• 締切済み

悟りへ転換した後の真実の世界は何か?

noname#112847の回答

noname#112847
noname#112847
回答No.17

少し付け加えます。 最清浄法界より・・・出世心は生じる、について 座禅をしてゆくと、自分というものが段々に丸く小さくなってゆきます。 しまいには小さな点(種子)となってしまいます。 この点に法界(宇宙)の自然な働きかけが作用(加わり)して、智慧を得る(仏が生じる)というものです。 道元禅師の、法が仏を行じる、という言葉も全く同じだと思われます。 現代風に言えば、宇宙の自然な働きかけにより深い智慧に至る・・という事になるのでしょう。 三力成仏の三力を分ければ 我功徳力、如来加持力、法界力になりますが 座禅による法界力の感得は同時に深い智慧の覚醒でもあるのでしょう。 般若智の世界に入るものと思います。 座禅は密教から見れば、三密の中の一密行(身密)になりますが 仏教の実修面においての基礎となっている事は広く確かなものです。 より深い智慧に至れば、自然と向下門の教えの内容の如きになっていくのでしょう。 下り坂の世界です。 仏が世に出る・・という事になります。 法界が(宇宙が)仏を生み、行じてゆくのでしょう。 そうした事も自然なのかもしれません。 また、その世界の内容は、子供が大人の世界を理解できないのと同じように考えられると思います。 私達一般人が仏の世界を理解できないものの如くでしょう。 ただ、大人が子供を慈しむように、仏も私達を慈しんで下さっているように思えるのですが・・・・・(目に見えないところで) ご参考になれば何よりです。

noname#103014
質問者

お礼

玉城康四郎先生の説によればこの問題に関しては明快な回答は得られていないということのようです。 先ほど仏教学の専門家に聞いてきました。

noname#103014
質問者

補足

現在、上田 義文先生の 「摂大乗論講読」を購読中です。

関連するQ&A

  • 哲学することでは、悟りの世界には到達できないか?

    哲学することでは、悟りの世界には到達できないか? 言語活動で、目に見えない世界の真実に迫ろうとする哲学。 非言語活動の、瞑想や等で心の真実に迫ろうとする座禅。 西洋で生まれた哲学。 東洋で生まれた瞑想、禅 アプローチの違う二つ。 哲学は、瞑想、禅が到達する悟りの世界には、決して到達できないのか? 主張とその理由を述べてください。  

  • 「真実を仰ぎ、真実に生かされる生き方」とは?

    壁にぶつかったとき、親鸞聖人が法然上人から教えを受けて 「真実を体得し、真実を生きる生き方」から「真実を仰ぎ、真実に生かされる生き方」へ転換されたのです。 とある本に書いていました。 どういう意味でしょうか? 分かりやすく教えてもらえないでしょうか? お願いします。

  • 悟りを開くとは何ですか?

    私の回答を評価して 頂けると幸いです? 参照! http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q10128943180 私の回答! 質問 悟りを開くとは何ですか? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12128919567 自分自身を 偽りなく直視する事が出来 る事が 悟りであり、 全ての生き物が 自分の近親者の様に感じる事が 悟りであり、 自分自身が 幻想の世界(夢)に 生きている事を自覚するのが 悟りであり、 全ての物事の儚さと尊さに 気付く事が、 悟りであり、 悟りを開くと 過去(記憶)と未来(妄想)ではなく 現実の一瞬を生きれる様に成れる! しかし 副作用として 悟ると言葉が必要無くなるので、 言葉を徐々に忘れていきます。 過去への執着心が無くなるので 物事を記憶しなくなります、、、 、、、、、、、、、、 全てを悩みを 解決出来る様には成るが、 身体から解放されない為に 全ての苦しみを超越出来る死を 恋い焦がれる様に成る! 悟った後の苦しみについて? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11125327881

  • 悟り(さとり)

    悟ることを悟りと言いますが 今日(此の頃)貴方は何を悟りましたか? 私は此れですね 「人は周りの力によって生かされている」 ですね・・ 貴方の悟りを教えて下さい、お願いします

  • さとりとは 動態である。

     にわか仕立ての立論です。  批判・修正・そしてさらなる展開を よろしかったら 思う存分おこなってください。  1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。  2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言う。(ヱ゛-ダだか何だったかの請け売りです)。  3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方である。  4. そのような池は 要らない。(池のために人間があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないか?  (4-1. ただし その溜め池を――覚え書きとしてのように――つくったりすることは なおも怠らない。必要であろう)。  5. 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりである。つまり 動態だ。  6. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業もこれを共業(ぐうごう)として捉えているということであろう。  (これは ここで ぼんぼにえさんたち専門家におそわりました)。  (6-1. ゴータマくんら ブッダはどうでもよいでしょう。いかにブディズムに通じているという人たちのあいだに 過去にとらわれている場合が多いことか。つまり いわゆる精神論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをもたらして世界を蔽っている。あぁ うっとうしい)。

  • 悟り

    仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義があると思いますが、 自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? 現代的に言うとメタ認知ですかね?

  • 仏陀の悟り後

    仏陀のことを調べています。 悟りを得た後、より人間らしくなった、喜怒哀楽を素直に表現するようになった…と言う事を、ある方から聞きました。 実際に悟りを得た後の仏陀は、どうだったのでしょうか?

  • 悟りを開く

    「悟りを開く」どういったことなのか説明してください。 「悟りを開く」で辞書を引いて、記されていない言葉でお願いします。 真理と言われるものを説明できなければ「悟りを開く」にならないのか? 知識を頭に詰め込んでも、自身の思想が邪魔をして会得できない場合があり、その場合、悟りを開いたことにならない。 真理という知識を外から詰め込まなくても、内から生まれて、例えその真理を説明できなくとも、悟りを開いたことになる? でしたら、私的には 考えない・悩まない・迷わない ようするに「阿呆になった」 と言っていいのでは?と考えていました。 悩み考える人間のほうが良質なのではないか?

  • 悟りとは?

    俗に大悟十八、小悟無数といわれます。 禅者は悟りの体験を最重要視するのでしょうか 悟らないものとは話が通じないとも言ってるようです。 悟りの状態とはなんでしょう?幻想でしょうか。 そもそも悟りが目的になってはいないでしょうか いま、ここに現象するあるがままを直接に知覚すること ができるには、さとりを含むあらゆる知識経験から離れてはじめて可能になると思われます。 言葉や経典による知識はひとつの固定観念ではないでしょうか 悟り至上主義はいびつなものになってはいないか?

  • 悟りとは

    悟りを開いた状態と言うのはどう言う状態なのでしょうか? 「悟り」という言葉は仏教でよく出てくるように思うのですが、他の宗教でも似たような概念はあるのですか? また、悟りを開いた方は実際この世に現存するのでしょうか? 「私は悟りを開いている」という方がいらっしゃいましたら何故そう思うのか、単なる思い過ごしでない事を示してください。 悟りを開いた所以なども教えていただけるとありがたいです。 宗教関係の方はどう言う宗教なのか、専門家の方は何の専門家なのかお知らせの上、お答え頂ければと思います。