見たこと会ったことのない人の顔やらを知ってるとは???

このQ&Aのポイント
  • ウェブのハンドルネームを通じて意見交換する相手は、実際の友人ということもあるが、全く面識のない匿名の相手が他人の容貌や生い立ちを詳しく知っていると主張するのはあり得ない。
  • このような発言を繰り返す人々は心理的に何かあるのか、また精神的な問題があるのかと疑問に思う。
  • 攻撃的な言動を続ける人々は特定の相手を避け、婉曲な表現を用いるが、質問のスレッドを乱すことになり、他の人々に無視されたり、人気を失ったりすることもある。宗教的な言動も多いが、心理面とどのような関連性があるのか不明である。
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見たこと会ったことのない人の顔やらを知ってるとは???

きょう、こちらのサイトで、大変奇妙な発言を見かけて疑問を感じました。これは以前からも時々首を捻っていたことです。 こうしたウェブのなかで、ハンドルネームというものを使用して意見交換などする相手は、個人的なホームページなどでは、すでに実際の生活での友人だったりすることも多いですね。 しかし、全く会ったことのないままであるはずの匿名の相手の 「顔を知っている」「こういう容貌である」「生い立ちがどうこうであったゆえ、こうこうなっている」 などという非常に訳知り顔の断言的発言は、警察捜査でもないかぎり現実には当然あり得ないわけですが、それでも、このような発言を繰り返す人というのは、心理的に何かあるんでしょうか。 それと、誰某は「気違い」であるという中傷断言も多いので、単に閲覧しているだけでも見苦しさを感じますが、本人自身の精神状態の投影みたいなものですか? ただ、実際に、当の相手を確定して言うと、大変マズイことになるという怖れだけは自覚しているようで、そのへんは婉曲なんですが。 にもかかわらず、勝手に攻撃感情を刺激されたらしい対象相手の傍に出没しては、非難めいた発言を繰り返し続けずにいられないという癖が甚だしいので、特定を避けて婉曲とは言えど、さすがに、当の相手から切り返されたりもしているようです。 質問のスレッドを実際に荒らす形になってしまっているのも多過ぎます。 殆どの人は無視されておられますが。なかには、この人物が原因となって、せっかく見識と人気もあったのに、ぷっつり来られなくなった人もおられるようです。 何か宗教にかぶれているのかというような奇妙な発言も多いようで、実際に自分でも、そういうサイトをやっていることを公開しているのを見かけましたが、こうしたことと心理面には、どのような関連性があるものですか。やはり、現実の生活における何かしらの深い不満を抱えているのでしょうかね。 ウェブにおいては、こういう言動傾向のある人が、他の公的場に比べて、格段に多くなるのは仕方がないことでしょうか。

noname#29281
noname#29281

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noname#163132
noname#163132
回答No.3

