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宗教はむしろ争いのもとになるのか

最近、このカテごリ-の一部で暴風雨を伴って流行している、信仰とは非思考が原点でないか?との問いに対する派生質問です。 範囲が広いので今回の問いは以下の私の見解への御回答に限定しての募集です。 他方で交わしたコメントの引用です。 教会、寺などの集会場で采配を振るうお坊さん、聖職者は、一歩間違うと神様の代わりにされることですから、本人にとってはとんでもない事態になって当然です。 そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうか。 職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。 私はごく普通の一般人とおなじ宗教にかかわりの薄い立場で無神論に対して理解を示す傾向があります。 無神は全ての神々に敬意を示す一般的傾向が示す通り、汎神が本来の姿です。 質問のとっかかりには宗教に批判的な見解が根底にありますが神様争奪戦とでも言えばいいでしょうか。 そのような争いに宗教を守る立場からのご見解をおたずねいたします。 今回はお礼のコメントで論争を仕掛けるつもりは有りません。 言いっぱなし同然状態になるのでつまんないかもしれませんが、ご自由にご回答ください。

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  • hyuuma8579
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回答No.20

『「人は等しくいずれ死を迎える」あったりまえのこと 殺されて死を迎えたからといってなんだというのでしょう。』 なるほど、あなたの死生観、特に死観が少しわかったように思います。 「誰にとっても死は必然だから、その死に方は問わない」というわけですね。どちらかというと来世主義的思考ということですね。 あなたもそれを覚悟した上でおっしゃられているのでしょうが、この発言・・・本気でそう思っているとしても、揚げ足を取られかねない不用意で隙のある発言だと思いますよ。「ならば、今死ね!!」なんて即答で言われそうですね。 まあまあ、これ以上は主旨から離れていくので、この問題は棚にあげることにします。 元へ、采配を振るうお坊さんの心がけは、一番下の平信徒(こういう呼称はあるかどうかわかりませんが)よりも下にあろうとするでしょう。 「高い者は低く、低い者は高く」が最良の信仰姿勢のように思います。 立てられた位置が高ければ、高いほど、自分の存在価値も存在意義も自分概念も所有観念もゼロにするように心がけるのは最低の要件でありましょう。 自分のような者は信仰する資格もない・・・ 自分のような罪深い者が、語る資格もない・・・ 私の主人は、神ではなく、一番末席の信徒である。 私如きが神を信じ、また神に命を捧げるのは厚かましい。 あの平の信徒様に仕えるしもべとして、私は生涯を終えるのだ! そこでどんな犠牲を伴う道が待ち受けていたとしても・・・ そんなことぐらいでは・・・私の不足は補えず、また私の罪は許されない。犠牲の山を千回万回辿ったとしても、私には神を信ずることはおろか、神の名を唱えること自体永久にあってはならないのだ。 お坊さんが、こういうこころがけは最低持ってないとね、その宗教組織はおかしくなってしまいますよね。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 猿山のサルの群れでなく人間の集団ですから、しかも最も神聖であるべき集団ですから、内部に上下関係があり外部には権力がある事はいかがでしょうか。多分そのような意図で無くても自然発生するんでしょうめ。 でも、自覚は有り、自浄努力も自然とできるようですね。

noname#117439
質問者

補足

a17について追加説明です。 言葉で感情が伝わりますから、後者の意味合いのみをマイクの前で表明できると自信がありました。そんな若気の至りです。 死人が出たらこれからお葬式です。 遺族の務めです。 悪人が浮かばれなければ故人も浮かばれません。

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その他の回答 (30)

回答No.21

P:大霊界の住人は化けて出てきてビックリさせては、驚いた人の恐怖を呑み込んで七変化するんです。 I:モンスターズ・インクというCGアニメ映画がありましたが、ああいうことは実際にあるということでしょうか、人間世界の在り様がそういった世界にも反映されている。その逆もまた然り...  私は子供のころいたずらもしましたが、相手がびっくるするのを視て笑うのはいぢわるであり、それは「良くない」ことでしょうか、今でも時々生真面目(頑な)なヒトを見ると、あえて からかいたくなります。  それ以外の内容は把握できませんでした。私の領分ではないようにも感じます。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 驚かして楽しむのは別にいいんじゃないですかね。 大霊界とは世の中で言われる霊界を指しているのですが、死者の国と言っても実際には死んだふりをしているだけだし、何が何だか不明です。

