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宗教はむしろ争いのもとになるのか

最近、このカテごリ-の一部で暴風雨を伴って流行している、信仰とは非思考が原点でないか?との問いに対する派生質問です。 範囲が広いので今回の問いは以下の私の見解への御回答に限定しての募集です。 他方で交わしたコメントの引用です。 教会、寺などの集会場で采配を振るうお坊さん、聖職者は、一歩間違うと神様の代わりにされることですから、本人にとってはとんでもない事態になって当然です。 そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。 職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。 私はごく普通の一般人とおなじ宗教にかかわりの薄い立場で無神論に対して理解を示す傾向があります。 無神は全ての神々に敬意を示す一般的傾向が示す通り、汎神が本来の姿です。 質問のとっかかりには宗教に批判的な見解が根底にありますが神様争奪戦とでも言えばいいでしょうか。 そのような争いに宗教を守る立場からのご見解をおたずねいたします。 今回はお礼のコメントで論争を仕掛けるつもりは有りません。 言いっぱなし同然状態になるのでつまんないかもしれませんが、ご自由にご回答ください。

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  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.20

『「人は等しくいずれ死を迎える」あったりまえのこと 殺されて死を迎えたからといってなんだというのでしょう。』 なるほど、あなたの死生観、特に死観が少しわかったように思います。 「誰にとっても死は必然だから、その死に方は問わない」というわけですね。どちらかというと来世主義的思考ということですね。 あなたもそれを覚悟した上でおっしゃられているのでしょうが、この発言・・・本気でそう思っているとしても、揚げ足を取られかねない不用意で隙のある発言だと思いますよ。「ならば、今死ね!!」なんて即答で言われそうですね。 まあまあ、これ以上は主旨から離れていくので、この問題は棚にあげることにします。 元へ、采配を振るうお坊さんの心がけは、一番下の平信徒(こういう呼称はあるかどうかわかりませんが)よりも下にあろうとするでしょう。 「高い者は低く、低い者は高く」が最良の信仰姿勢のように思います。 立てられた位置が高ければ、高いほど、自分の存在価値も存在意義も自分概念も所有観念もゼロにするように心がけるのは最低の要件でありましょう。 自分のような者は信仰する資格もない・・・ 自分のような罪深い者が、語る資格もない・・・ 私の主人は、神ではなく、一番末席の信徒である。 私如きが神を信じ、また神に命を捧げるのは厚かましい。 あの平の信徒様に仕えるしもべとして、私は生涯を終えるのだ! そこでどんな犠牲を伴う道が待ち受けていたとしても・・・ そんなことぐらいでは・・・私の不足は補えず、また私の罪は許されない。犠牲の山を千回万回辿ったとしても、私には神を信ずることはおろか、神の名を唱えること自体永久にあってはならないのだ。 お坊さんが、こういうこころがけは最低持ってないとね、その宗教組織はおかしくなってしまいますよね。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 猿山のサルの群れでなく人間の集団ですから、しかも最も神聖であるべき集団ですから、内部に上下関係があり外部には権力がある事はいかがでしょうか。多分そのような意図で無くても自然発生するんでしょうめ。 でも、自覚は有り、自浄努力も自然とできるようですね。

noname#117439
質問者

補足

a17について追加説明です。 言葉で感情が伝わりますから、後者の意味合いのみをマイクの前で表明できると自信がありました。そんな若気の至りです。 死人が出たらこれからお葬式です。 遺族の務めです。 悪人が浮かばれなければ故人も浮かばれません。

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その他の回答 (30)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.10