No.2です。 >投影・同一視の傾向性の強さと、ウェブでの問題の関連は非常に大きいと考えられます。これは実際、かなりの緊急課題かもしれません。 これらは共依存と深い関わりがあると思います。 共依存の心理状態にある人は、投影・同一視の傾向が強く出ると思います。 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/3875/kyouizon.html 以下の文章は、上記サイトからの引用です。 《共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に認められることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、またその献身は結局のところ、他者の好意を(ひいては他者自身を)コントロールしようという動機に結び付いているために、結果としてその行動が自己中心的、策略的なものになり、しだいにその他者との関係性から離脱できなくなるのである。(加藤篤志) つまり、自分の内面が空虚で他者の評価を必要とするだけでなく、他者の評価を獲得するために他者を道具として利用する人たちのことをいう。一般的傾向としては、他人の世話を焼きたがる割には、他人に対して不誠実で策謀的な点があげられる。》 私は、共依存とはナルシズムや自己陶酔を伴うものだと思います。 本気で相手のことを思ってと言うよりは、自分に欠落した自信や価値観を相手から得ようというものなので、自他の境界が分からなくなりがちなのだと思います。これは前回の回答の補足にもなりますが、 >全体に、周囲の者からの影響を良くも悪くも受け易い性格なのだろうかと思えるくらい、言動が常からグラグラグラグラしてるんですが、その反面で、非常に反発心と傲慢さが目立ちます。 と仰っていましたが、それは、その人の自他の境界線があやふやだからだと思います。 だから、後にも触れますが、主語を取り違えて自分に向けられたものと思い込んで返答していたり、段々相手の言動に似てきてしまったりするのだと思います。 反発心と傲慢さは、人の出方によって生まれるもので、自分の内面から湧き上がる感情の殆どを占めるものが怒りなので、あまり独創性を持ち合わせていないのだと思います。というと、きつい表現になってしまうけれど、情緒的な微妙な心の移り変わりを感じ取ることが不得手なので、どうしても表現が乏しくなってしまうのだと思います。 だから、自分でも人のことを誤解して回答していたり、きつい表現で相手を怒らせてしまったり、ずれた言動をしてしまうのだと思います。 そして、本来怒らせる必要がなかった人まで怒らせてしまうのだと思います。 その様にして、人の感情の移り変わりの前後関係も良く理解できないので、その場に居合わせた人を巻き込んでしまい、更に話の軸がぶれていってしまうのだと思います。 結果的には荒らし行為になっていても、必ずしも自分が火種になっていると思ってはいないと思います。 また、内面が理解できず形から入っていくので、話者が意図したことが理解できずに言動を真似ることによって(皮肉っている場合ももちろんあると思いますが)、理解したつもりになっているのだと思います。 会話に参加するときに、自分の言葉が湧き上がってこないけれど、存在を強く示したいので、どうしても中傷スタイルに傾いてしまうのだと思います。 話を戻しますが、ここのサイト自体も共依存的な関係を作り出しやすいところだと思います。 ネットそのものが、依存症を作りやすい性質が強く(ネット依存症)、ここも「助け合いのサイト」という性質があるから、共依存者はのめり込みやすいと思います。 共依存者自身が機能不全家庭で育ったAC(アダルトチルドレン)が多いとか色々と言われていますが、それは現実に言えると思います。 家族らしい家族を持たなかった人、保護者を早くに亡くしてしまった人は、共依存に陥りやすいのだと思います。 補足でも人格障害のことを仰っていましたが、共依存も人格障害もACも根っこは同じで、機能不全家庭に起因するものだと思います。 機能不全家庭に育つと、子供の頃から親の顔色を窺う癖が付いていて、外で他人と問題が起きた場合も親を“心から信頼すること”が中々出来ないので、自分の身は自分で守るという保身術として、相手の出方を見る癖が付いてしまうのだと思います。 親を信頼できずに育ったとしても、親のように信頼できる良い関係の人、例えば小学校や中学校などで恩師と呼べるような人と出会えたのなら、親から得ることが出来たであろう愛情と同等のものを受け取って、人を試したり攻撃したりと意図的としか思えない程、不自然に人の気を引く行為を繰り返すことも無くなっていったのではないかと思います。 しかし、その様な出会いもなく大人になると、適応する機会を逃して他者に対して屈折した感情を抱くのだと思います。 機能不全家庭で育っても、道徳意識が一般感覚として身に付く人とそうならない人の差は、愛情に対しての満腹度の違いだと思います。 愛情の欲求が高いと、自分への理解を強く相手に要求するし、賞賛を求めて、いつまでも満腹にならないのだと思います。 飢餓感が強過ぎると、良い出会いがあっても社会に適応出来る土台を作る機会を逸してしまうのだと思います。 親の様に見守って支えてくれる人に出会えていても、根深いものがあると、自分の方が受け止められなくなっていて、不信感から拒絶し、穏やかな感情が生まれないまま、人を遠ざけて来たと言うこともあるのではないかと思います。 何故そう思ったのかというと、日本で生まれ、義務教育が受けられる環境に育ったのなら、余程、束縛のひどい家庭に育ったのでなければ、何処かで必ず良い出会いが巡ってくる機会があったと思うからです。 でも、出会いに気が付けず(もしくは受け入れたくなかったので)、心の中の蟠りが解けることもなかったのじゃないかと思ったからです。 だから、実際に自分の身近にいる人間よりも、書物や宗教に走ってしまったのではないかと思います。 その人にとっては、ここでの人間関係も、書物を読むのに近い感覚なんじゃないでしょうか。 相手を実在している人だとの実感がないから、口汚く罵ったり、後を追ったり、 「顔を知っている」「こういう容貌である」「生い立ちがどうこうであったゆえ、こうこうなっている」「誰某は気違いである」 といったことを叩きつけてくるのだと思います。 別に、小説の中の人物に対して感想を持つのならそれでも良いですよね。 でも、そう言った文章を特定の人に向けて挑発的に送りつけてくるのは、自身が現実を生きている感覚が乏しいからだと思います。 自分が現実感を持って生きていないから、執拗に人を責めさいなむことで自分が生きている実感を得ようとしているのだと思います。 そして、自分が生きている実感を持てないからこそ、人に向かって無責任な発言が出来るのだと思います。 つまりは、相手のことも何処か夢や幻のように感じている ――「幻に責任を持つ必要はない」 そんな風に捉えているのだと思います。 また、関係妄想も抱きやすい上に(主語を取り違える)、自分が否定されたと受け取りやすく、相手に悪意がなくても(自分に向けられた言葉でなくとも自分への悪意と受け取ったり、言葉を重く取りすぎる)痛いところを突かれたと感じ取ることが多いので、自分には人を攻撃する正当な理由があると思い込み勝ちで、常に怒りを感じやすく、いつまでも挑発行為と攻撃が止まないのだと思います。

