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人間の領域
強く、正しく、美しい・・・英雄はいらない? 弱く、愚かで、不細工な・・・人間であれば足り得る? 本当の人間らしさとは? 今求められる人間らしさとは? 人間らしさという人間の領域?
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NO.1 です。 哲学カテでいうところの”人間の領域”では >人間の領域は地球でしか無い・ という思考の型はあまりなじまないように思います。 生物カテ(人間は地球で生まれ、地球環境に適応する生物である)とか、科学カテ(人間の活動領域は、未来においても地球にしかありえない。一部(一時)は大気圏外にでることはあっても、所詮は地球にへばりついて生き、そこで死滅せねばならない宿命を持った生物であろう)のテーマだろうと思います。 ”人間らしさ”も同様ですが、生物学的にはこういう言い方はしないでしょうね。まだ前者よりも哲学になじみやすい言葉です。 ちょっと名称を失念しましたが、人工知能となまの人間とを判別する方法として簡単な対話を行うというものがありますが、ここでは”人間らしさとはなにか?”が真摯に問われているわけです。これも哲学カテに近いものかもしれません。 それで、あくまで哲学カテに執着するならば、 ”人間の領域”と”人間らしさとは ?”というものを結びつける作業になってくるわけですね。 これは客観的とか主観的とか感情的とか理性的とかいう色づけ以前の問題だと思います。 要は、私は質問者様の真意がさらに掴めなくなったということです。 1)>人間らしさ・・・を求める感情と 2)>人間らしさ・・・を判断する理性とにです。 2)を形而上的に思考すれば、おのずと価値判断がかかわります。 1)の”感情”とは何でしょうか。人間の上昇志向は感情ではありません。多くは熱情といっていいかもしれませんが、理性なども加わった人間のもつ総合力を振り絞ったものであることは間違いないでしょう。だからこそ人間はここまで進歩してきたわけです。 2)のごく常識的な一般解は、そのもののもつDNAを解析することです。これってあまり面白くも何ともない答えですよね。
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- tumaritou1
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限られた時間(寿命)を自分の全てを出して生き抜く事。命の大切さを自分と他人とを分け隔てしないで守ってゆく事。命そのものを愛と感じて、植物の命を、動物の命を、枯らして食べてゆく自分を赦しながら。人生を全うする事。
お礼
いいですね。 人間らしさを客観的に、しかも端的に捉えていらっしゃる。 スラスラとした言葉に自然で素直な感慨が表れていると思います。 私も、もう間もなくこのカテから引くつもりでいますので一言だけ・・・ 今までに思ってきた事なのですが 哲学を文学に昇華させる事ができたら素晴らしいだろうと感じてきました。 哲理の数学のような哲学では無く、人の感情をも包み込むような包容力のある(文学的ともいえる)哲学があったら・・・と思ってきました。 けれども、哲学はやはり哲学らしく、理路整然としたものが当然の如く求められるのでしょう。 私は殆どが、自分の経験から言ってきました。 それは真っ当な哲学から見れば、かけ離れたものだったように思います。 それでもお相手をして頂き楽しく過ごさせていただく事ができました。 皆さんに感謝したいと思います。 ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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進化には、アリ型とヒト型があります。 ヒト型の特徴は、進化における適応(~組織化)を、遺伝子の変異に対する 自然淘汰によって行うのではなく、認識の発達=環境認識(自意識の目覚め)による 行動パターンのフレキシビリティによって行うところにあります。 (社会性の発達における世代間伝承も、遺伝子ではない「ミーム(文化的要因=教育や家庭での学習)」に依存する) ヒトでも、遺伝子が細胞分裂回数を制限し、自ら死を招くことで、世代交代(=交配) による進化を促進していますが、アリやハチは生殖機能のない個体も存在し、 またハチは刺すと死んでしまうなど、もはやヒトにおける個体というよりも、 ヒトの中の細胞レベルの存在(どんどん死ぬことで個体を維持する)になっていると言えます。 ヒトは、個体に依存して認識を発達させ、そこに「命が惜しい」とか「善悪」といった 価値性を生じており、正確に言えば「命が大事」なのではなく、「心が大事」なのは、 昨今の脳死の問題からも明らかです。 そこにおいて、生きる事の本質的目的は、“肉体的増殖=衝動的快感”ではなく、 人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」 にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。 ヒト型進化においては、これまで脳の発達による行動の可塑性&多様化に基づく、 遺伝子の変化を要しない環境への適応や組織化として発現してきました。 ところが、その社会性(=助け合い)の発達の延長上に、工業化における分業化や 市場の拡大においてお金を発明し、その“馬車馬の目の前のニンジン”によって操られ、 他律的に生きるようになった時から(知識は多くても低認識)、人の認識の発達は、 自己存在の本質の認識による自律的生のための認識(=質の向上)から、お金をもらうために イヤイヤ働かされる歯車としての知識(=量の増大)へと、変質してしまったのです。 本来、社会的生命として助け合うために集まっているはずが、弱肉強食のジャングルに 変わってしまった‥‥±0の死から、精神的充足(プラス)を求めて生きているはずが、 いつの間にか苦痛(マイナス)から逃げるだけの生ける屍(しかばね)のような生に。
お礼
生物学的見地から見た人間の領域へのご意見、興味深く拝見いたしました。 ヒト型とアリ型の違いという視点から人間を捉えようとする試みには、新鮮さを感じました。 私など思いもつかぬ見方があるのだという事を知らされました。 様々な見地から、人間の領域というものに対するご意見があるものと存じます。 人間とは何か・・・という事でもありますが 多様な見地からのご意見より、見えてくるものを徐々に明らかにしていきたいと思っています。 ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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所謂る人間としての弱さを克服する努力をすること。 誠実性
お礼
精神的理想の見地よりのご意見ですね。 努力と誠実という言葉は、人としての普遍的な、持つべき心構えと言えましょう。 ありふれた言葉でありながらも、その言葉の輝きが失われる事は無いものと思います。 ありがとうございました。
- 来生 自然(@k_jinen)
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理想を求めつつ・求められつつ、現実に甘んじる 知的に境界を策定しつつ・策定されつつ、情的に越えようとする 本当の人間らしさを規定しようとしつつ・規定されようとしつつ、人間らしさを越えようとする 。。。 とらえどころのない瓢箪鯰のような存在? って。ナマズかぃ!!