三権分離では無かった時代、聖職者は政治家でもあったわけです。 従い支配者は自分の支持する宗教を被支配者が信仰している限りは、自分の思い通りに被支配者を束ねることができるが、異端が発生すると、自分に地位も危うくなるので、異端を弾圧していったわけです。 日本に刀狩ってありましたよね。 昔は僧侶は兵士だったので武装していたそうです。 そして派閥で血で血を洗う争いをしていたので、武将が人の心の平和を説く宗教が、人殺しをしまくるとは となり、僧侶から武器を取り上げるために、刀狩が行われることになったのだそうです。 で、古代 ある豪族がいて、自分の支配地を政治的権力者に提供し、都を作る財も提供した。 京都は昔首都でしたが、どうしてあの土地なのかというと、豪族が土地と都を作る資金を提供したから。 そしてその豪族が進める宗教が、神道になったようなんです。 カモがネギしょって。 賀茂氏が禰宜(宮司)を日本各地の宗教団体に派遣して吸収して宗教をもって日本の精神を統一したという歴史がある。 日本には各地にいろんなグループがいて、一つが日本国土を統一していたわけじゃなく、各地で豪族がいたが、宗教を通して吸収していったわけです。 もののけ姫に描かれているが、大和朝廷をまつろわない(服従しない)人々は、蝦夷とか穢多とか呼んで、言葉で差別することで、大和朝廷とは違う集団として迫害していったのだそうです。 というわけで、宗教を利用することで、集団を統率するというやり方は、古代よりあったわけで、宗教が違えば従う政治家が違うということで、政治家は他の集団を排除するため、宗教を使っていたというのも事実。 西洋だとコンスタンティヌス1世が宗教を利用して、トーナメントを勝ち抜いた。 彼自身、キリスト教はど信じてはいなかったが、それを利用して、巨大な帝国を築いたわけです。 というわけで、日本でも宗教団体が盛んに立候補して、日本の主権を取ろうとしていますよね。 宗教家は政治家でもあるべきだ という考えだから。 それをやると不幸になるってことで分離したわけですが、支配欲がものすごい宗教家はみんなの幸福の為だとか言いながら、立候補をやめない。 自分の支配欲により、どうしても政治家になってもっと多くの人を奴隷にしたいというわけです。 しかし実際当選したら、ふんぞりかえっていられるかというと、日本だと、集団に利益を与えない政治家は下ろされる。 自分にたてつかない人たちである信者を増やして、当選しようとしているわけです。 宗教家や政治家というより独裁者になりたがる。 そのために、他の宗教を弾圧したり批判したりして、信者離れを防いだり、大金を出して元支配者だった人たちと談話をしてもらい、それを信者に出す機関紙に載せているわけです。 信者から集めた金で買収し、元権力者と対等に話をした人として信者にアピール。 信者は自分達の寄付金がワイロに使われいるとも知らず、せっせと教祖が出す本を買ったり、選挙の時になると政治活動をしたりするわけです。 結局宗教と政治を分離するってのは、難しい問題なんでしょうね。 宗教が権力を持つという特徴がある限り、何度でも利用されるしかないと思います。

noname#117439
質問者

お礼

有難うございます。 何らかの権力があるということですね。 それが宗教の性質ならば体面上は政治とはなれた現在も何らかの権力があるのかもしれません。

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回答No.9

※ステータスについてはすべて無視してください。

noname#117439
質問者

お礼

了解しました。

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回答No.8

宗教はむしろ争いのもとになるのか  という質問タイトルだけに答えるなら、歴史が証明していると言えるのではないでしょうか。 本人にとってはとんでもない事態になって当然です。  とんでもない事態にならなかった指導者がいたとすれば(特に仏教系の指導者か)、それは「教える」立場に立てば「教わる」人の自力を削ぐことになるということをいつも念頭に置き、留意していたからでしょう。 >そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。  神様として担ぎ上げられることが自他共に とんでもないことになる という事を念頭におかずに「采配」を振るった人がいるとすれば、それは そもそも 心がけ自体がなかった からではないでしょうか。 >職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。  「職分」で自分を規定することが既に「弾劾される役割を引き受けることに納得している」と捉えても言い過ぎではないでしょう。  つまり そういう演じ方 もあるわけです。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほどですね。 >「教わる」人の自力を削ぐことになるということをいつも念頭に置き これについて、誰か他者の信仰を代筆することはできないと言う見解を私は持っています。 それはだれにもできないのではないかと考えます。 よって神を想定する。 又は神に会うのだと考えます。

noname#117439
質問者

補足

追記です。 よって神を想定する。 又は神に会うのだと考えます。 よって神を想定する。 さらには神に会うのだと考えます。 と、しておきましょうか」

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  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.7