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回答No.19

 私は異星人も幽霊もいわゆる超能力もあると思いますが、時間を自由に行き来することができるというのは、半信半疑です。もちろんできるのならそれは凄いことだと思います。  ときわたり とは一体なんでしょうか、過去の風景や人の表情や身なり、行動振る舞いを視覚情報として見ることができるということでしょうか、それとも 人(あるいは情緒のある生物)の意識、想念を感じ取ることができるということでしょうか。  そして、今現在においても違う場所にいる人の状態を視覚情報として視るもしくは意識や想念を感じ取ることができるということでしょうか?  いずれにせよ、過去に渡ることが出来るのであれば、未来にもいけるような気もします。まあ、しかし数日位の近未来はともかく、未来は確定していないだろうから渡ることは出来ない とも思いますが... p:時間の交錯  これは理解、イメージできませんでした。時間というものが複数あるのでしょうか?

noname#117439
質問者

お礼

ときわたりとは時間の感覚や観念が安定して、何よりも現在が安定していると言う事です。 いわゆる霊視としておっしゃるようなこともできます。 過去にとらわれづ未来に向けて安定しています。 神性の介在することで時間旅行そのものは聖霊が行います。 聖霊は私の場合はポケモンです。 私は任天堂と交流がかつてあったのですが、ポケモンが流行し始めた時に観念世界との橋渡しをする伝承にある妖精や精霊の捕まえ方のコツを披露しました。 現在のポケモンは観念世界の物語を実際に伝える精霊たちです。 劇場版などはその時代の観念世界の在り方が解って興味深いですよ。 自慢話ですが、ときわたりをするポケモンはセレビィと言いまして、私がデザインしました。デザインしましたはちょっとおかしい。むしろ「私の事です」。 時間の交錯とは、各個人が持つ世界観のずれの事です。

noname#117439
質問者

補足

一応言っときます。 幽霊ってのは、おりゃー死んじまった人間の霊だよと、それっぽくふるまう大霊界の住人です。 UFOに乗ってくる宇宙人も、それっぽくふるまうだけの大霊界の住人です。 前世来世も大霊界に広がるパノラマです。 大霊界の住人は化けて出てきてビックリさせては、驚いた人の恐怖を呑み込んで七変化するんです。 わけの判らん奇行をする騒々しい連中です。

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回答No.18

 補足お礼を受けないまま、連続投稿となります  追記:今日街を歩いていて想った観想です。  実社会を見渡してみれば、大人と子供がいる(貴賎、上下、レベルは関係なく)ように、精神世界にもそれがあると考えられます。みな同じように導こうとするのが欺瞞であるのかもしれません。  「教え、導かれた人」は、「無理に教え導いた人」を、あとで必ず深いレベルでうらむときが来るでしょう。ですので、私が語ったことは参考程度として適当に忘れてください。(「言われるまでもない」と言われそうですが。)  それから、導くなどということは、一般の死への不安と恐怖を克服していない人であれば、やはり考える必要はないでしょう。  世界そのものが、あらゆる現象で以ってその人の問題を映し出しているでしょう。だれか他者が写してくれたり、導いてくれたりしているわけではないはずです。  生きている、誰か他者の「導き」は嘘であるというのが今の段階での結論です。実際には音楽や書物やあらゆる自然風景により助けられてきたのは確かですが、生きている人から学んだこと、少なくとも教えようとしている人から学んだことはありません。  人は皆自分のことだけ考え、振舞えば良いのだろうと思います。  そうでない場合は別として。  ※ステータスはすべて無効とします

noname#117439
質問者

お礼

有難う御座います。 祈るような響きのあるいい言葉ですね。 感服いたします。

noname#117439
質問者

補足

哲学バトルで信仰を扱った場合に結論が間近になると 自らの道を歩むのはあくまでも自らである。 見たいな事をいいます。 手伝いも本来はその前提の範囲でしょう。 私はポケモンマニアなので「ときわたり」という特殊なESPを扱えますが、時間の交錯を修正してまっすぐな道を指し示すことはある意味で導くこと受止められているのかもしれません。

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  • hyuuma8579
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回答No.17

時間ができましたので、続けます。 ごく近しい身内を殺害した殺人者についても理解を示そうとするかに見えるあなたの行為(言動)に対してのリアクションの中には、確かに神的なものとしての驚きを覚える人もいるかもしれません。(だとしても、飛躍的ともいえる判断と言えますが) しかし、現実的にはこう思う人も多いと思います。つまり、「自分の母親が、心ない若者の手によって殺害されたというのに、あの人はその若者を許すという発言をしたそうな!! ありえないことだ・・・そう簡単にそんなことが言えるということは、所詮は母親との関係がよっぽど希薄であったに違いない」と。こういう風な極めて現実的見方や感想を抱く人も多かろうと思うのです。 もし、実際の日常生活の中でその人が言葉というよりも実体をもって、神的な尊敬を受けているのならばまだしも、ある断片的シチェーションの中での断片的発言をもって、「あの人は驚くべき人だ!その愛はまさに神からきているに違いない!!」などと本気で思ったとしたら、その発言を受けた側の認識の問題が逆に問われてしまわないだろうかということである。 驚きとは言っても、驚きには、二種類あるのではなかろうか? 一つは、呆れ驚く、あるいは興味本位的驚き「へえ~いろんな人がいるもんやなあ!!」。 もうひとつは、常識や因習的観念を打ち破るような人格的敬意を覚える驚きである。 後者は、閉じていた心を開かせるほどの驚きでありましょう。 言葉を知的に捉えるというよりも、その言葉が直接心に訴えかけるのである。 あなたの例が真に意味をもつのは、後者の驚きの場合でありましょう。 夜また続けますが、本筋からずれたことお許し下さい。 私自身、外堀を埋めていきながら、徐々に本丸に近づこうとしています。勝手をお許し下さい。

