• 締切済み

執着をなくすには

仏教でいうところの「我執」をなくせたらどれだけ楽かもしれません。 ですが、やはりそれは「悟り」に至るにはなかなか難しいところですのでさわりというか、感覚だけでも学び、近づければよいと思っています。 心の病の疾患からの解放は、つきるところ哲学に通じると思っている当方です。そのまま実践はできませんが、何か方法はないでしょうか?

  • frau
  • お礼率54% (2370/4367)

みんなの回答

回答No.21

回答へのお礼ありがとうございます。 エゴをなくす。 これが出来ると思っていると問題は延々と解決できないまま続いていく ことになるでしょう。 エゴはあるのが当たり前でなくすことは出来ないと思います。 でもエゴをコントロールすることは可能です。 自分の思い通りにしたいことがあっていいのです。 それを他人にやらせるではなく、自分でするようにするだけです。 でもやるためには必要なことがあります。 それが出来る自分になっていることです。 そのためには自分を時間をかけて育てなければなりません。 エゴなんて実際にはどうでもいいのです。 自分の考え方や物事の捉え方、行動の仕方などを少しでも育てることが 出来れば問題は少しずつ改善していくはずです。 誰かや何かに育ててもらうのではなく,自分が自分を育てていくことです。 誰かの有名な言葉の頼るのではなく,自分の言葉に書き換えてみましょう。 そしてその長い道のりで少しずつ育っていく自分を楽しむことです。

回答No.20

こんばんはberujinです お礼ありがとうございます。 またまた共感の連続でしたよ^^ syo-yaさんのお坊さんのような方って例え、すごくわかります。 回答の一生懸命さが伝わってくるのと同時に、読んでいるだけで凄く安心感を与えてくれる文章ですよね。 frauさんも楽器をやっていらっしゃったんですね! 私の場合も人と合わせたり人前でやったりするとついつい左脳の方にシフトしてしまいます。 人を気にしたり、頭でごちゃごちゃ考えるとうまくいかなくなります^^; 執着が無くなったお話、すごくその感覚わかります。 私は最初は病気を治す事のみ考え、頑張っていたのですが 勉強と実践をしていく中で、自分の生き方について沢山の事に気付かされました。 frauさんのおっしゃる「自分と自分との近すぎる姿勢」これもまさにそうです。 利己心と言ってしまって良いのかわかりませんが、 この感覚が膨らむほど我執に囚われ、かえって生き辛くなってしまう。 まだ日常の、ほんの小さな細かな事でしか実践出来ていませんが 自分以外のために動くという事が自分の幸せにも繋がるという事を実感しています。 自分が損をする覚悟でやっても、本当に結局は自分のためにもなるんですよね。 「結局は自分を変えること」ほんとそうですよね! 本当にこれに尽きると思います。 自分を変えれば、周りの人も環境も全て変わる、とまでは思いませんが 少しずつ逆境や悩みに対して強くなって、生きていく力が湧いてくる ここ数年ですが、本当に痛感してます。 なんだか偉そうに書いてしましましたが 私はまだまだ天秤に掛けて、行動に移せない事が多々あります・・・。 でもfrauさんのお礼を読んで自分の想いを強化、確認する事が出来ました。 普段こんな話が出来る人が周りに全く居ないので こんなに沢山共感出来て、とても嬉しく&心強く感じます。 文章を書くのは凄く時間が掛かってしまって、まとめるのも苦手なのですが チャレンジしてみて本当に良かったです。 境遇は違えど、もしかしたら目指してるところはかなり近いのかもですね^^ 最後まで読んで頂きありがとうございました!

回答No.19

「執着しない」とか「悟りたい」とか「我執をなくす」とか そういったことに固執すること自体が、執着になってしまうことと思われます。 深く考えた結論と、深く考えない結論とが一致するようなことは、多々あると思います。一度、深く考えることをしていれば、同じようなことについては、それほど深く考えずに行動できてしまうことでしょう。でも、落とし穴があるかも知れないので、深く考えないにもかかわらず、洞察力だけは研ぎ澄ましているような状態・・・ なるべく、「あまり考えない」状況で、対処できるようになっていくとき、自身および他者の「思い・想いの方向性」を深く、かつ、浅く読み取って判断していくことができるのかも知れません。 生きていく・生かされていくといった諸関係の狭間にて、(因縁としての)諸関係を深く読み解くと同時に、(執着としての)諸関係に囚われないよう、深く・浅く対処しうるようになれば、仰るところの境地に辿り着いているのかも知れません。。。