すみません、タイトルの方だけを見て、頭に浮かんだことだけを書いてしまったもので・・・ 主題は違っていたのですね。 とすれば、不明な点があります。それは文中「一歩間違うと神様仏様の代わりにされる」のところですが、普通それでいいのではないかと思うのですが・・・というのは自分が神様とイコールだというのであれば、問題ですが、神様仏様の代身者だというなら、傲慢とかではなく、むしろ聖職者としての自覚を持った態度と言えるのではないかと思うからです。 おそらく、「神様と信者とを繋ぐ忠保者」ぐらいの意識があることは、私でも想像できるのですが。 それと、そのあとに続く「本人にとってはとんでもない自体になって当然です」・・・ここの言わんとすることはどういうことなのでしょう。本人がどういう風にとんでもない状態になるのかのイメージが湧かないもので・・・ 蛇足ながら、神を信じている者(聖職者)が、いくら多くの信者を取り仕切る立場に立つからとはいえ、まさか、自分が神だなどとはおこがましくて思いはしますまい。 かえって、神を信じない無神論者なら自分が神だと思いやすいでしょう。神がいないわけですから、鬼のいぬまのなんとやらではありませんが、簡単に人間が神になってしまいます。神がいない代わりに人間が神になるのです。当然というならこちらがより必然に近い当然でありましょう。無神論を根本とする主たる共産主義諸国家では銅像を作って民衆を崇めさせていましたね。 神がいないと人間が最高位になってしまうというなんとも間も抜けるほど人間が単純であることを示す例ですね。 もし、私が独裁者になろうとしたら、自分への崇拝を邪魔するものは排除することでしょう。 神を信ずる信仰と神を信じない信仰の二つがあるなら、より独裁に役立つのは、神を信じない信仰の方です。良心の呵責もなく、自分を神と崇めさせられるからです。神がいないんですから・・・ 残っているのは人間・・・人間の中で一番偉いやつになれば、イコール神ってわけです!! 余談が長すぎましたが、私の不明点の根拠を示したつもりです。 さきほどの二点について補足願います。 私の誤解ならばいいのですが・・・

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 A2については自由な意見表明の場ですので歓迎しております。 補足要求なのでいくつかお答えします。 宗教の本来の役目が信仰心を宿す事のみにあり、信仰を共有することはおまけみたいなもんだとすると、誰かの語った神とはこのようであるという言葉を引用するのは、引用された当人にとって信仰の侵害に当たりますし、引用した当人にとっても自己の信仰心の不在を露呈した形になります。 要するに私は、誰か他者の信仰心を代筆することはできない。と、言う立場をとります。 誰か他者に信仰心を宿す手伝いをすることに終始すれば、それは自らの信仰心を移植することではないと考えます。 そんなことできるのかな?と考えたので今回の質問は聖職者さんたちの一般的な心がけについての問いです。 日本的無神論は、全ての神々に敬意を表すことができる一般的な感覚で解る通り、内訳は汎神論です。 神は居ないとする無神論では本来ありません。 それから >> 「一歩間違うと神様仏様の代わりにされる」のところですが、普通それでいいのではないかと思うのですが・・・というのは自分が神様とイコールだというのであれば、問題ですが、神様仏様の代身者だというなら、傲慢とかではなく、むしろ聖職者としての自覚を持った態度と言えるのではないかと思うからです。 おそらく、「神様と信者とを繋ぐ忠保者」ぐらいの意識があることは、私でも想像できるのですが。 宗教などで神についておたがいに平等な立場で語らう場では、そのような当番としての聖職者もあるのかもしれませんが、個人の信仰では「いいんじゃないか」とするのは、実際には暴力的なほど信仰を阻害します。

noname#117439
質問者

補足

コメントの追加です。 自由な信仰の場。 神について語らう場。 そこでの聖職者の立場は、当番みたいなもので他者と平等であるはずです。 そのような見解から、このところの流行に宗教を擁護する立場なのですが、「それでいいんですよね」とする回答が宗教の内側から出てきていません。