noname#29281
質問者

お礼

>愛情に対しての満腹度の違いだと :あ、このあたりも、以前から感じていたことです。 よく用いられる譬えとして、「コップの水が半分」しかないと思うのか、半分も残っていると思うのか、という違いが挙げられますが、親子関係ということでは、いかに実親子であっても、相性の問題などはあるようですが、それはさて置いても、同じように育てられた兄弟姉妹間でも、感受性やら、全くと言っていいほど違ってきますからねえ。 家庭環境が要因というよりは、それは引き金にはなりやすいだろうけど、本当の原因は「満腹度の違い」、これじゃないかと思っています。 「不信感からの拒絶」というのも、他人が表面だけ見ていても、なかなか理解できるものではないなと思うんですが、非常に親和感があるようでいて、そのくせ、同時に拒絶感が漂っているかのような、希求しつつ拒んでいるかのような、実に背反的な人もいますが、こういったことも「グラグラ」の原因になってるんでしょうかね。 >その人にとっては、ここでの人間関係も、書物を読むのに近い感覚なんじゃないでしょうか。 :うーん、そう思われますか。わたしは、逆かと思ってました。 だって、書物のなかの人物に、そんな執拗な熱を持つものですかねえ。書物に登場する人物というのは、ノンフィクションは別として、たとえ、その属性が完璧に表現されていたとしても、飽くまで虚構ですが、むしろ、こうしたウェブ、いわゆる仮想空間と称される場での相手というのは、「確証なき実在」とでも言えばいいのか、とにかく、実在の人間であるという確信の土台のうえに、自分勝手な属性をぺたぺたと貼り付けてボンボン膨らませていってるんじゃないかという感じですね。それを助長したがると同時に、やがては、それが、やれ容貌はこうで、生い立ちはこうで、という訳知り顔になるんじゃないかと。 なおさら奇妙なことに、その相手を「知っている」と言うんですから。いったい、どういう意味で発言しているのかと驚きました。やっぱり「電波系」とかオカルトですか(笑) あっしかし、「幻に責任を持つ必要はない」 似た傾向性の人物が、これに同様なことを言ってたのを見かけたことはあります。しかし、おかしいのが、やはり、その幻のはずの相手の意向やら真意やらを追いかけて追いかけ続けるんですね。どういうことですかね。 ありがとうございます。 続いての御回答に移ります。

noname#29281
質問者

補足

> 共依存とはナルシズムや自己陶酔を伴うものだと > 本気で相手のことを思ってと言うよりは、自分に欠落した自信や価値観を相手から得ようというもの :一種の代償行為なんですね。そのために、利用しやすいと見た他者を利用する。しかも、そこに、うぬぼれがある。 「自他の境界線があやふや」ということに、なるほどな、と思いました。自分自身で、しっかりした判断の最終基準を持ち合わせていないんでしょうか。それだから、良くも悪くも周囲からの圧を自ら引き寄せて受けてしまい易いのか。しかし、それだと、いわゆる「KY」と言いますか、周囲の雰囲気を、ことさら険悪にしたがるものだろうか?とも思いましたが…。 誤解や、ずれなどは、一旦生じると、早い段階で手を打たないと、どんどん、本来の焦点から遠ざかっていってしまうのは当然だと思いますが、どうも、見てると、わざと誤解させて楽しむことや、ずれというものを、創造的発展の可能性を孕むものとして、むしろ大いに歓迎しているふしさえ窺えます。一概に悪いことではないでしょうが、極端になると、やはり問題が起きるのは当然でしょうね。 これは、日本語に特有の問題なのか、主語というものを省いても会話が成り立つという特徴がありますから、本当に話者が何を言わんとしているのかを判断し理解するには、文脈ということが重要になります。ということは、文法などの表面的形式的な条件だけでは、すぐに限界が来ますから、そこで、よく言われる「行間を読む」だの、言葉の裏を探ったりやらというテクを駆使して、相手の真意を探らなくてはならなくなる。 そうした細かな注意深い努力を要請される側面では、日本人の国民性として、よく言われる、みなまで言うな、わかってくれよ的「甘え」も起きがちですし、しょっちゅう勘違いも起きて不思議はないですし、だから、是正するべきは、さっさと是正するべきです。放置していたらロクなことがない。 実際に、何かの思ったことを発言したところ、その発言が、どのように聞き手の「痛いところを突かれた」と感じさせたのかは不明なのだが、以後、ずうっと、その一点をめぐっての発言が、最初の発言者に向けられ続けた、という状況があったとします。すると、その継続理由について、最初の発言者は、自分の発言に、その理由があったものらしいと推測するのは、これは当然の成り行きです。そこで、相手に確認をとろうとしたところが、相手は一切まともに答えようとしないで、相変わらず同様のパターンで継続する。 関係妄想とやらいうものも、恐らく、こういったことのなかで助長されていき、密接に関わっていると思います。 つまりは、こうした情況を敢えて作り出す者の「悪意」を疑われても仕方がないということですね。 そして、その悪意を疑われる者自身が、もともとは、疑う側に立っていたのではないでしょうか。 要は、自分のなかの疑心を相手に投影した結果、今度は自分が疑われる側に立っていたってことではないでしょうか。 必ずしも、家庭環境に原因が見出せるのかどうか。 わたしの見るところ、多分、本人もよく理解できていない何らかの原因で、自分自身への根深い不信感があるのじゃないかと思います。 > 荒らし行為になっていても、必ずしも自分が火種になっていると思ってはいないと :そのようです。見てると、本人は良いことをやってる正義漢のつもりらしい。 その前に、もともとQ&AならQ&Aとして最低限度の則を越えなきゃいいんだけど、明らかに横レスと言うべき余計な投稿をやり続けて結果が、おっしゃるところの「火種」になってるんですよ。 ところが、その横レスを、聞き咎めるほうが悪いという、実に手前勝手な言い分です。 > 内面が理解できず形から入っていくので、話者が意図したことが理解できずに言動を真似ることによって(皮肉っている場合ももちろんあると思いますが)、理解したつもりになっているのだと :自覚のない相手の姿を身をもって突きつけてやるという意味での、多かれ少なかれ皮肉を帯びた真似行為もあり得るとして、それは別の次元のこととして、 結局、理解能力が低いゆえの、形から入るしかない、真似るしかない、という行為ですか。 > 会話に参加するときに、自分の言葉が湧き上がってこないけれど、存在を強く示したいので、どうしても中傷スタイルに傾いてしまうのだと :うーん、確かに、中傷することで、注目は集めやすいですからね。 > ここのサイト自体も共依存的な関係を作り出しやすいところ > ネットそのものが、依存症を作りやすい性質が強く(ネット依存症)、ここも「助け合いのサイト」という性質があるから、共依存者はのめり込みやすいと :特に、ここの一文は、今回の質問最後尾の疑問に、端的に答えていただいたと思います。         