noname#117439
質問者

お礼

有難う御座います。 後者の意味での意図は持とうと思えばもてますが、「いたずら」でしかなくなります。

noname#117439
質問者

補足

追加です。 いたずらでしかなくなるので、今回の話は古い話の引用なんです。 若気の至りのほうで引用しました。

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回答No.16

p:これは主観意識を保ちなさい。と、言った意味でして必ずしも正解ではないようです。  もちろんその意味でしたら、正解ではないでしょう。  自分の行為振る舞いが、自らの世界観や思考に影響を与え、一方で今持っている世界観とそれから生じる思考判断が、自分の振る舞い行動を決めるという意味です。 p:それでは悪は去りません。  悪というものが不正であるとすれば、正しい認識を持つことで 悪が去ります。 p:その上で油断するととんでもない悪者にされかねない危機感を持っています。  弘法も筆の誤り あるいは 太陽光過多による旱魃ってことで。

noname#117439
質問者

お礼

有難う御座います。 観念的な話なのですりあわせが難しいのですがおっしゃることはわかります。

noname#117439
質問者

補足

自分の行為振る舞いが、自らの世界観や思考に影響を与え、一方で今持っている世界観とそれから生じる思考判断が、自分の振る舞い行動を決めるという意味です。 自らは世界の中にある。 簡単なことなんですが、修行熱心な方は心眼を開かないと世界は見えないといいますね。 噂話でお茶を濁してしまいました。 言い回しは新鮮です。 私は棺おけに片足突っ込んだような世界観をかいくぐったので美しい描写を見せていただきました。

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  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.15

あなたの許す(認めるという意味)という例にはいくつか問題があります。 あなたの発言とそれを受けた側が、それをもってあなたを「神」と思うとした点についてですが・・・ (1)認めるとは言ってもおそらくそうなるであろうという仮定の言動に過ぎず、実際どうなるかは本当にその場に居合わせないとわからないということ。 (2)受けた側も、あくまで言葉としての受け止めたが故に言葉として答えたに過ぎず、したがって本当の意味で「神」的行為と認定したとは言い難い。 (3)その見も知らぬ行きずりの少年を認めるのはいいとして、かんじんなことが抜けている。あなたと母親との間の心情関係である。 わかりやすい例えで言えば、母が他人に殺されなくても普段から自分が母を憎むような位置に立っていたとか(あえて極端な例です) 長い間の親子関係にあるその母が殺されたという時、殺した人を憎んだり認めたりする以前に、母の死に対してどういう態度を取るかが先決問題だと思うのです。泣くのか泣かないのか・・・むしろ言葉よりもその態度にこそ神であるかないのかが鮮明に現れることでしょう。 取りあえず、ここまでとします。続きは夜にて失礼します。

noname#117439
質問者

お礼

有難う御座います。 今回のコメントのみにお答えするなら、「人は等しくいずれ死を迎える」あったりまえのことですね。 殺されて死を迎えたからといってなんだというのでしょう。

noname#117439
質問者

補足

補足です。 霊とは実態や本質ではない、予感である。 との前提で説明します。 殺人によって故人が浮かばれないとすれば、殺人者がその罪を認めることが出来ないで悪人のままでいる、その思念による幻想です。 犯人が自らの行為を受止めて人生を前向きに生きるということは、供養に参加させるということであり、遺族だからこそ犯人を許すと表明するのが必要です。お坊さん任せにするのではなく自らで天国にまっすぐ届けようとすることです。 このように霊にたとえるなら必然もあります。