frau
質問者

お礼

そうなんです。このパラドックス。 本もえんえんとそれを説いている。つまり執着するなということをずーっと述べているんですが(笑)「執着するな」に執着する、ということなんですよね。 >一度、深く考えることをしていれば、同じようなことについては、それほど深く考えずに行動できてしまうことでしょう。 >洞察力だけは研ぎ澄ましているような状態・・・ これは学習したことが潜在意識に定着されたものと思われます。 悟りとは、頭の働きがクールな状態で心の働きや領域が「真実」を知っている、知っていることが確実なことだということも分かっているという心の包括性のようなものかもしれません。 >生きていく・生かされていくといった諸関係の狭間にて なるほどです!これも灰色の部分、つまり中道なのでしょうね。(ちなみにすべての色を混ぜ合わせると灰色になるそうです。本当に何というか、形而上的な真実は形而下的森羅万象に鏡のごとし反映されているのだなと感心しました)

回答No.18

執着をなくすには、まず人間は自分の物は何も無い事を悟るべきです。貴方が転生する時には、財産、愛する人、宝石、体をも来世には持ち運びが出来ませんね、この事を早く自分の身に置き換えて悟りなさい。来世に持って行けるものは、記憶、才能、信用といった無形のものでしかありません。貴方が自分の物であるという所有欲から執着がおきます。本来、自分のものは、ありません。それは自分のエゴを満足させているに過ぎません。それより、自分を進化させなさい、そして自己のエゴ(貪欲、利己主義、所有欲、怒り)等を心の中から取り除きなさい。それを行なう良い方法があります。宗教団体ではありません。

frau
質問者

補足

お礼の前に…この画像は何でしょうか?

noname#100496
noname#100496
回答No.17

脳の思考を休めたら、我も休み、あなたの心は、情緒で癒されます。脳の思考に依存しない事です。人は、脳の思考で悟る方法を模索しますが、これがダメです。世界の聖人は、脳を否定しています。中国の老子は、人の思考による人の知恵を否定し、無知を奨めています。また仏教のブツダは、脳を自我を否定し、無我になれば救われるといってます。座禅や瞑想で実践されてます。だから脳が思考してる時は、人の心と自然の情緒の交流を、脳が遮断するのでストレスになります。脳が休むと、人と情緒が交流するので、心が癒されます。だから方法は、脳を休めて、情緒で心を癒したら、我がとれます。情緒は、人を癒し、人を育て、社会を調和に導きます。この情緒こそが、人が悟りをひらいた時のパワーです。だから情緒に触れる事が悟りの近道です。幸い日本の伝統文化は、世界中で日本だけしかない貴重な情緒思考文化です。脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを目的にしています。実践すると心が癒され、情緒に目覚めて、悟る事が出来ます。雅楽、能、文楽、歌舞伎、日舞、演歌、茶道、書道、落語、和歌、俳句、源氏物語、浮世絵、など