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回答No.6

 哲学っぽく。  「個」「自我」⇔「全体」「真我」←とりあえず適当な言葉が無いので。  イメージとして、神や仏に象徴される好ましい心は「全体」「生産」へと指向し、煩悩とか悪魔で象徴される好ましくない心は「個」あるいは「破壊」へ指向しているように思います。  その「個」として命を与えられた生命は、自身を生かすために、「自我」を必要とします。  でも人の精神は自我100%と受け止めては、理屈を発展させにくくなるので、  宇宙の精神とともに(あるいは与えられて)我(われ)が誕生し、成長するに随って自我が芽生え育つと受け止めて考えを進めます。  悪魔は争いの世界の主ですが、神は争いの無い世界の主であるとして、  神の世界を憧れる気持ちを信仰というならば、なぜその信仰心が争いを作ってしまうのでしょう。  それは「自我」に依る「自我の信仰」だからではないでしょうか。  人の心を、地球を包む大気とその大気に包まれた地球に例えてイメージしてみると、神や仏とつながっている精神と、煩悩と呼ばれる我(われ)とで成していると思えてくるのです。  そう思えば、自我の信仰と自我を離れた信仰があるような気がします。  もちろんはっきりとした境界線があるとは思っていませんが。  ダブりますが宗教により争いがあるとすればそれは「自我による信仰」だからではないでしょうか。(組織としての自我、という捉え方も可能ではないかと思いました)  こんなふうに考えてみたのですが。  また、カエサル・・・の質問への私の回答に、オコリザルさんが取り上げているのを今日知りました。  私にとっては「微妙な指摘」なのでよく吟味し、考えて見ます。  ありがとうございました。                  独り言(思考はいつも柔軟に)                         

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 自我は2000年前の唯識の編纂時にも同様の原型が登場する古い概念ですが、様々に検証の課題として取り扱われても自我という言葉自体は実態がありません。想定上のモデルです。意思の有り方を検証すると自我が存在する前提では説明が付かないほど(私の)意思は柔軟で自由です。

noname#117439
質問者

補足

自我ってのは宗教、心理学、哲学、人生論、などいろんな分野で取り上げられていますよねWIKIなどで概要を読んでも、様々な角度から記述されています。 そのように、自らを検証する上で、ただ単に便利なモデルに過ぎないのは確かな現状です。仏教的に有る無しで語る話題でも有りません。 自らの意思が、他者の働きかけなどで、その他者の意思と、もつれたり衝突したりした場合に、何らかの悪感情がよぎったりしますが、そのような場合に自我を想定すると心の均衡が可能になるので、自我が想定されます。 自我が我である。自我はある。と解釈すると先ほど出た悪感情のことが自我ということになります。そうでなく学問上必要な検証用のモデルです。

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回答No.5

 現代の日本の社会に在っては、大きな流れに於いて争いは起きていないように見えます(少なくとも表面的にはマスコミに表れていないようで)。  宗教は信仰だ。(信仰とはいえない場合も有るのでは、と云う疑問はは置いといて)信仰、つまり「信」ですから他の考えは受け入れにくいという性質があるように思います。    その違うもの同士がぶつかると、そこに争いが発生するのでしょう。  「信」を曲げては信仰になりませんし。  こんな過去の話をすると歳がバレますが以前、念仏論争での末の殺人事件がありました。「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」とどっちが勝(すぐ)れているか、と云ったことだったかと思います。  個人間でさえこんなことが起きます。  ましては組織団体ともなれば、水面下で火花を散らしていてもおかしくはありません。  でも平穏を保っていられるのは、争いはよくないと分かっているから。  種はあるんでしょうね。その種が「信」とは??  くわばら、くわばら。いや、ご用心ご用心。  仏教とキリスト教などの組織が、国際的な話し合いの場を設けて活動しているので、将来に明るい希望を持っています。                   独り言(アムロを聞けば元気になるさ)  

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですか宗教同士の衝突は仕方ないんですね。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

>>神様争奪戦とでも言えばいいでしょうか。 神様争奪戦なら形を変えてご神体争奪戦の祭りもありますから悪いともいえないですね。 宗教団体というのは一般の会社と違って目に見えない者の存在があることは事実ですが、その者が一体どのような神なのかあるいは悪魔なのかは下手な教祖ではわからないのですね。 ご神体争奪戦があるぐらいですし、悪魔となれば混乱・戦争・破壊が大好きだからね。 ほとんどの宗教団体が悪魔にのっとられていても本物の神が主催する団体もあるから宗教も連綿と続いているのでしょうね。また、宗教は人間の本質、神を信じるという本能を失わせないためのものですから結果はどうあれ、その本能だけは保持できるということでしょうね。 まあ、あの世に足位置を置くか、この世に足位置を置くかで考え方は違うということでしょうね。 >>宗教はむしろ争いのもとになるのか 悪魔の主宰団体が多数を占めていますからより争いのもとになりますね。その元は一人一人の欲から来てますけどね。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 なんともお答えのしにくいご回答ですが、今回は思索の材料集めなんで、誰かの参考にはなってくれるでしょう。