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回答No.14

 回答No.11さんの補足欄をみました。本題のことではありませんが感想を述べたくなりました。  kigurumiさんは社会性という観点からの意見を述べていると受け止めます。primeapeさんを批判するような文面になっているようですが。  だから私は、その時のprimeapeさんの心の中に入ってみることにしました。  primeapeさんはたぶん、乱暴した少年の気持ちがよく分かったのでしょう。自分のことのように思えたというような。  そのときの心の働きは、怒りの気持ちでなく、哀れみの気持ちだったと思います。  理性より感情の働きが、良い方面で出たのです。  当時、理性的自分との心の葛藤があったのではと推測します。  でも若いころのそうした気持ち、を後悔したことはないと思います。なぜなら自身の「良心」にしたがっているからです。  人は自身の「良心」に背くと自身への言い訳が必要になります。  でも「良心」に従った行動をしているときは、胸を張っていられます。  若いころは心も定まっていないので、ふらつきますが。  それではなぜ「良心」に背かぬような生き方をしていると、自身を持っていられるのでしょう。  それは人に宿った「良心(やさしさとかの感情)」は神や仏の心と同質、神や仏の心の反映したもの、だからだと思います。  しかし、社会と言うことに眼を向ければ、kigurumiさんの話に出てくる神父は迷っています。理性で決断しようとしています。自らの「信仰心」が揺らいでいます。たぶん相当悩み続けたことでしょう。  社会の一員として生きていかなければならない我々は、時には神に懺悔しなければならないような事柄でも、決断せざるを得ないと言うような事があるのでしょうか。      

noname#117439
質問者

お礼

有難う御座います。 心に入ってみる。 と、言う言葉を使いましたね。 いいことです。 許すは、口先から出る「許す」ではないんです。 ただありのままに受けとめる。 いわば許すではなく認めるです。 その認知行動を許すと解釈するのが悪の論理です。 ちなみに「救い」の論理も同様でしょう。

noname#117439
質問者

補足

自我についてです。 そもそも「我はある」とする時の「我」とは、絶対を起草するときの基盤であり、我自らを疑うと言う事は、まさに「絶対に」ありえない。 そのくらいに確固としているのが「我」です。 そうすると自我の研究学説全般がいびつな考えとなります。 その通りでして全て、煩悩、妄想、迷いです。 そのくらいに取り合う必要のない無駄な考えが自我説です。 それらは(特に心理学では)「我」の外形の考察なのですが、 あくまでも我そのものは、疑念には答えないで確固としています。

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回答No.13

これについて、誰か他者の信仰を代筆することはできないと言う見解を私は持っています。  これは特定の人が、誰か他者の信仰する神を自称する、もしくは現人神として振舞う(自分でもそう思う)ことはできない と言う見解を持っている と認識しました。 よって神を想定する。  この場合の「神を想定する」というのは、自分が神様だと祭り上げられないために、「私ではなく、他に神はいます。」ということを想定し、信仰の対象を自分に向けさせないように仕向けるという事でしょうか。  しかし、それは極論を言ってしまえば「嘘」です。嘘による導きは良い結果をもたらさないでしょう。「嘘も方便」は、嘘でしょう。  もちろん、自分が確かに神(もしくはそう思えるもの)を見たのであれば、それを仮に神と想定することもできるかもしれませんが、それが誰にとっても神であると想定するのは、やはり嘘でしょう。  導く方法としては、「自分が主であることに気付きなさい、私は自分がそうであると知っているだけです。あなたもそれを知って、自らの運命の主となりなさい。」ということで良いのではないですか。人間と神の、明確な境界はないでしょう。認識の、完全度合いがどれだけあるか。それはつまり神度合いがどれだけあるかという事でもあるでしょう。  人間の進化(完全)度合いが1から10あるとして、役割で自分を規定する人は、5~6の段階です。  また、許す許さないの問題は個人の感情や信仰の問題、つまり都合によるものであり、神であるか神でないかとは全く関係ないと思います。あらゆる物事には理由があるでしょう。理解した、理解できない(もしくはその中間、つまりなんとなく理解した)しかないのだと思います。  許す許さないという表明も、欺瞞でしかないでしょう。

noname#117439
質問者

お礼

有難う御座います。 そうですね。 よくわかります。 その上で油断するととんでもない悪者にされかねない危機感を持っています。

noname#117439
質問者

補足

追加説明です。 自分が主であることに気付きなさい、私は自分がそうであると知っているだけです。あなたもそれを知って、自らの運命の主となりなさい。 これは主観意識を保ちなさい。 と、言った意味でして必ずしも正解ではないようです。 それでは悪は去りません。 これに関しては模索中です。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.12