その他の回答 (3)

noname#163132
noname#163132
回答No.4

No.3の続きです。お礼が遅れましたが、レスありがとうございました。 >本当にしたいことについて悩んだことのない人があるだろうかと思います。殆どの人は、それでも、現実の厳しさに、なかば押し流されるようにして社会のなかに出ていって生きていきますが、その点でも、世間でよく取り沙汰される(老若男女、経済的貧富を問わず)ひきこもり的生活状態の人のウェブ世界へ向ける独特の執着が指摘されるところでしょう。 そうですよね。説得力に欠ける回答だったと私も思います。 本当にしたい仕事に就ける人は僅かだと思うし、環境を選べなくとも、そこからささやかな幸せを見いだしたり、理想に近づけようと努力する過程を楽しむのが人生だと思います。 辛いこと理不尽なことが、どれほどあったとしても。 人生は、登山やマラソンと同じようにゴールまでの道のりには苦楽は付き物で、誰もがその点では平等ですよね。 でも、特別視されることを望む人は、得てして、 「自分が身に負ってきた苦労や努力は並大抵のものではない。 誰もが想像できないような苦痛に耐えてきたのだ」 と、ここでも自分が特別であったかのように思い込み勝ちだと思います。 そして、 「とてつもない苦痛を強いられてきたのだから、優遇されてあたりまえだ。自分にはその能力がある」と誇示したがる傾向があると思います。 また、ご考察いただいて再考したのですが、本当にしたいことがないと思っていると言うよりも、本当にして欲しかったことを一番して欲しかった人から与えられた実感がないので、飢餓意識から、欲求不満が募っていると言った方が近いのかもしれないと思いました。 恐らく、その人は一番認めて欲しい人に認められなかったと感じているのだと思います。 その一番認めて欲しい人とは母親だったんじゃないかなと。 そこのカテゴリは投稿したこともあるし、度々読んでいますが、話題に挙げていらっしゃる人物と思われる人の書き込みをいくつか目にしたことがありますが、その人は、世の中の母親に不信感を持っているようなんですよね。 その感情は、多かれ少なかれ持っている人はいるもので、珍しいことではないと思いますが、持っている人もどうにか乗り越えて、初めて、社会に承認されていると心から思えるのだと思います。 でも、それが出来ないので、挑発行為を繰り返してしてしまうのではないかと思います。 つまりは、発達心理学で言う「基本的信頼感」の獲得が上手く行かなかったのだと思います。 《「基本的信頼感」とは、人がこの世に対して抱く信頼感の事で、赤ちゃんは、「この世に受け入れられているんだ、信頼してもいいんだ」と感じて安心できると、自分の生と自分を取り巻く世界を受け入れて、その信頼感を自分の心の土台にしていくといいます。 また、赤ちゃんは何も出来なくとも、何をしても許されて、深い愛情に包まれて、人生への「希望」と、人への「基本的信頼感」を育んでいきます。》 ――なお、この文章は、下記のリンク先を参考にまとめたものです。詳しくはリンク先をご覧になって下さい。 ◆ http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/koneko/3hattatu.html 『心理学総合案内こころの散歩道』 《HPトップ:http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/「心理学入門(心理学講座)」 → 3.1 心の発達1(発達心理学:赤ちゃん、幼児、小学生、思春期)》 ◆ http://www1.kiwi-us.com/~skyearth/psy/Kakuron/four.html 家族不在と感じていると、ネットに引き込まれてしまいやすくなるのだと思います。 マザーテレサの言葉に「愛の反対は憎しみではなく、無関心」というのがありますが、私は、「共依存の逆は無関心」だと個人的に思っていました。 共依存の逆とは、「誰も必要としないし虚栄心もない」と言うことだと思っていたからです。 以前、こちらのサイトで、 「“自尊心”が欠落している人は、それと良く似たもの、“プライド”で補うものだ」と仰っていた方がいました。 目から鱗が落ちる思いでしたが、“共依存”と“愛”についても同様なことが言えると思います。 自尊心と愛には、自分と相手、世界そのものを大切に思う心があるけれど、プライドと共依存には利己的で打算的なものがあります。 自尊心が欠落していると、“共依存”と“愛”を取り違えて、他者も世界も自分の都合ばかり重んじて、そのままを受け入れることが難しくなってしまうのだと思います。