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回答No.3

 宗教もイデオロギーも争いのもとになっていることは、認めないわけにはいきません。  でも、宗教もイデオロギーも、以前よりは良い方向に歩んでいるようにも思います。  でもこれからはどうでしょうか。  自然破壊が原因で、食糧難が地球の生物を脅かすようになったら?  ちょっと不安です。                  独り言(愛は与え心、恋は求め心)

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 争いの口実にされていても元凶ではなかったとしたらいかがでしょう。 ふと、思いついたことです。

noname#117439
質問者

補足

この場を借りて愚痴の表明です。 今回の質問の発端となった、言わば宗教有害論に関しては、私は実質的に宗教を擁護する立場に図らずも立っています。 部外者なのにです。 宗教の内部からの擁護論は、なにせどしゃ降りがひどくて見落としています。 それで今回の質問が必要になったわけです。

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  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.2

いろいろな視点があると思いますが、「宗教だからこそ争いになる」のは真理であることでしょう。 端的に言えば、宗教は善観を規定します。そこが争いの元となるのです。 善そのものを追求するのはおそらく全宗教の共通のテーマの一つといえましょう。しかし、何が善かというところで違いが生ずるはずです。 人が善を求める心それ自体は同じでも、その善観は違うのです。 その人(その宗教)が善だと思うことが中心となって何かを思い、その思いに従って行動する時、自分が善だと思う行動と他人が善だと思う行動が違うことによって、善と善が衝突してしまうのです。 まして、宗教の場合は、具体的教義があります。教義があるということは、それを信ずる人からすれば、捉え方にもよりますが、得てして捉え方や解釈が狭くなりがちです。 そういったことから、ますます各宗教、各宗派の善観が狭いものとして規定されてしまうのです。 ですから、宗教同士ほどぶつかりやすいものはないと言えるのです。 「群盲、像を撫でる」というたとえがありますが、まさに宗教者の姿の真実を表わしている最適な言葉でありましょう。 言い方を換えれば、宗教とは、部分部分の断片的真理は知っているのです。しかし、全体がわからないがために無用な戦争をしてしまうのです。中東はその最たる宗教戦場だと言えるのです。 宗教の三つ巴・・・情けない気持ちです。(涙・涙・涙) ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、その三者の教義を比べたらなぜ戦争になるのか・・・かえって、素人の我々の方がよくわかるのです。「ああ、バカやってるな」って客観的にわかるのです。そういう意味では宗教も知らない我々の方がかえって神に近い存在だといえましょう。 宗教を持ったがゆえに戦争し、神に遠くなっていくのでは、本末転倒の最たるものでありましょう。 宗教を信じる篤実な信者ほど重度の盲目になるのは皮肉なことです。 目の光を失って心眼が開く人がいると聞きます。 宗教者にも爪の垢を煎じて飲ませてあげたいものです。情けない!!

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 善性を与えることは飼いならすためのアメです。 教義に高らかにうたう例はまれでしょうが、入信により得られる恩恵とされています。 と、調子を合せてみました。 あくまでも憶測なのでご了承ください。 宗教の内部で当事者になった経験は有りません。

noname#117439
質問者

補足

流れに不安がよぎったので一応言っときます。 教会、寺などの集会場で采配を振るうお坊さん、聖職者は、一歩間違うと神様の代わりにされることですから、本人にとってはとんでもない事態になって当然です。 そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。 職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。 あくまでも主題はこれです。 非思考どーのこーの。 日本的無神論どーのこーの。 に、関しては議題としていません。 宗教の内情についても部外者っぽくお答えすることになります。 間口の広い回答も歓迎しますが返答するの能力を逸脱していますのでご了承ください。

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  • nemoax006
  • ベストアンサー率14% (343/2433)
回答No.1

他者を否定する宗教(アルカイダとかタリバン)にとっては争いの元になるでしょう。現在の宗教は仏教とかキリスト教とかイスラム教は他者を否定しないので争いの元にはならないでしょう。原始宗教、神道も渡来の神も受け入れてきたので神の理解として争いにはならないと思います。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 今回は思索のとっかかりを誰に対しても増やしてもらうサービスセールのつもりの質問です。 あえて私心を挟むようなお礼は致しません。