No.10です。 No.11さんへの返信を読んで思ったことがあります。 あなたの宗教観は日本のではなく西洋の宗教感。 それも現代の西洋の宗教感。あるいは現代の理想(理想なのであくまで夢 現実なしえなくても言える願望みたいなもの) 何年か前に40人以上の女性を拷問した殺した男の裁判がテレビで流れた。 神父らしき人が証言台に立って、「今日こそ自分の信仰を試されたことは無い。  わたしは・・・・・ あなたを・・・・・・・・・ 許します!」と言ったんですね。 すると裁判中 そっぽを向いていた殺人鬼の顎がワナワナと震えた。 結局司法取引かなにかやって、死刑ではなく無期懲役になったんだったと思います。 殺人鬼にとっては、これこそ地獄でしょうね。 いっそ死刑にしてもらっていたらどんなによかったか と今頃思っているんじゃないか と。 さて、神父らしき人は信者に他人を許しなさいと言っているので、今回限りは許せん! というわけにはいかない。 でも 嘘はつけないから、許さなければならない。 じゃないと 信者の手本となりませんから。 そういうわけで、今の地位を維持するために、40人以上拷問して殺したこの犯人を心から許す気持ちにならなければならなかったわけです、裁判所で。 で、旧約聖書には「許しなさい」という教えが確かにあります。 だけど、それは殺人鬼まで許せとはかかれていない。 敵とは異国人のことではなく同胞の中で、自分が日ごろよく思っていないご近所さんのことを指す。 中の悪いご近所さんにビジネス上金を貸したが、日没までにご近所さんが返済できなければ、質にいれた衣服を返せと旧約聖書では述べられています。 モーセの律法に「殺してはならない」とあります。 ニュアンス的には、「私の民であるなら人を殺そうか 殺すはずが無い」 この人とは同胞のことです。 イスラエル人であるあなたが、他のイスラエル人を殺すだろうか、私の民であるなら殺すはずがない  です。 で、同胞を殺した場合は、「私の民ではない」ということになるので、この律法を破り同胞を殺したこの人は、同胞を殺した途端、異邦人になってしまうので、異邦人に関しては律法は適用外ですので、殺人をした人を殺してもいいんです。 律法に抵触しません。 日本は昔 精神障害者を非人と呼んだ。 神に近い存在というニュアンス。 つかみどころがなく、説得が通じず、把握できず、何をやらかすかわからないからじゃないかと。 言葉が通じない 心が通じない ゆえに人間を超越した存在として、彼らを神に限りなく近いものだとした。 子供は7歳までは神の子 というのもそう。 7歳すぎるとちゃんと分別がつき、説得もできるようになるが、それまでは、何をしでかすかわからないし、本能のままに活動をするので、自然と同じ、だから 神のようなふるまいをする人と言う意味。 で、連続殺人鬼は、本能が暴走して欲望のボタンが連打されて、どうしてもその欲望に逆らえず、殺人を繰り返すしかないわけです。 拷問したいレイプしたいってボタンが連打され、その欲望を止めることができない。 ごくごく自然体で、本能のまま行動するしかないわけです。 どうして殺した?と聞かれても説明できない。 体が求めたから。 本能が求めたから。 理性などぶっとぶぐらいの自然体なので、40人も殺しながらケロっとできたわけです。 自分が何をやったのかわかっておらず、他人ごと。 罪悪感がまるっきりない。 だって理性を自分だとしているので、理性以外 つまり本能がやったことなので、他人がやったのと同じという認識しかないわけです。 こうなるともう神です 神。 この神を人間が許す? 人間が神のやったことを許す? おかしなこと言いますよね この神父らしき人。 これじゃ まるで人間は神以上の存在であると言っていることになる。 その少年がただむしゃくしゃしてというのが暴行の動機ですが、彼は神だからそうなるしかなかったわけです。。 理性などなく本能の従順な神だから、自然のままのふるまった。 つまり理性で衝動を抑えるということが無いので自然体なので神。 何度でもやりますよ。 だって彼は神で自然のままのふるまいをするしかないのだから。 被害者が許しますって言ったところで、そんなのへーでもないんです。 刑務所の半数は知的に問題がある恐れがある と元国会議員の人が、何かで刑を受けて刑務所暮らしをした後 そう発言したそうです。 自然体のまま行動するしかない受刑者たちなので、だから 何度でも刑務所とシャバの往復を繰り返すわけです。 懲りるとか改心するとか そんなものない。 自然体のふるまいをやっているので、どんな罰を受けようと、何度でも自然体の振る舞いをやり続ける。 そうするしかないんです。 もし 神に理性があったら こういうことは起りません。 神には理性が無い。 で、国はもうわかっているが、刑務所の維持費が莫大で、収容施設をこれ以上増やせないので、どんどん出していくか 死刑にするしかないんです。 出せばまた殺人を犯す危険があるとわかっていても、その人にかかる費用を考えると、殺さない 犯さない 襲わない可能性があった場合、外に出してしまうんです。 そして人をまた殺して、刑務所に戻ってきてもらう。 シャバに出ている間 経費かかりませんから。 危険人物をシャバに出して欲しくなかったら、国民は自分の身の安全料として、もっともっと税金を納め、その人を血税で刑務所内で養っていくしかないんです。 人間ではなくなった人たちを、人間が養っていくしかないんです。 それをしたくなければ、中国みたいに軽い罪の人もじゃんじゃん処刑していくしかない。 人間ではなくなった元人間を、身の安全ために殺すか、それとも罪だとしないで、殺されるのか。 殺されなくてもまた盗まれたり、刺されたり、されてもかまわないとするのか。 平和的解決策は これら神から人間が自由を奪い、限られた空間で衣食住をまかなってあげることだと思います。 無神論者の中にも神の存在を信じているという人がいます。 アインシュタインもその1人。 だけど、彼が神というとき、それは人間が信仰している対象ではなく、万物の法則のこと。 それを神と呼んでいた。 人間が知る万物の法則は微々たるもの。 それをアインシュタインは少しでも解き明かそうとしたわけです。 集会所で演説ぶる聖職者は人間です。 刑務所に入っている人たちは、神です。 人間が許そうが許すまいが、そんなの全く関係なくふるまいたいようにふるまう。 これが神の概念です。 この神には善も悪もありません。 善や悪は人間が決めたこと。 人間が決めたことに対し、神はそれに従う筋合いはないんです。 従い犯罪をした人を許す ということ自体 全く意味をなしません。