noname#29281
質問者

お礼

はなからズレてて、これは話すだけ時間の無駄にしかならないことを厭う場合には、サッサとスレを閉じてしまいますが、ある意味では、余裕がない(特に時間)のは認めざるを得ませんが、敢えて余裕をかけてやるだけの値打も認めてないわけで、要するに「ブロックリスト」とかいう新機能じゃないけど「門前払い」で排除できなかった余計ものを、あらためて門外へ締め出すしかないということになります。まあ、30秒以内で考えたとしか思えない程度のことを披露するだけで「強迫的」と指摘されてしまうような者が、自分を棚に上げて、「精神的余裕」などを言うのを見るのは、噴飯ものですが。 一応、このあたりで返信しておきます。 ご貼付いただいた参考サイトも、ざっと拝見しておきました、すでに、だいたい承知している内容ではありましたが、イイカゲンな記憶でしたので、おりを見て、ゆっくり見直しておきます。 ありがとうございました。 近く締め切るつもりです。 勉強になりました。

noname#29281
質問者

補足

続いての御回答、ありがとうございます。 実は、この25日、急ぎ退会するつもりでおりまして、ここを締めようと思い、来てみたら、続けて御回答をいただいており、しかも、またまた懇切極まる内容で、とにかく、まじめに返信させていただかないわけにいくまいと、ひとまず退会予定を繰り延べることにしました。 字数制限に引っ掛かったので、本来は、先回ご回答への返事の最後部を、ここに移しておきます。 > 現実感を持って生きていないから、執拗に人を責めさいなむことで自分が生きている実感を得ようとしているのだと :自分は直接経験がないですが、なんて言いましたっけ、リストカットとか言うんですか、これをずっとやり続ける人の話を聞いたことがありますが、手首や腕を切ることで、自分が確かに生きているという実感を得るんだとか。 なんにせよ、生きている実感の希薄さみたいなことは共通点なのですかね。 さて、 > 特別視されることを望む人は、得てして、 「自分が身に負ってきた苦労や努力は並大抵のものではない。 誰もが想像できないような苦痛に耐えてきたのだ」 と、ここでも自分が特別であったかのように思い込み勝ちだと思います。 そして、 「とてつもない苦痛を強いられてきたのだから、優遇されてあたりまえだ。自分にはその能力がある」と誇示したがる傾向があると :「特別視されることを望む人」には、不幸すらも自慢の種ですかね、(笑)なるほど、ま、これも、人の苦労を実感できない以上、自分の苦労を重く見るのは、どうしても仕方のない面もあるでしょうけどね。 このあたりは、所有欲や独占欲、保身欲などに関係しそうです。 > その人は、世の中の母親に不信感を持っているようなんですよね。 :ああ、、それは知りませんでしたが、そう言えば、母親との関係に問題があったから、誰それは、こうなったのであるとかなんとか、聞かれてもいないのに、まぁ、よくも見てきたような断言口調で演説しやがるわ、と苦笑して見てたことを思い出しました。そうですか、他でも言ってますか、そういうことを。 > 発達心理学で言う「基本的信頼感」の獲得 :ということで、結局、自分自身への信頼感を損なうことに繋がっているんでしょうね。 自分を信じられなくては、他者を信じることも困難でしょうから。 このあたり、哲学カテゴリだと、間主観性の問題と関わらせて論じることもできそうですが、 しかし、すべてが赤ん坊の頃に何かあったらというわけなんですかね。親の不手際が原因だとしたら、初めて子を持った若い親なんて、ほとんど皆、将来の問題人物を作り出しているようなもんですが。 > 共依存の逆とは、「誰も必要としないし虚栄心もない」と言うことだと思っていた > 以前、こちらのサイトで、 「“自尊心”が欠落している人は、それと良く似たもの、“プライド”で補うものだ」と仰っていた方がいました。 > 自尊心と愛には、自分と相手、世界そのものを大切に思う心があるけれど、プライドと共依存には利己的で打算的なものがあります。 自尊心が欠落していると、“共依存”と“愛”を取り違えて、他者も世界も自分の都合ばかり重んじて、そのままを受け入れることが難しくなってしまうのだと :自尊心とプライドですか、辞書を見ても、似たような説明になってますが、プライドというのを、要するに「見栄」の意味合いが強いとみたらいいでしょうかね、すると、共依存は「愛のニセモノ」とでも言えますか。 そうしてみると、ニセモノの世界に安住しようとしていることになりそうですね。 まあ、しかし、こうしたことと無縁で生きて来れなかった人も多いのでしょう。実際的には、病的になってくると、いっぺんに問題が大きく目立ってくるんで、恐らく、他者の評価に全く無関心とか、見栄感情を全く持たない人のほうが珍しいくらいだと思います。というか、それはそれで、かえって生き辛い側面も出てきそうです。 マザー・テレサのことが少し出ましたが、なんとかいうミュージカルの歌で、島田何とかいう女性歌手が歌ってるのを聴いたことがありました、「人を必要とする私でありたい」とか、そんな内容の歌詞でしたと思います。キリスト教と関係した内容なんですかね。 「誰も必要としない」のが、それこそ怖れとか、プライドの変形だったら、これはこれで問題がありそうな気もするんですが、どうも結局、「受容」ということが大きく絡んできそうな気がします。それも、相互間のものとしての。                               