回答No.16

はじめまして berujinと申します。 よろしくお願いします。 とても共感する質問です。 他の方の回答もとても勉強になります。 ずっとrom専でしたが思わず回答したくなりました。 自分も、執着を少しでも無くせたらもっと楽に生きれるだろうなぁ・・・と考えていました。 この性格というか気質が災いして、ある病に陥ってしまいだんだんと日常生活を送るのが困難になり、通院経験もあります。 frauさんのおっしゃる「心の病からの解放は、哲学に通じる」 まさに身を持って実感しました。 人生の半分の期間を悩み、今現在は人並みに生活出来る様になったのですが 私が良くなった大きなきっかけの1つが、このサイトでsyo-yaさんという方の回答を見つけ仏教と瞑想を知ったことです。 仏教的な哲学って本当に精神を安定させる効果がありますよね。 で、哲学カテなのに申し訳無いのですが、挑戦してみたものの哲学的な回答は私の表現力では上手くまとまらなかったので、あきらめて実践した事を書きますね。(思う事は結構あるのですが・・) 「縁起の理を頭に入れ、本性が「無」であると知識面から叩き込み、 さらに、それを身体で感じ取るための坐禅等の「道」を、身体で実践すること」 簡単に言うと、自分が実践したことは↑に尽きます!(すみませんこれもsyoyaさんから引用です・・・) あまり参考にならないと思いますが、身体で実践の方を少し書きます。 自分の場合、座禅は辛くてどうしても出来なかったので、ひたすらウォーキングをしながらの瞑想でした。 足がちょっとキツイ位の距離をやると、おわった後の感覚が全然違います。(私の場合約10km位) 最初のうちは身体はそんなに重要じゃないだろう・・と思っていたのですが 身体の感覚に注意をやると不思議と心もほぐれてくるんですよね。 やっぱり肉体と精神のバランスというか、私の場合精神の方に傾き過ぎ(?)ていたのかなと思いました。 かれこれ3年近く実践しているのですが(おかげで10kg近く痩せました)私には結構即効性がありました。 あと私は楽器をやっているのですが、何も考えず演奏してる時って全ての執着から離れられる気がして楽しいです。 やっぱりこれも1つは今に集中出来る、無心になれる瞑想の様な効果があるからなのかなと思います。 話は変わり、frauさんの物と心のリサイクルの考えと「太く短く」を見て、私もそう生きたいなと思いました。 自殺願望は全くありませんが、いずれ死ぬんだ、、と思うと私の場合恐怖より何故か不思議と安心感の様なものが得られます。 死の危機に直面してないから言えるんだろ、と言われてしまいそうですが^^; ここ数年、身近な人間が頻繁に亡くなったのですが、その度に明日は我が身と心に刻んでます。 出来るだけ毎日を全力で生きたいです。 frauさんのお役に立てる気がしませんが、とても共感した事を伝えたく回答しました。 長々と下手な文を読んで頂きありがとうございました。 最後にfrauさんの回答も過去の辛い時に、凄く助けになりました。 この場を借りて、ありがとうございました!

frau
質問者

補足

はじめまして。ご回答ありがとうございます。お礼欄で長くなってしまったのでここにお礼をさせていただきます。 >syo-yaさん 何となつかしい方! 最近このサイトには来てなかったのですが、数年前にこのサイトに加入してからずーっと大好きな常連者さんでした。 ものの言い方がやわらかく、文体も独特で、私はまるでよいお坊さんとお話しているようでした。ですが最近見かけません…また帰ってきてほしいですね。 本題にもどります。 >肉体と精神のバランスというか、私の場合精神の方に傾き過ぎ(?)ていたのかなと思いました。 私も考えすぎるんです。私も楽器をやっているのですが、アドリブができない。考えすぎると指摘されます。考えすぎる⇒完全左脳の働きが過ぎているわけですよ(^^ゞ芸術の領域は右脳ですから…。 berujinさんのように私も「全ての執着から離れられる気」がしてみたい。これぞ音楽をやっている人の醍醐味ですよね。 確かに私は肉体の方がおろそかになってます。私もウォーキングしてます。1日に1時間は平気なのですが10Kmとはすごいです。確かに外に出ると気分も違います。考えすぎる意識を肉体の方に注いでオーバーヒートしそうな精神を中和しなければならないとはつねづね思ってます。 >私の場合恐怖より何故か不思議と安心感の様なものが得られます。 私も死ぬことは恐れてません。死ぬ瞬間は怖いですが…。早く眠りたいです(笑)。もし輪廻転生などなく、誰でも死ねば涅槃に行けるのなら、なぜ生があるのでしょうね??と今ふと思いました。これについてはまたトピを立てたいと思いますが…あぁまた考えすぎてしまう(笑) 実は数ある中でひとつの執着をなくした感じが訪れました。 私はボランティアをしているのですが(その対象は動物ですが同時に人のためにもなる)活動を通して心がある域に達したと感じてること聞いていただけますか。 ボランティアは資源や時間などかかりますよね?でも物質的な見返りはない(結論からいえば結局自分のためになるのですが)なので正直天秤にかけたこともあります。また何も持ってない自分、無力な自分もいやだったし、自分の時間もほしい、どうしたら時間を等分できるのだろうなどなど…ですがある瞬間「要らない!」と心から思えた。もちろん自分の、です。そのとき「我執」を捨てられたことに気がつきました。そのとき他の問題でもいろいろ行き詰っていたのですが、悩みや変えられない現状を変えたのは「自分を変えること」だったんです。自暴自棄とは違うんです。それは後悔が伴うから。でも少し楽になり、これこそ私の道だ、と自信をもって歩めばよい、そのためにいろいろなことがあって私を鍛えたんだ、また痛みへの共感を学んだんだ、と思えることができました。 キレイゴトではなく、何かのためになるということ。 頭でわかってたのですが、実際行動してみてそういう心持になったからその言葉が生きた意味として分ったのです。 執着とは、自分と自分との近すぎる姿勢なのかもしれません。ですがそのあいだに何かを置いてごまかしたり、距離を置くというのは本当の自分からの逃げになってしまいます。本当の自分というとではそれは?というまた難しい問題に戻ってしまうのですが、そのときの自分と向かい合わない限り執着の方がどこまでも追ってくるでしょう。 エゴ的な執着から逃れられない暇があったら、助けを求めているピュアな存在のために何かをしたい。そういう衝動が古い私を振り切った、という表現がもっともかもしれません。逆説的ですがそのときの私は考えて考えてでもどうしようもないと頭で感じたとき、何かが私を突き動かした、それを体感した、といった感がしました。あのときの心の感触?といったイメージは一生忘れることはないでしょう。捨てる自分と捨てられなかった自分とが接触した瞬間だったと感じています。 共感していただき嬉しく思います。共感こそ、人と人をつなげる心の働きです。こちらこそ読んでいただきありがとうございます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.15

