどうしようもない奴だな…」とでも言いたげに、さもダメな奴を指導するかのように睨みつけながら通り過ぎていくような状況認識のおかしいか想像力の乏しすぎ、“間違った認識で簡単に人を断罪”するアホと出会う機会が増えており、私は一々そんなドライバーに「文句を言ってかかわり合う気にもなれねーな、最近世の中おかしいね」ということがあります^^;。 仮に、いま私の主張している認識が絶対正しいという人から見れば、なるほどということになりますし、そうでない人からみれば、それこそ「何さま?寛容性乏しすぎだろう」ということになると思います。 このことからは、当然に自分が正しいと信じ込む一種の幼児化の進んでいる人がいくらか増える傾向にあるのではないかと個人的には思うこともあります。幼児は自分の主観に反することをなかなか認めません。・・・というのが「私の主観」です。 しかし、一方的に断定されそれに基づいて対応が変わったとしても、それのみで「傷つく」かというとれは傷つく側の自由みたいな話で、たとえば、通りがかりに犬にエサをくれてやろうとしたのに、その犬に吠えられて傷つくかどうかは本人次第です。 ですから、「傷つく」ということを「不快になる」とか「不利益を被る」というように読み替えた上で、厳密には「何によって」そうなっているのかを考えることが生産的かもしれません。 「従来、通常期待されていた寛容性に著しく乏しい人が増えている(かもしれない)」という問題と、その認識についての相対性の問題と、「縁を切られた方が傷ついているのではないか」という問題とは、本当はそれぞれが微妙にズレて別の次元の問題なのではないかと思います。 そして、縁を切られた場合に、“復縁”を求めたが結局ダメな場合、そのうちの大抵の場合は、それは自分からも改めて縁を切っている状態なのだと思います。 したがって、「縁を切ることが簡単にできる人」と「それを絶対理解できない人」の縁を切るということに関するメンタリティは、ほぼ同じと言えると思います。
- siroka
- ベストアンサー率45% (10/22)
こんにちは。 人を許せない人、度量が無い人が増えているかどうかというのは私にはわかりません。 確かに、「そういう話をネットで目にする」機会は増えましたが…インターネットというものが簡単に様々な情報を拾ってしまうので目に付きやすくなっているだけのようにも思えますし… 単に昔は自分の見聞きする範囲が限られていたせいでそこまで目に付かなかっただけだと私は考えています。 私が出会った中にもすぐに縁の切れる人は何人かいましたが、別段多い数ではないのではないかと思います。 世の中には色んな人がいるもので、質問者様がいう「そういう人たち」も、そんな中の1人に過ぎないと思います。 私は質問者様の仰るタイプの人間では多分ないので、メンタリティ云々はわかりません。ある人は人に対する執着が少ないのかもしれないですし、ある人は自分と趣味や価値観の合う人たちとだけ関わっていきたいタイプなのかもしれません。狭く深い付き合い方を好む人も中に入るものです。どちらにも長所と短所があるので、それが正しいとか間違っているという判断はできないところです。もっと他に色んな考え方があると思います。 堪え性の無い人が増えたとは思いますが、それは仰るような人たちに限ったことではないですし… そういう人たちを認めてあげる度量さえあれば気にならないと思いますよ。「あー、勿体無いなぁ折角の友達なのに」と思うくらいで。 度量が狭い人と対等な人間性=完全超人ではないですよね。度量が狭い時点で完全ではないですから。 完璧な人間なんて世の中にはいないものです。そして人が感じる短所と長所も時や場所、相手によってコロコロ変わっていくものです。 別に人に「あの人は人を許せない人」なんてレッテルを貼って型にはめる必要はないと思いますよ~。そうやって見えているのもその人の一面に過ぎないですから! と、答えになっておりませんが… ちょっと考えたくなる、面白い質問だなぁと思ったので回答させていただきました。(あ、面白いって変な意味じゃないです…!)
- jinseiwalk
- ベストアンサー率23% (372/1603)
人を許せない・度量がない人が多い世の中ですがそんな人たちと誰もが付き合いしてますのであなたがたった一人できているように思っているのは誤解です。 ですので、普通の人が誰でもしていることを完全超人というのは大げさ以外の何者でもありません。 縁を切るということを簡単にできる人のメンタリティはあなたが書いているように度量がない人です。 質問自体に何か煮え切らない思いが感じられるので答えも同じようになります。