noname#163132
noname#163132
回答No.2

先ずはじめに、一般論としての回答だということを お断りしておきます。 私のこの回答も推測の域を出ないからです。 *  *  *  *  *  *   >全く会ったことのないままであるはずの匿名の相手の 「顔を知っている」「こういう容貌である」「生い立ちがどうこうであったゆえ、こうこうなっている」 などという非常に訳知り顔の断言的発言は、警察捜査でもないかぎり現実には当然あり得ないわけですが、それでも、このような発言を繰り返す人というのは、心理的に何かあるんでしょうか。 >誰某は「気違い」であるという中傷断言も多いので、単に閲覧しているだけでも見苦しさを感じますが、本人自身の精神状態の投影みたいなものですか? プロファイラーや霊能者に憧れている、もしくは自分にはその資質があると自己陶酔しているのだと思います。 元々、相手を怒らせることが目的なので事実はどうでも良く、あっていても間違っていても自分は痛くもかゆくもなく、 「他人のことはどうでも良い」と思っているのだと思います。 要するに相手を痛めつけて、第三者からも その人に対しての悪いイメージを植え付けられたら、それで成功だと考えてのことだと思います。  質問があって、その質問の回答者として参加しているのなら「まだしも」、回答者として参加して他回答者に対して挑発や中傷をしているのを見ると、酔っぱらいやヤクザの因縁のようで嫌な気持ちになります。 質問者に向けてなら「まだ良い」のです。 質問者は司会者的立場だから、その参加者を不適切と感じたら一方的にその場を締めることもできますが、これが回答者同士だと泥沼です。 相手の挑発に乗って、これに答えてしまったら、自分が荒らしになりかねないからです。 IDを取得するときに、規約を了承した上での参加になっているはずだから、挑発的な発言は本来してはならないことなのに、殊更繰り返す人をみていると残念に思います。 …というか、規約の意味さえ理解できない人に説教や文句をここで言われたくないですよね。 そして、その様な人をまともに相手しようとすると、こちらも規約違反のハンデを負わないといけなくなってしまいまうところが辛いところです。 だから、通報というシステムがあるのですが、すぐには機能しないのが辛い点です。 結局、ご質問にあるような挑発的な人は、自分の思い通りにここを作り替えて、規約違反者を増やしたいだけなのではないでしょうか。 ここでの流れを自分の都合の良いように変えていきたいと考えているのだと思いますよ。 差別用語や汚い言葉を躊躇無く使うのは、内面の表れと言って良いと思います。結局、心が荒んでいるのだと思います。 >実際に、当の相手を確定して言うと、大変マズイことになるという怖れだけは自覚しているようで、そのへんは婉曲なんですが。 にもかかわらず、勝手に攻撃感情を刺激されたらしい対象相手の傍に出没しては、非難めいた発言を繰り返し続けずにいられないという癖が甚だしいので、特定を避けて婉曲とは言えど、さすがに、当の相手から切り返されたりもしているようです。 使用停止になるのは困るからでしょう。 その人は、ここでの執筆活動が生き甲斐になっているのだと思います。 攻撃対象にされた人も、その人の執拗さに嫌気が差し、術中に填ってしまうのだと思います。 日常の音声としての会話なら消えて無くなるけれど、ここでの発言は文字として いつまでも残ります。 繰り返し嫌な言葉を見るうちに、感化されてしまうのが文字の困ったところです。 消えて無くなる物ならば まだしも、書き込みは消えない可能性もあり、そこにあると分かっていると気になる人は気になって、日常の会話だと反応しないことでも反応してしまうのだと思います。 >何か宗教にかぶれているのかというような奇妙な発言も多いようで、実際に自分でも、そういうサイトをやっていることを公開しているのを見かけましたが、こうしたことと心理面には、どのような関連性があるものですか。 自分自身が「救われたい」という願望が強いのだと思います。 だから宗教を研究したし、そこから得た知識を公開したいと思ったのではないでしょうか。 それが誰かの役に立つのなら、ある意味自分が救われるからだと思います。 また、同志を集めたいという願望も強い人なのだと思います。 >ウェブにおいては、こういう言動傾向のある人が、他の公的場に比べて、格段に多くなるのは仕方がないことでしょうか。 対面した上で、プロファイラーや霊能者のような発言をする人は先ず居ませんよね。 相手が引くのは目に見えていますから。 ウェブであると、お互いが顔が見えない分、本当の自分よりも大胆になる傾向はあると思います。 >全体に、周囲の者からの影響を良くも悪くも受け易い性格なのだろうかと思えるくらい、言動が常からグラグラグラグラしてるんですが、その反面で、非常に反発心と傲慢さが目立ちます。 No.1さんへのご返信ですが、意見を言わせてください。 その人には、まだ本当にしたいことがないのだと思います。 本当にしたいこともなければ、自分が必要とされた実感も経験もあったとしてもごく僅かなので、傲慢に見える反面、自分のことは信じてはおらず言動がグラつくのだと思います。 反発心と傲慢さは、人から必要とされたいのに人に認められた経験が少ないことから生まれた感情だと思います。 ですから、自分と系統の違う人をみると自分が否定されたようで、怒りや嫉妬心が沸いて反発したくなるのだと思います。 その人には、自分と言えるものがまだ確立されていなくて、他者に対する怒りの感情で自らを支えているのだと思います。