先に物にたいする執着のとり方を書いておきましたが、自分に対する執着、我執のとり方も書いておきましょう。 自分が自分がという思いは、個性重視の社会ではある意味肯定されてはいますが、行き過ぎると内向きになりすぎて鬱病になりやすいですね。 そこで自分を捨てる修行のやり方ですが、簡単なやり方は「何にでも感謝すること」なのですね。会う人に感謝の挨拶、街路樹に感謝の挨拶。これをやっていると我執は取れていきます。これが仏教で言うところの諸法無我ですね。全ての存在はいろいろなものに生かされている。一人で生きているわけではないという程度の意味ですね。それに気付くのが感謝ですね。 物にたいして執着してもだめですよという意味が諸行無常ですね。全てのものは現在のままでいられない、移り変わっていく移り変わっていくものに何故こだわるのかといっているのですね。 意味は意味として体得する方法は、「捨てる」がキーワードなのですね。「感謝」は自身を捨てる特効薬なのです。実践して続ければわかりますね。

frau
質問者

お礼

>感謝 ある本でお釈迦様の言葉を説いたある本で感謝について 「言葉で感謝するのではなく、感謝それ自体になるようにしなさい。ありがとうという言葉でもって相手に感謝の借りを返すのはやめなさい。感謝は、官舎でもって返すようになさい。心に感謝の思いが湧き起こったら、感謝のままでいればいいのです。そのとき本当に感謝の心が自分と相手を潤すことができます。それがすなわち「感謝」です」 とありました。 なるほどなーと感心しました。とはいっても、そのような心持をもっていても、一般社会の中では言葉で伝えなければ誤解されてしまいますが(笑) 遠い過去より「空しい空しい」と憂愁してきましたが、それは諸行無常、すなわち「空」のことかなと。としたら私の人生や心の中には何もないのではなく「空」なのではないかなと感じてもいます。 あと「自身を捨てる」ことに執着を得なくなってもきました。一度死んだような気持ちになりました。また「諦め」ではない証拠に新たな生命力を得たような気がしているからです。どんづまりに陥ってこれ以上自分の力でどうすることもできない。あとは野となれ山となれと自分を一度捨たときから新しい道がおりてきたような気がしています。

回答No.14

執着というのは自分の意のままに外の世界を意のままに動かしたい ということではないかと思います。 それを持たないようにするには外の世界を自由にしてあげるだけです。 自分の意のままにならないことを容認し許せるようになり、もし誰かが 間違っている思われる方向に行ったとしても本人が自力で成長することを 待ち続けるようになることだと思います。 自分の成長は自分で責任を持ってするのなら執着は減っていくと思います。

frau
質問者

お礼

愛についての定義のひとつです。 「愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。 欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである」 ~エーリッヒ・フロム 相手のみならず、外の世界、現実を意のままに動かしたいということも愛ではないのですよね。 今の自分にとっての現実は自分が作り出したもの。しかしそれも本当の現実ではないと知ること。それが成長の第一歩と私自身感じております。 執着は、ある意味でエゴなのかもしれません。エゴをなくすことが執着から離れる前提なのかもしれません。