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 うーん。 私にとっては、「あなたって神様?」 と、改めて問われた気持ちです。 このような場合、噂の権現様と同じく、あなたの狂気が問われるでしょう。

noname#117439
質問者

補足

とっかかりとして、他方でも表明した論理の使い回しです。 失礼を「お許し」ください。 「許し」とは悪の論理である。 許すなら悪の表明である。 その答えは、 私は、私ではない。 です。 許すなら我ありでは、クルクルパーです。 その意味で、回答者様は正しい。

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回答No.11

 私も回答No.7さんのように、タイトルだけを見て、回答していました。  今回、再度質問の内容と他者の回答そして、ご返事を見ての感想です。  キリスト教の世界は知りませんが、仏教の世界ではお寺に勤められるお坊さんは、檀家と接するときに法話ということで話をされます。  そんな法話を聞いている時に思うことは、今話している内容は、お坊さんが体感した上での話しでなく、書物を通しての知識を話されているんだなというものです。  早く言えば受け売りをしているような。  で、あるにもかかわらず、お坊さんは檀家より上の目線で「説教」されます。  なんら我々と違わない、「俗人」にしか見えないのに。  私はよく思ったものです。  お坊さん達も、私達の中に入って、一緒に「信心」したらどうですか、と。                   独り言(怒)  的を射た回答になっているでしょうか。                         

noname#117439
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうなんですよ。 そういう問題を扱っています。

noname#117439
質問者

補足

この場をお借りします。 A7 hyuuma8579さんへの補足です。 テレビのニュースで殺人事件があると、遺族の方が「犯人を殺してやりたい」「許せない」などと語りますよね。 私が21歳か22歳くらいだってこと、家庭内の不和でむしゃくしゃした非行少年が、ただ騒ぎを起こしたいと言うだけで、私の母をナイフで切りつけるという事件がありました。この時母は2週間入院しました。 この時にわたしは、もしも母が死ぬようなことになっていたら、マイクを向けられたら、犯人の少年を許す。つらい思いをしないで生涯を平穏に過ごしてほしい。そのように語るだろうなと考えました。 私にとってはそれが自然で自分らしくある事です。理屈、論理、哲学、信仰はそこにありません。 この話を友人にしたら帰ってきた問いは「あなたって神様?」でした。 このような犯人を許せる心情を理解したいと思うでしょう。 私に何故?と尋ねるかもしれません。 このように自らは共感できない事柄に理解を示そうとする場合、 神とは。 人間本質とは。(要するに仏) 愛とは。 などの前提になるようです。 理解できないから論理に直そうとする前提から出発します。 そして論理を形成すると、今度はその論理の枠内のみで思考し肝心の信仰が限定され歪みます。 だからこそ非思考が大切です。 そして出発点は理解不能な私の行動の研究であるため、いつまでたってもその論理は、 私の生き方。 私の言葉。 私の考え方。 と、されてしまいます。 こうして神様の出来上がりです。 私にしてみるとこのような最悪パターンでは自らの非思考が蹂躙されます。