noname#29281
質問者

お礼

非常に懇切な御回答を、ありがとうございます。 スペースが追いつかず、No.1様の補足欄も使用して、長々返答いたしました。恐縮です。 質問者も少し触れた「人格障害」的問題、これは多分に他人との比較意識が強くならざるを得ない性向が寄与しているせいかと考えていますが、承認欲求と言うのですか、これの強さを満たそうとするがゆえの、先に出ましたような、誰かの役に立つ、立たねばならぬという強迫的意識が、往々にして押しつけがましいという傲慢さに繋がり易いのではないかとみております。 また、その目的の下準備的言動としての側面も持たされているのでしょうか、いやにキーワード的単語を並べたててみて相手の反応を試すという言動も、ときに見かけます。これが、なかなかに問題の種となることがありますようで。 実際に、どの程度、他者の役に立ててきたかは結局、本人の主観によるものでしかないのでしょうけれど、一番望ましいのは、本人と他者の見解が概ね一致していることですが、周囲の評価と本人の自己評価に乖離があって、そのことを大きく悩む場合に、いろいろと困ったことになり易いようです。 そこには落ち着いておられぬ嫉妬心ゆえからの怒りの (ただし、「怒り」というものにも様々な側面がありますよ) 感情なども湧くことでしょうし、これについて、自他の評価を一致させることができるまで頑張るのか、そこで心得違いのために、かえって他者の困惑や被害を招き、ますます評価を落としてしまうというジレンマに陥るか、いっそ大きく転換して、他者評価に依存しきった自己評価に拘らなくなるか、まぁいろいろなケースが考えられますね。   

noname#29281
質問者

補足

> IDを取得するときに、規約を了承した上での参加になっているはず :ところが、IDに関しても、格別の愛着があるとみえる特定のIDのみ、いくぶんの例外として、非常に奇妙な特徴が窺えるのですが、目まぐるしく変わるIDを一つ抹消するなり (取得し過ぎて記憶から漏れることもあるようですが、殆どは利停だろうと思われます) 同時に次のIDを取得して用意しておくのだそうですから、規約の了承なんぞは、とうに頭にないもののようですよ。 > 結局、ご質問にあるような挑発的な人は、自分の思い通りにここを作り替えて、規約違反者を増やしたいだけなのでは > ここでの流れを自分の都合の良いように変えていきたいと考えているのだと :そのようだと思いますね。 ご存じかどうか、バーガー社会理論とかいうものがあるのですが、そこにも、こうした行為を積極的に推進することの意義のようなことが説かれています。いかに俗物的学問知識の信捧者であっても、学者の唱えることの、ただ闇雲に真似ごとをしてもしょうがないだろうと思いますが、自分の嗜好や都合の良い志向に、どこまで周囲環境を合わさせることができるかで、自分の力を確認しようと考えるもののようでもあります。そういうところでも、ちょっと人格障害的特徴が窺えるのですね。もともと自分勝手な性分なのかしれませんが、そんなだから当然のこと、なんぼでも争い事は起きてきます。 > 差別用語や汚い言葉を躊躇無く使うのは、内面の表れと言って良いと思います。結局、心が荒んでいるのだと :言葉には、表面的な問題も内面的な問題も含まれてあると思います。 たとえば、ことさら、キーワード的単語を並べたてて、相手の反応を窺っている、そうせずにいられないらしい本人自身が、どこまで自覚があるものか一概に言えませんが、 内面の問題が根深い場合ほどに迂遠な手段などでもって覆い隠そうとすることで、むしろ、かえって表面に滲み出てしまう「毒」というものがあります。そういうものをも駆使して周辺環境を自己都合に合わせ思い通り作り変えていかずばおれないということは、それだけ、本人危急の事態であり、それゆえの希求でもあるでしょうから、それが思い通りには運び難いということと相俟って、心が荒む条件としては二重に揃っているとも解釈できます。 ましてや、おっしゃるように「まだ本当にしたいことがない」のだということが確かであれば、迷走状態に陥るのも容易いでしょう。 > 回答者として参加して他回答者に対して挑発や中傷をしているのを見ると、…(略)…相手の挑発に乗って、これに答えてしまったら、自分が荒らしになりかねない :実際、そうした場合も、当初の問題者以上に問題視されてしまうという、まことに皮肉な事態は、まま見られるものですが、はっきり言って、「二重の被害」と言うべき忌々しきことで、 > 通報というシステムがあるのですが、すぐには機能しないのが :大きなネックだと思います。 自分自身が荒らしになるまいために堪えるほうを選んでも、そのことで、なにがしかの安全は得られるだろうものの、やはり、堪えなければならないという、どちらにせよ、犠牲は強いられるわけですから。ましてや、ある程度の期間に渡るとなると、初期被害者は、なかなかのストレスを抱え込むことになるでしょう。 そこから、二次三次被害が起きてくることも、これも容易いことでしょう。ですから決して、自分を度外視した他人事にはできません。 > 繰り返し嫌な言葉を見るうちに、感化されてしまうのが文字の困ったところ > 書き込みは消えない可能性もあり、そこにあると分かっていると気になる人は気になって、日常の会話だと反応しないことでも反応してしまう そうですね。日常の単なる喋りことばであっても、常に繰り返されると、かなりのストレスを感じることが多いですが、文字として残っているものであれ、口に出す端から消え失せる話し言葉であれ、要は、そこから離れられればよいのですがね。離れられない場合に、困ったことが起きてくるようです。 多かれ少かれ自分一人だけの気ままが許されるような場であるならまだしも、たとえば、こうした場で回答者または質問者として、いったん遣り取りを始め出せば、それは、最低一人でも他の人間と接触しながら進行していく場ですから、「そこにあると分かっていると気になる人」は勿論ですが、「そこにあると分かって」いて反応せずに済ませるには、ときに極端な方策を採らざるを得ないこともあり、難しいものだと思います。 (このあと、No.1の補足欄へとお進みください)