  • mintarou1
  • ベストアンサー率30% (22/73)
回答No.13

. 体験のない、理想論を言っても仕方がないと思います。 お坊さんの修行でも行われており、自分でやって効果を確認している 手軽に実行できる瞑想をお勧めします。 ・

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 瞑想やっています。まだ始めたばかりですが…。 瞑想は神に通じる道、自分の心の周辺を探る道、だそうです。 誰もが悟りへの道は開かれていると思います。瞑想もそのうちのひとつの方法だと思います。 だからとにかく毎日続けないとならないですね。いずれ、どのようなものが見えるか、新しい自分にどのようになれるのか、楽しみです。

noname#99989
noname#99989
回答No.12

私は、何をきっかけとしてもいいのであると思います。 その人自身が、本当に望む事に続く道において、始まりの地点は、どこからでもよいのだと思います。それを心から望むならば、その望む心が、次第次第に、彼を正しい所へと運んで、終には、我執の尽きる場所にたどり着くのではないかと思います。 それは、無住より生ずべしその心=一仏乗=ブッダのこころ=やさしさの究極であり、不滅の安穏であるのではないでしょうか。

frau
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >本当に望む事に続く道において 本当の自分と偽物の自分とが拮抗状態での葛藤が強ければ心身の病に到るのでしょうね。 いつでも本当の自分は知っていると思います。私はその直感や偽物の自分の方が前にでていること、その自分への本当の自分が感じている違和感をずっと無視してきました。 そろそろ本当の心に目を向けようと思います。それは自分を愛するということであるとも思ってます。 >始まりの地点は、どこからでもよいのだと思います。 気づくのにだいぶかかりましたが、この言葉に勇気づけられました。この世のネガティブなものや闇をふきこまれてきましたが、本当の自分は純粋なままで叫んでたんです(「騙されてきた」と表現したい。また妥当な言葉だと思ってます)。これからは正しいところに運ばれたいです。いや、これからは自分が自分をよい方向に運ぶのだ!という自主性こそ大切ですね。ですがその流れの中で迷いつつも大きな自分に運ばれている小さな自分は、ピュアな本来の自分の意思や体現や希望に乗せられていることに安心して流されていくという受動であってもよいかなと。 >終には、我執の尽きる場所にたどり着く ことを願っています。

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    私は思春期に色々と考えて 哲学を極めないと世界は良くならないと思いました。 それで大学も中退して、家を出てアルバイトをしながら 自分で考えました。 能率は悪かったですが 仏門に入ったようなつもりでした。 永平寺などでは東大での人が修行を積んで仏教を極め悟りを目指すようですし 京大や東大や九大にも優秀な人が哲学科の大学院まで行って 教授になったりして 哲学をしています。しかし答えがでない。 私はそんなに優秀ではありませんので 違う方法を取った訳です。 哲学的に哲学してみました?その結果「存在性思想」にたどり着きましたが これもまだ ?マークが付きます。 哲学に人生をかけ 病気をして無意味な一生を終えようとする私はバカだったのでしょうか? 病人の為短文でご感想などお聞かせください。