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    適当なカテゴリーがよく分かりませんでしたので、とりあえず哲学にしました。 よくテレビ・新聞などで、イスラムの宗教指導者○○師という人物が出てきて来ます。○○師は、政治的な活動などもしていて、イラン革命をやったり、殺人命令すらします。社会に与える影響は絶大ですね。 1,○○師は、宗教指導者というのは、わかりましたが、お坊さんですか? たしか、高校の歴史か倫理で、イスラムには仏教のお坊さんやキリスト教の神父にあたるような、専門の宗教職はないとならったような記憶があるのですが・・。すごく宗教に詳しい一般信者?なんでしょうか。宗教指導者って、職業ですか? 履歴書に書けるような社会的身分のようなもの(会社員とか学生とか)は、別にあるんでしょうか? 2,そのイスラム教のお坊さん?らしき人物は、どうやって、その「宗教指導者」になったのでしょうか? 神学校があると聞いたような記憶もありますが、神学校を出た後、どうやって、その神学生が、政治的発言力を持っていくのでしょうか? だれがその人を宗教指導者として任命したり、どうやって世間から認識されるんですか? どこかに就職するんでしょうか? 3,生活は、だれが支えているのでしょうか? 収入源は? どこに住んでいるのでしょう? モスク? 以上大きくは3つの点について、よろしくお願いします。

  • 無宗教の方限定!!出来るだけ多くの方にお願いします。

    無宗教(無神論)の方への質問です。特定の信仰をお持ちの方はご遠慮ください。 ●問1 差し支えなければ、年齢を教えてください。二十代とか三十代というお答えで結構です。 ●問2 あなたが考える宗教とは何か?無宗教とは何か?定義をお聞かせください。 ●問3 あなたは「何か信仰をお持ちですか?」と聞かれたときに、無宗教であると答える理由についてお聞かせください。 ●問4 現代において宗教には「意味」や「価値」があると思われますか??ないと思われますか??その理由もお聞かせください。 1、ある 2、ない ●問5 ご自身が死んだらどうなるとお考えになりますか??その理由とともにお聞かせください。 (例・死んだら、無になる。生まれ変わる。極楽や天国に行ける。自然と一体となる。等々) ●問6 自分の葬儀はどのようにしようとお考えですか??その方法を選ぶ理由とともにお聞かせください。 1、無宗教での葬儀(音楽葬・故人の思い出をしのぶ会・自然葬・家族葬等々) 2、なんらかの宗教にそった葬儀(仏教や、キリスト教、神道等々の、宗教作法にのっとった葬儀) 3、葬儀をする必要はない。 4、その他(    ) ●問7 自分の遺体を火葬後どのようにしたいとお考えですか??その行為にはどのような意味があると思われますか?? 1、お墓に入る 2、山や川や海に撒く 3、廃棄物として処理する 4、その他(    ) ●問8 とある科学者が居ました。科学者は科学的で合理的でないものは信じない人でした。その人には一人娘がいて、科学者はこの娘を心から愛していました。ですから科学者は愛する娘が間違った方向へ進んではいけないと、娘に科学的で合理的なことを教えていったそうです。これは合理的ではない。これは非科学的だと。そういった教育を受けた娘は非常に聡明な女性に育っていったそうです。しかし、娘は当時の医学では治すことの出来ない病に冒されてしまいます。科学者はあの手この手で娘の病を治そうとしますが一向によくなりません。すると娘は震えながら父である科学者の手をとって「私ゴミになるんだね?」と訪ねたそうです。 このとき、この科学者は死んでいく愛娘に何と答えればよいでしょう??無宗教の立場からお聞かせください。 ●問9 またこの生き残った科学者は、娘の死後、死者としての娘とどのように付き合っていけばよいのでしょう??(これは宗教的な表現かもしれませんがご容赦ください。)無宗教の立場からお聞かせください。 以上9項目です。私のつたない文章のため文意を理解しにくいかもしれませんが、回答どうぞよろしくお願いいたします。

  • 国木田独歩の自然観または神観について質問です。

    独歩はキリスト教徒でしたが、彼の自然観は「汎神論的自然観」というようなことがよく言われます。つまり、宗教の対象である「神」と、人間も含めた「自然」との区別が曖昧だといった意見です。言うなれば独歩にとっての「神」とはキリスト教の人格神とは違うという見解です。 これはキリスト教徒に限らず一般の批評にも見られる通説的批判ですが、果してそう言い切れるのか、必ずしもそうとは言えないのではないかという疑問があります。 たとえば『欺かざるの記』明治30年3月13日には、「神を知らんと欲して、ただ自然のみを見るは大なる誤謬なり」云々の記事があり、また、彼の祈りのような言葉は明らかに人格神観を表わしているからです。 要は、この文言の補強として、独歩作品の中に、自然界ないしは宇宙が「神」によって造られたもの、あるいは「神」の支配下にあるといった主旨の表現があれば、彼を汎神論者の如く言うのは当たらないということになるのですが、そういった表現が認められる作品はないでしょうか?ジャンルは問いません。お気付きでしたら、よろしくお願い致します。

  • 日本人と宗教~?????