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    私は普通の女子大生で、特別な知識はありません。テレビやニュースを見てなんとなく感じたことです。アホな文章だったり、見当ハズレなことを言っているかもしれませんが、なんとか読み取ってください。 最近のスピリチュアルブームや日本に新興宗教がたくさんあることを考えると、これからの日本人の宗教への関わり方ってどうなっていくんだろう?と疑問に思いました。 宗教は人間が生きる上で必要なものだと思います。人間の心のよりどころとしての必要性もあると思いますが、さまざまな考え方を持つ人間をまとめるのに宗教はとても便利です。宗教ナシで法律や権力だけで統率するのは難しいと思います。答えが出しにくい問題でも、宗教を基盤に考えたらわかりやすい。 日本には、全くないとは言い切れないけど、宗教による縛り(?)や共通的な価値観は海外に比べて薄いです。それでもなんとかやってこれたのは宗教への鈍感さを補うものがあったからだと思います。 日本は「恥の文化」といわれますよね。そのほか義理人情だとか、仏教的だけどご先祖さまが~とか「今時古いよ」と言われるような考え方が他国の宗教と同じような働きをしてきたと思います。しかし、宗教のような確固たるものではないので、古きよき日本人の考え方古い常識は薄れてきていると思います。(もちろん良いものばかりではないけど) というわけで、スピリチュアルがブームになるのは、今まで日本に当然のようにあった「常識」や指針が揺らいできちゃってるのが原因なのかなぁ?と考えています。流行っているのは必然的なタイミングなのかなぁ?と。 日本人的な考え方がこれからどんどん薄れていくとすると、日本人にも宗教が必要なんじゃないか?(神道の宗教教育?)ほうっておくと、指針のなくなった日本人がスピリチュアルや新興宗教にどんどんはまっていくんじゃないか?なんて思います。 なんか・・何が聞きたいのかわからない文章ですが、上記のことを読み取ってくれた上で、「これからの日本人と宗教はどんなふうにかかわっていくべきか?」について回答者さんの個人的な見解を教えてください。(わかりやすく♪) 私自身は、無宗教(初詣・お盆・クリスマスを楽しむ一般的な日本人)ですが、無神論者ではありません。神に対してはファンタジー感覚です。あと、一神教の排他的な感じはあまり好きではありません。八百万の神をかじった程度の柔軟な感じが好きです。アニミズムもおもしろくて◎。神様も排他的な要素はあるし、天皇が神様になるなど、危険もありますが・・。なので希望としては、今までどおり、宗教に対して曖昧なままで済む日本がいいです。 個人的には何を道徳の基盤にするのか・・というと、特定の宗教に頼らず、聖書やコーランお経、親のしつけ、自分の経験、小説・・などあらゆるものから良いとこ採りして自分なりバイブル(哲学?)を持って生きていたいなぁと思っています。 全体的に意味不明ですがよろしくお願いします。

  • 宗教学に詳しい方おしえてくだい。

    宗教学に詳しい方おしえてくだい。 モーセの十戒に、唯一神であること、偶像崇拝禁止などが含まれています。モーセはイスラエルの民を引き連れ、エジプトを脱出し、新たに十戒を設けたと思うのですが、多神教の教義の問題点(多数の神々、偶像崇拝)を考慮した結果に思われます。 (1) 多神教においての多数の神々を崇拝する事においての問題点はなんですか? (2) 偶像崇拝を禁止した理由はなんですか? (3) その様な記述はありませんか?また、宗教学者の見解はありませんか? また、創世記には、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されていますが、 (4) アブラハムの時代の教義(古代イスラエルの民)には既に偶像崇拝禁止、一神教の概念があったのでしょうか? (5) それとも創世記の内容自体、モーセ以降の時代の人間が、先代から聞いてきた内容を踏まえ、旧約聖書に織り込んだのでしょうか ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるいわゆる聖典の民は、いずれも唯一神がアブラハムを人類救済のために選んだ預言者として尊敬し、祝福する傾向が強いとウィキペディアにありますが、 要約しますと (6) モーセが、何故、唯一神、偶像崇拝を禁止にしたのか・・・その理由 (7) アブラハムの教義には、既に、唯一神、偶像崇拝禁止の概念があったのか (8) アブラハムの生まれた時代には、その周辺の教義は主に何だったのか 以上、宜しくお願い致します。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • (論語) 「天」は「神」で有りや無しや。