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    未だ良く分かりません。救われたく、般若心経を読みました。以下、自分なりの解釈を纏めました。ほぼ分かりません。長くなると思いますので、この質問の内容である、「つまり何が言いたいのか? これで何が救われるのか?」を分かりやすく、何方か教えて下されば幸いです。 一応、こういうことを伝えたいんじゃないか、という自分なりのものを置いときます 「例えば君が一番悩んでいる辛い苦しいとか、それらも含めて、全部何も動じなくて良いんだよ。感情も思考も、大事なのは「心の中空っぽ」にして、「此処には何にも無い」って、「何も考えない」って考えて、良いも悪いも、「楽しくも悲しくも全部反応しなければ、どうでも良いって捨て去れば、何にも無い、当然悩みだって無い」って、したら迷いなんてないって、心痛むこと、心病むことなんてないようにならないかい? だって、何も無いんだからさ。「君を脅かす物はない」。「君が何も無いって全てを絶つんです」。色んな事頑張らなくて良いんだよ。何にも感じない、何にも考えないって、ロボットって思われるかも知れないけれど、でも、何にも動揺しないし、傷つかないんだよ。無の境地、苦しいもの怖いものなんて「心が感じ無い」静かな世界って、安らぐよね。楽しさも嬉しさもないっていうと怖いかもだけど、そんなんじゃないよ。そうじゃないのさ。謂わば君を苦しめる、考えさせられる「現実」というものに拘りすぎないで。「そういったものを心の中から、全部、無くそう。物凄く遠ざけよう。滅ぼしたって構わない。苦しみは苦しくなくなるし、痛みは痛みじゃなくなるよ。全部掃除して無くなって、綺麗になったなら、何でも救われる、安心できる超然に辿り着けるよ」。魔法の言葉さ、「貴方には何も無い。貴方から何も無くなった」。覚えておいて」 以下、般若心経の解釈です。 この世には本来は何も無い。でも「何かある」と思うのは自分の妄想。本当は何も無い。「何かある」と勝手に思っているのは「自分という心」だけ。それに目鼻耳口などの感覚器官も本当は何も捉えていない。心も感覚器官も本当は何にも無い。 本当に何にも無いんです、最初から永遠に何も無いんです、この世には。何にも無いから生れることも死ぬことも当然成り立たず有り得ないし、何にも無いから汚れもしないし綺麗になることもない。当然増えも減りもしない。 心の動き、何かを感じる感覚、何かへの想い、こうやっていこうかという意志、こうだろうなという認識、それらも無いんです。感覚器官である、眼、耳、鼻、舌、身体、心にさえも実態はない。また、形も、音も、香りも、味も、触覚も、心に感じることさえも、そんなもの何も実態はない。眼にみえる実物世界から意識できる精神世界まで、「でも、ほら、ずっと其処にあるじゃないか」という現実、実態は何一つ無いんです。 (此処から何を伝えているのか分かりません) だから、そもそも迷いなんて無く、無いもんだから「迷いが無くなる」なんて工程も起きはしない。悟らなくたって良いんです。例えば今の「本当の事を何も知らない」でいることから脱しようと、その自分の考えから離れても良いし、それにそんなことしなくても大丈夫、どっちでも良い。「この世には何かが在るんだよ」という執着を捨てるだけ。「じゃあこれから頑張って悟りますよ」という考えにもやらなくて良い、執着してはいけない。老いることも死ぬことも別に、どうでも良い、感心が無い、何にも無いって考える必要も無くなるもんだから、老いと死がつきることもない(此処が分かりません。老いも死もないから、そもそも老いと死の問題が解決するってこともないんだよってことでしょうか?)。「苦しみや、苦しみの原因もない。当然苦しみもないんだから、苦しみから解放される手段もなく、苦しみを制する方法も、そもそも成り立たず、存在しない」。「だから苦しまなくて良いんです。逃れようと頑張らなくても良いんです。だって原因も解決方法も、最初から無いんだもの」。「救いがないとかじゃない、問題なんて最初から無ければ、解決なんてしなくても良いでしょう?」、元々最初から「本当に何もない」のだから、知ることもなく、得ることもない。本当に、何にもなり立たないんです。何かあるとするなら、それは貴方の錯覚です。「貴方の中には、何も無い」。 真実を理解することなんてしなくて良い、涅槃に到達することもしなくていい、悟りを得るなんてしなくて良い。そもそも悟りである「何かから救われよう」と求める人は、日頃「例えば心をざわつかせるようなもの、本当は何にも無いんだよ。だから安らげるな、安らごうか」という安心できる意識の場所に至る知識や、それを実践していて、それを拠り所としているから、前述の「妄想な世界」に拘ることもないので、心にわだかまりがない。(多分、苦しさとか悲しさとかそういうネガティブなもの? 等に)捕らわれることもないし、だから恐れることもない。「全ての迷いから遠く離れているから、心は永遠に安らか」なのです。過去、現在、未来の仏様たちも、そういった安らぎに至る知恵、やり方を実践をすることで、妄想の世界の中から、謂わば本当の本当な「悟り」を得ることができたのです。 だから、その「大いなる安らぎの境地に至る知恵とやり方の実践」こそが、真実の言葉、悟りの言葉、最高の言葉で、一切の苦しみや虚しさを取り除いてくれるのです。じゃあ教えますね、この安らぎの境地に至るための、真実の言葉とは。「歩いて行こうとする人よ、生きていこうとする人よ、どうか、現実、妄想に捕らわれない、「あぁ、此処には何にも無いんだな。それこそ苦しさ悲しさというものさえも」という安らぎの境地へいきなさい。みんなそろって、いきなさい」。

