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仏陀の悟り後

仏陀のことを調べています。 悟りを得た後、より人間らしくなった、喜怒哀楽を素直に表現するようになった…と言う事を、ある方から聞きました。 実際に悟りを得た後の仏陀は、どうだったのでしょうか?

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.1

ブッダに対する概念によっていろいろ変わるとは思いますが、大元だといわれている、上座仏教的にはその解釈はないでしょうねw 「煩悩が滅せられたあとに、より煩悩まみれになった…」 なんだか「?」と言った感想を持ちます。 上座仏教の解釈が知りたければ「心の中はどうなってるの?」や「ブッダの実践心理学」などにくわしいです。 サンガ出版の「仏法」も仏陀がどのような方だったのか理解する助けになると思います。

noname#57922
質問者

お礼

仏陀を勉強している中で、難しい壁にぶつかってしまっています。独学で色々な本を調べている最中なのですが、サンガ出版の書籍の中で「ダライ・ラマ科学への旅」に興味を持ちました。「ブッダの実践心理学」も読んでみたいと思いました。現在のスピリチュアル・ブームに対して苦々しい想いが少しある中で、ダライ・ラマを描いた映画「クンドゥン」に出会った次第です。仏教は分派しているので、どこから手をつけて良いか分らず困っていました。上座仏教の解釈を「正しく知りたい」と改めて思いました。ありがとうございました。

その他の回答 (1)

回答No.2

仏陀は釈迦牟尼世尊(世尊は仏(如来・世雄ともいいます。))といいます。幼名はゴーダマ・シッダルタといい,釈迦は種族の名で牟尼は聖者をいい,釈迦族出身の聖者を意味します。質問の回答ですが,仏陀伽耶の菩提樹下の金剛宝座に座し,沈思黙想,よく魔を降して大悟を開いたのであります。悟りを開いた釈尊は正覚を成じたその座で華厳経を説き,波羅奈国鹿野苑へ行って憍陳如等の五人を済度した。以後約五十年間八十歳にして拘戸那城外の沙羅林中で寂滅するまで,法輪を転じ不幸な民衆を化導しました。王舎城においては頻婆沙羅王をはじめ宮廷の人々を教化し,故郷においては父王はじめ親類の人々を化導したのです。釈尊の従弟・阿難や一子・羅睺羅も帰依し,舎衛城の富豪・須達長者は有名な祗園精舎を供養しました。もちろん釈尊に敵対する者も現れました。九横の大難と呼ばれる中で,阿難の兄・提婆達多が憍慢の心を起こし,摩竭陀国の阿闍世太子と結託して,釈尊を迫害するという幾多の事件もあった。釈尊は,これらの大難を少しも恐れず説法を続け,華厳・阿含・方等・般若の経々を説き,最後に出世の本懐たる法華経を説いたのであります。釈尊入滅の年代については数十種類の説がありますが,東洋古来の説は周の昭王二十四年(前1029年)四月八日生誕,同穆王五十二年二月十五日(前949年)と定め,「周書異記」にそれがでています。

noname#57922
質問者

お礼

ありがとうございました。 手塚治虫の漫画も読みましたが、今一度、勉強しなおそうと思います。

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