    資料1 森 三樹三郎著「天命について」 ~、儒家者流のうちに宿命観的な気分が濃厚に流れていたことになる。その淵源は、おそらく孔子自身のうちに、或いは論語そのもののうちに、求めなければならないであろう。およそ神なき道徳の立場は、多少の程度の差こそあれ、必ず宿命論を招くものである。~ 資料2 任 継愈ほか著、滝野邦雄訳「唯心論的天命観」 ~。老子は自然無為の天道観をはじめて系統立て、唯物論や無神論の考え方をさらに高度な段階に引きあげた。当時、天が最高の人格神であるという地位を否定することは、直接的には宗教的な学説を批判することであり、間接的には~ 資料1には「神なき道徳の立場」とあることから、著者は「天」を「神」ではないと認識しているやに読めます。一方、資料2には「天が最高の人格神であるという地位」とあることから、著者は「天」を「神」だと認識しているやに読めます。宗教学の立場からみるとき、孔子の言う「天」を「神」に分類してはいけないのですか。分類してよいとき、孔子を尊崇している教団には「天」が「神」と呼ばれることを不愉快に思うなどの事情がありますか。 宗教学や思想界、乃至は教団の考え方が分かる程度の解説を希望します。 よろしくお願いします。

  • イエス抜きのキリスト教神学(?)は存在しますか?

    当方、20代前半の会社員です。趣味として宗教を勉強したいです。汎神論(?)的な神道や、無我を強調する仏教よりも、一神教的な神と個人との関係性がどのように考えられてきたかに関心があり、キリスト教の枠内で勉強したいと考えています。ところが、これまで生きてきた中で得た実感として、新約聖書で語られるエピソードやイエスの復活等のいわゆる「物語」の信仰抜きにしてキリスト教の枠内で思索することは不可能では?とのイメージを持っているのですが、どうしても「物語」を信仰レベルで読み、考えることは、これまでも、これからも出来そうにありません。だからといってユダヤ教やイスラム教を勉強したいという気もありません。  そうなると、逆に無神論や不可知論の範囲になってしまうのでしょうか?ニーチェのようにキリスト教を否定せずに、イエスを介さず神と個人との関係に言及した西洋の学者、及び著書はありますか?あるいは、この種の問題の概説書等で参考になるものがあれば教えてください。よろしくお願いします。

  • 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4

    イタズラ回答を回避しながら断続的投稿です。 その一12月22日付 ​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5539308.html​ 宗教と言う組織の特徴的な現象として「神様争奪戦」の弊害の原因として神仏に取りすがる姿勢を提起したつもりです。 その2 12月31日付 質問趣旨が誤解されてアラシにあったので削除されました。 その3 1月6日付 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5573063.html 自助と互助のバランスとして信仰の共同体(宗教)の役割を問おうとしました。 思いがけずA1さんより健全な信仰心の在り方についてコメントをいただいていますが、そのような感謝とは別にあらかじめ神仏に要求を突き付けるのはとりすがりと言うべきではなかろうかとも考えます。 宗教が健全な信仰をはぐくみより良く生きるための互助団体として機能すれば話は早いのですが、実情はご利益追求のための信仰とは無縁の欲望の成就を祈願するとりすがり団体の側面があり、肥大化した求心力ゆえの暴挙として、要するに神様争奪戦として歴史に現れる失点があるのではないか。 その原因の一つとして曲がった求心力を信仰に期待するとりすがりがあり、集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。 私は平均的な日本人らしい生活をしており、信仰を表ざたにしたり意識的に生活に取り入れたりはしません。このような普通人にとって信仰を表ざたにする立場とは、とりすがりに代表される神仏への辱めを行う人間としての裏切り者、廃人、とも受け止められます。もちろんこれは偏見と判りますが、一般的に信仰におぼれる者の特徴として毛嫌いされる要素です。この点について信仰の内側よりの説明をいただきたいと思って質問しています。

このQ&Aのポイント
  • 新規購入のパソコン(Windows11)に会計ソフトをインストールしようとしたところ、セキュリティソフトにブロックされていてインストールができません。
  • セキュリティソフトを一時的に休止することで、インストールが可能になります。
  • 一時休止と復帰の方法について教えます。
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