  • 右腹部の激痛

    常時ではないのですが、身体を捻るような姿勢をとると、右腹部(中心がみぞおちの右5cm程、手のひら大の範囲)に激痛がはしる時があります。 激痛時に姿勢を正していれば1分程で激痛からは解放されるのですが、平常時でもほんの少しだけ感覚はあります。ほんの僅かであって、気になるとか眠れないとかはないです。 痛みの種類で言えば、脚が攣るに似ています。 これは内臓疾患に関するサインなのでしょうか? 今までは内臓疾患の病は経験したことがないです。 良きアドバイスを宜しくお願いします。

  • 無の悟りは後世において空の悟りに変化した

    いつものヤツの続きで前回はコレ↓ 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである http://okwave.jp/qa/q7755513.html 参考にコレ↓ 釈迦の無我の悟りは不完全であり幻想だ。 http://okwave.jp/qa/q7974792.html 無の悟りと言うか、哲学は有無の明白な分別を養ったり身につけたりすることで、 「無根であり無い事柄である」 「それを語る言葉はない」 この二つを使い分けて、有る事とない事を一切無と表現することである。 ただ、仏教の枠内の哲学だと無について、徹底的に「無根であり無い事柄である」これを追及しているようだ。 釈迦が「無根であり無い事柄である」すなわちそんなのありゃしねーと裸踊りした言葉を肯定しすぎて、否定出来ないはずの自らの信仰すら、無根とし一切無を取り違えている。 そこで後世に出てきた言葉が「空」であるのだろう。 無根であっても、私には信仰があり心がうるおっている。 これが空だ。 この空を取ってつけた、徹底してそんなのありゃしねーであっても、信仰そのものは似たり寄ったりだが、考え方の方、無の哲学が未成熟だ。 無の哲学は、有無の分別から発展して知恵を付ける事で、「無」と「空」を使い分けると趣旨がぶれる。 一切無の考えはできないのだ。 でも他人事だから好きにすればいいじゃないか。 そう考えるのだが、分析や批判をお答えください。

  • 哲学は人を救うか?

    般若心経の最後に गते गते पारगते पारसंगते बोधि स्वाहा (サンスクリット) gate gate pāra-gate pāra-saṃ-gate bodhi svāhā(同 ローマ字表記) ガテー カテー パーラ ガテー パーラ サンガテー ボーディヒ スワーハー(同上 読み##) 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提 薩婆訶  (唐三蔵法師玄奘訳) ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそぎゃてい ぼじそわか (上記読み) 行った 行った みな彼岸に行った さとりよ めでたし (山名哲史訳) 往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 彼岸に全く往ける者よ さとりよ 幸あれ (中村元訳 #) 到達者よ 到達者よ 彼岸到達者よ 完全な彼岸到達者よ 悟りよ 幸あれ (涌井和訳 ##) とあります。最後は「悟りよ 幸あれ」となっています。 ところで哲学は何故考えるか それはどうしてか分からないからです そして考えていくと 最後は悟りと言うものがあるのかどうかと言う問題も出てきます。 悟りよ幸あれは 仏教の経典の訳ですが 私も思います 哲学の知識によって人間が幸せになることを 苦しむ人が救われることを。四苦八苦の人生から救われる事を。 宗教の教理が古くなって実効性が乏しくなって来ました ここで哲学はどの様な教理を提供できるでしょうか?その一部でも思いつきませんか? あなたが現代の哲学の教理に入れたいと思う事はどの様な事でしょう 人権を侵害しないことでも 心を大切にすることでも 色々大事なことはあると思います。 貴方なら何を入れますか? 教えてくださると光栄です。 よろしくお願いします。