お礼
瓢箪に鯰が入らなければ自由に泳がせておけばいいのでしょう。 鯰の自由さは瓢箪を持つ人にしか分からず、鯰には瓢箪を持つ人のこだわりが滑稽なものとしか映らない・・・ 自由という人間らしさ こだわりの無い自由、こだわりを持つ自由 それがたとえ滑稽であっても、人間らしさである事は確かだと思います。 ありがとうございました。
「人間の領域」という観点から「人間らしさ」を考えたことはなかったので、一度は新鮮な感じがしたのですが、確かに面白い問いですね。 私の感覚からは「人間らしさ」というものの極限は、人類:男女や人種、老若の枠を超えて親しみを感じ、そんな人になりたい、近づきたい、出来れば一緒に暮らしてその温かみに触れたいと願っている理想のひとのかたちなのではないでしょうか。でも、具体的にどんな性格で、どんな外貌をしたひとなのかはどうもつかめないです。 >強く、正しく、美しい・ よりもむしろ >弱く、愚かで、不細工な・ に近いのか?とも思いますが、これはまちがっているかもしれません。はっきりいえることは、確かに仰るように「英雄」ではない前記の極大地点にある人格を中心に広く厚く分布している人間のあるべき姿ではないだろうかとも思えます。これはまさしく「人間の領域」の只中そのものですね。 こく平凡な回答になってしまいました。
お礼
すいません。 私の質問の設定の仕方が少し悪かったものと反省しています。 もっと内容を絞りこんだ方が、答え易かったかもしれません。 自分の感情を入れてしまったようです。 感情面に引っ掛かってしまうと、この質問は二分されてしまう危険があるものと思います。 人間らしさ・・・を求める感情と 人間らしさ・・・を判断する理性とにです。 それは主観性と客観性との違いでもありましょう。 どちらかに限定した質問とするべきでした。 amazo007様のお答えは、質問の二重の問いかけのままに、仰られて下さったもののように思われます。 少し失礼な事をしてしまったような気がいたします。 実は、投稿の後で、人間の領域というものを全く別な角度から考えてしまった事があります。 客観的に限定した見方です。 それは、人間の領域は地球でしか無い・・・というものでした 広い宇宙を身近に感じている天文家は、その領域の狭さに一種の閉塞感を持っているのではないか・・・などと思ってしまいました。 客観的に限定した方がはるかに答え易かったものと思っています(反省・・・) 人の人格面においての理想を人間らしさ、とお答えになられたのは間違いなく正しいと思われます。 間違っていたのは、二分した答えを同時に求めた私の方だったようです。 できましたら、再度のお答えをいただきたく存じます。 ありがとうございました。
お礼
再度のお答え有難うございました。 どうやら私はまとまりの無い質問をしてしまったようです。 自分の経験に少し色付けをしただけで、背伸びした哲学を論じようとしていたようです。 いい反省になりました。 もうそろそろこのカテから引く時が来たようです。 amazo007さん、そして他の皆さん有難うございました。 最後に少しだけですが・・・領域と人間らしさについて 私の経験の全てが私の領域であり 私が私の経験から得たものの中に、知り得た人間らしさがあります。 私はその知り得た人間らしさの中で、これからも生きて行くのでしょう。 経験という壁の中でしか、人間らしさを知り得ず、また美化する事もできぬまま、その人間らしさを自分自身のものとして生きて行く他無いようです。 英雄など、とても、とても・・・ 弱く、愚かで、不細工な・・・そんな人間にこの頃は親しみを感じます。 自分がそうだからかもしれません。 或いは、そこに自分の経験を重ねて見てしまうからかもしれません。 自分の心を動かすものがそこにあるような気がします。 どうやら私には、弱者の人間らしさというものが、いつの間にか身に付いてしまったようです。 それが私の経験という領域の結果なのかもしれません。 それでは皆様どうもありがとうございました。 お元気で。