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執着をなくすには

くろ(@berujin)の回答

回答No.16

はじめまして berujinと申します。 よろしくお願いします。 とても共感する質問です。 他の方の回答もとても勉強になります。 ずっとrom専でしたが思わず回答したくなりました。 自分も、執着を少しでも無くせたらもっと楽に生きれるだろうなぁ・・・と考えていました。 この性格というか気質が災いして、ある病に陥ってしまいだんだんと日常生活を送るのが困難になり、通院経験もあります。 frauさんのおっしゃる「心の病からの解放は、哲学に通じる」 まさに身を持って実感しました。 人生の半分の期間を悩み、今現在は人並みに生活出来る様になったのですが 私が良くなった大きなきっかけの1つが、このサイトでsyo-yaさんという方の回答を見つけ仏教と瞑想を知ったことです。 仏教的な哲学って本当に精神を安定させる効果がありますよね。 で、哲学カテなのに申し訳無いのですが、挑戦してみたものの哲学的な回答は私の表現力では上手くまとまらなかったので、あきらめて実践した事を書きますね。(思う事は結構あるのですが・・) 「縁起の理を頭に入れ、本性が「無」であると知識面から叩き込み、 さらに、それを身体で感じ取るための坐禅等の「道」を、身体で実践すること」 簡単に言うと、自分が実践したことは↑に尽きます!(すみませんこれもsyoyaさんから引用です・・・) あまり参考にならないと思いますが、身体で実践の方を少し書きます。 自分の場合、座禅は辛くてどうしても出来なかったので、ひたすらウォーキングをしながらの瞑想でした。 足がちょっとキツイ位の距離をやると、おわった後の感覚が全然違います。(私の場合約10km位) 最初のうちは身体はそんなに重要じゃないだろう・・と思っていたのですが 身体の感覚に注意をやると不思議と心もほぐれてくるんですよね。 やっぱり肉体と精神のバランスというか、私の場合精神の方に傾き過ぎ(?)ていたのかなと思いました。 かれこれ3年近く実践しているのですが(おかげで10kg近く痩せました)私には結構即効性がありました。 あと私は楽器をやっているのですが、何も考えず演奏してる時って全ての執着から離れられる気がして楽しいです。 やっぱりこれも1つは今に集中出来る、無心になれる瞑想の様な効果があるからなのかなと思います。 話は変わり、frauさんの物と心のリサイクルの考えと「太く短く」を見て、私もそう生きたいなと思いました。 自殺願望は全くありませんが、いずれ死ぬんだ、、と思うと私の場合恐怖より何故か不思議と安心感の様なものが得られます。 死の危機に直面してないから言えるんだろ、と言われてしまいそうですが^^; ここ数年、身近な人間が頻繁に亡くなったのですが、その度に明日は我が身と心に刻んでます。 出来るだけ毎日を全力で生きたいです。 frauさんのお役に立てる気がしませんが、とても共感した事を伝えたく回答しました。 長々と下手な文を読んで頂きありがとうございました。 最後にfrauさんの回答も過去の辛い時に、凄く助けになりました。 この場を借りて、ありがとうございました!

frau
質問者

補足

はじめまして。ご回答ありがとうございます。お礼欄で長くなってしまったのでここにお礼をさせていただきます。 >syo-yaさん 何となつかしい方! 最近このサイトには来てなかったのですが、数年前にこのサイトに加入してからずーっと大好きな常連者さんでした。 ものの言い方がやわらかく、文体も独特で、私はまるでよいお坊さんとお話しているようでした。ですが最近見かけません…また帰ってきてほしいですね。 本題にもどります。 >肉体と精神のバランスというか、私の場合精神の方に傾き過ぎ(?)ていたのかなと思いました。 私も考えすぎるんです。私も楽器をやっているのですが、アドリブができない。考えすぎると指摘されます。考えすぎる⇒完全左脳の働きが過ぎているわけですよ(^^ゞ芸術の領域は右脳ですから…。 berujinさんのように私も「全ての執着から離れられる気」がしてみたい。これぞ音楽をやっている人の醍醐味ですよね。 確かに私は肉体の方がおろそかになってます。私もウォーキングしてます。1日に1時間は平気なのですが10Kmとはすごいです。確かに外に出ると気分も違います。考えすぎる意識を肉体の方に注いでオーバーヒートしそうな精神を中和しなければならないとはつねづね思ってます。 >私の場合恐怖より何故か不思議と安心感の様なものが得られます。 私も死ぬことは恐れてません。死ぬ瞬間は怖いですが…。早く眠りたいです(笑)。もし輪廻転生などなく、誰でも死ねば涅槃に行けるのなら、なぜ生があるのでしょうね??と今ふと思いました。これについてはまたトピを立てたいと思いますが…あぁまた考えすぎてしまう(笑) 実は数ある中でひとつの執着をなくした感じが訪れました。 私はボランティアをしているのですが(その対象は動物ですが同時に人のためにもなる)活動を通して心がある域に達したと感じてること聞いていただけますか。 ボランティアは資源や時間などかかりますよね?でも物質的な見返りはない(結論からいえば結局自分のためになるのですが)なので正直天秤にかけたこともあります。また何も持ってない自分、無力な自分もいやだったし、自分の時間もほしい、どうしたら時間を等分できるのだろうなどなど…ですがある瞬間「要らない!」と心から思えた。もちろん自分の、です。そのとき「我執」を捨てられたことに気がつきました。そのとき他の問題でもいろいろ行き詰っていたのですが、悩みや変えられない現状を変えたのは「自分を変えること」だったんです。自暴自棄とは違うんです。それは後悔が伴うから。でも少し楽になり、これこそ私の道だ、と自信をもって歩めばよい、そのためにいろいろなことがあって私を鍛えたんだ、また痛みへの共感を学んだんだ、と思えることができました。 キレイゴトではなく、何かのためになるということ。 頭でわかってたのですが、実際行動してみてそういう心持になったからその言葉が生きた意味として分ったのです。 執着とは、自分と自分との近すぎる姿勢なのかもしれません。ですがそのあいだに何かを置いてごまかしたり、距離を置くというのは本当の自分からの逃げになってしまいます。本当の自分というとではそれは?というまた難しい問題に戻ってしまうのですが、そのときの自分と向かい合わない限り執着の方がどこまでも追ってくるでしょう。 エゴ的な執着から逃れられない暇があったら、助けを求めているピュアな存在のために何かをしたい。そういう衝動が古い私を振り切った、という表現がもっともかもしれません。逆説的ですがそのときの私は考えて考えてでもどうしようもないと頭で感じたとき、何かが私を突き動かした、それを体感した、といった感がしました。あのときの心の感触?といったイメージは一生忘れることはないでしょう。捨てる自分と捨てられなかった自分とが接触した瞬間だったと感じています。 共感していただき嬉しく思います。共感こそ、人と人をつなげる心の働きです。こちらこそ読んでいただきありがとうございます。

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