  • RNFrost
  • ベストアンサー率29% (10/34)
回答No.1

IPやMACアドレスから個人を特定するのは出来なくはないですが、少なくとも私たちには無理でしょう。 個人的な予想ですが単なるイタズラだとおもいます。

noname#29281
質問者

お礼

IPなどから個人を特定できるということまでは、一般人には不可能でしょう。警察の犯罪捜査ならともかく。 まして、その発言者は、PCに詳しいわけでも全然ないようですし。 ●チャンネルに多そうな雰囲気の発言ともとれるんですが、おそらく●チャンネル常連者なのでしょうかね。そっちの悪しき影響を、もろにかぶってしまってるかのような言動です。 全体に、周囲の者からの影響を良くも悪くも受け易い性格なのだろうかと思えるくらい、言動が常からグラグラグラグラしてるんですが、その反面で、非常に反発心と傲慢さが目立ちます。 ストーカーもやるらしくて、被害を被った会員もいるようです。 霊視能があるんだとか言って、質問者を脅しつけているところも見たことがありますが、全く見たこともない者の顔などを知っているなどと言うのも、タチの悪い妄想からの発言なんでしょうが、多分、根深い精神的な病を持っているであろうと思われます。 それだけに、イタズラで言ってはいないと思います。本人は至極大まじめのつもりのようですよ。哲学カテゴリーを閲覧してみたら、すぐに目につくと思います。だいぶ削除もされてますが。 とにかく、手当たりしだい、自分が気に入らないと見た者に張り付いては中傷発言の横レスを一日中、毎日繰り返している体たらくですから。 これまで、すでに何度も利停処分されているようですが、全く反省が見られず、同じことを延々繰り返してますので、いいかげん退会させないのを不思議に思っていますが、なかには、変に持ちあげるようなことを言う他会員もいるのは、よくないことだと思います。こういう輩は、甘いことを言うと、つけあがらせるだけですのでね。 ●チャンネルの厨房じゃあるまいし、中年のオッサンにあるまじきヒステリックな言動を、こういう公の場で垂れ流し続けるのは、やめてもらいたいもんです。せいぜい個人のホムペなどで喚くくらいで留めておいてほしいです。 やはり、匿名だから、こういう弊害が起きるんでしょうかね。

noname#29281
質問者

補足

No.1様には失礼して、こちらの空きスペースをお借りします。 (No.2の補足欄から続いております) > 誰かの役に立つのなら、ある意味自分が救われるからだと > 同志を集めたいという願望も強い人なのだと :なので、いわゆる同一視の問題が起き易いのかもしれません。 誰かの役に立つには(害を為す場合にも同じくですが)、当然、他者が必要ですし、不特定多数を必要とする場合もあるでしょう。このあたりになりますと、もう宗教的要素が顔を出すようですね。 しかも、自分が救われることへの渇望が強いものであるほど、その執拗さが強くなるのも当然ということでしょうかね。 > 対面した上で、プロファイラーや霊能者のような発言をする人は先ず居ませんよね。 > ウェブであると、お互いが顔が見えない分、本当の自分よりも大胆になる傾向 :いや、わたし自身、この類の人と対面した経験はありますが、相手が引くかどうかなど二の次であることが多いようですよ。 それだけ、本人には、なにか特権的な自分という確信めいた心情あってのことかと思われました。それ自体が、ある意味の自己顕示欲の強さなんでしょうがね。 プロファイル的言説を、或いは霊能的言説を、或いは妄想的発言を披露するにも、相手からの要望もしくは合意あってのうえならともかく、それなしに、暴力的に言葉を押しつけ続けて憚らないという現象が起きがちなのは、やはり、匿名世界だからという面もあろうと思われます。 たとえば、こうしたQ&Aサイトと称していても、現実に対面している相手に、直接関係しない、たとえば独り言と見做されるような発言は、実際に発話したものの、大概は無視されるという仕打ち?を下されるものですが、このようなウェブ空間では、おっしゃったように、だいたいは、文字が残され続けます。 言うほうも自分の現実の姿を隠しつつ、ことばを投げつける相手の実際の姿も見えないわけですから。投影・同一視の傾向性の強さと、ウェブでの問題の関連は非常に大きいと考えられます。これは実際、かなりの緊急課題かもしれません。 > その人には、まだ本当にしたいことがないのだと > 本当にしたいこともなければ、自分が必要とされた実感も経験もあったとしてもごく僅かなので、傲慢に見える反面、自分のことは信じてはおらず言動がグラつくのだと > 反発心と傲慢さは、人から必要とされたいのに人に認められた経験が少ないことから生まれた感情だと > ですから、自分と系統の違う人をみると自分が否定されたようで、怒りや嫉妬心が沸いて反発したくなるのだと > 自分と言えるものがまだ確立されていなくて、他者に対する怒りの感情で自らを支えているのだと思います。 :本当にしたいことについて悩んだことのない人があるだろうかと思います。殆どの人は、それでも、現実の厳しさに、なかば押し流されるようにして社会のなかに出ていって生きていきますが、その点でも、世間でよく取り沙汰される (老若男女、経済的貧富を問わず) ひきこもり的生活状態の人のウェブ世界へ向ける独特の執着が指摘されるところでしょう。 ◇◇◇    

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