    私は普通の女子大生で、特別な知識はありません。テレビやニュースを見てなんとなく感じたことです。アホな文章だったり、見当ハズレなことを言っているかもしれませんが、なんとか読み取ってください。 最近のスピリチュアルブームや日本に新興宗教がたくさんあることを考えると、これからの日本人の宗教への関わり方ってどうなっていくんだろう?と疑問に思いました。 宗教は人間が生きる上で必要なものだと思います。人間の心のよりどころとしての必要性もあると思いますが、さまざまな考え方を持つ人間をまとめるのに宗教はとても便利です。宗教ナシで法律や権力だけで統率するのは難しいと思います。答えが出しにくい問題でも、宗教を基盤に考えたらわかりやすい。 日本には、全くないとは言い切れないけど、宗教による縛り(?)や共通的な価値観は海外に比べて薄いです。それでもなんとかやってこれたのは宗教への鈍感さを補うものがあったからだと思います。 日本は「恥の文化」といわれますよね。そのほか義理人情だとか、仏教的だけどご先祖さまが~とか「今時古いよ」と言われるような考え方が他国の宗教と同じような働きをしてきたと思います。しかし、宗教のような確固たるものではないので、古きよき日本人の考え方古い常識は薄れてきていると思います。(もちろん良いものばかりではないけど) というわけで、スピリチュアルがブームになるのは、今まで日本に当然のようにあった「常識」や指針が揺らいできちゃってるのが原因なのかなぁ?と考えています。流行っているのは必然的なタイミングなのかなぁ?と。 日本人的な考え方がこれからどんどん薄れていくとすると、日本人にも宗教が必要なんじゃないか?(神道の宗教教育?)ほうっておくと、指針のなくなった日本人がスピリチュアルや新興宗教にどんどんはまっていくんじゃないか?なんて思います。 なんか・・何が聞きたいのかわからない文章ですが、上記のことを読み取ってくれた上で、「これからの日本人と宗教はどんなふうにかかわっていくべきか?」について回答者さんの個人的な見解を教えてください。(わかりやすく♪) 私自身は、無宗教(初詣・お盆・クリスマスを楽しむ一般的な日本人)ですが、無神論者ではありません。神に対してはファンタジー感覚です。あと、一神教の排他的な感じはあまり好きではありません。八百万の神をかじった程度の柔軟な感じが好きです。アニミズムもおもしろくて◎。神様も排他的な要素はあるし、天皇が神様になるなど、危険もありますが・・。なので希望としては、今までどおり、宗教に対して曖昧なままで済む日本がいいです。 個人的には何を道徳の基盤にするのか・・というと、特定の宗教に頼らず、聖書やコーランお経、親のしつけ、自分の経験、小説・・などあらゆるものから良いとこ採りして自分なりバイブル(哲学?)を持って生きていたいなぁと思っています。 全体的に意味不明ですがよろしくお願いします。

  • 宗教学に詳しい方おしえてくだい。

    宗教学に詳しい方おしえてくだい。 モーセの十戒に、唯一神であること、偶像崇拝禁止などが含まれています。モーセはイスラエルの民を引き連れ、エジプトを脱出し、新たに十戒を設けたと思うのですが、多神教の教義の問題点(多数の神々、偶像崇拝)を考慮した結果に思われます。 (1) 多神教においての多数の神々を崇拝する事においての問題点はなんですか? (2) 偶像崇拝を禁止した理由はなんですか? (3) その様な記述はありませんか?また、宗教学者の見解はありませんか? また、創世記には、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されていますが、 (4) アブラハムの時代の教義(古代イスラエルの民)には既に偶像崇拝禁止、一神教の概念があったのでしょうか? (5) それとも創世記の内容自体、モーセ以降の時代の人間が、先代から聞いてきた内容を踏まえ、旧約聖書に織り込んだのでしょうか ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるいわゆる聖典の民は、いずれも唯一神がアブラハムを人類救済のために選んだ預言者として尊敬し、祝福する傾向が強いとウィキペディアにありますが、 要約しますと (6) モーセが、何故、唯一神、偶像崇拝を禁止にしたのか・・・その理由 (7) アブラハムの教義には、既に、唯一神、偶像崇拝禁止の概念があったのか (8) アブラハムの生まれた時代には、その周辺の教義は主に何だったのか 以上、宜しくお願い致します。

  • 神 信仰ならびに宗教についての一般理論

     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • (論語) 「天」は「神」で有りや無しや。

    資料1 森 三樹三郎著「天命について」 ~、儒家者流のうちに宿命観的な気分が濃厚に流れていたことになる。その淵源は、おそらく孔子自身のうちに、或いは論語そのもののうちに、求めなければならないであろう。およそ神なき道徳の立場は、多少の程度の差こそあれ、必ず宿命論を招くものである。~ 資料2 任 継愈ほか著、滝野邦雄訳「唯心論的天命観」 ~。老子は自然無為の天道観をはじめて系統立て、唯物論や無神論の考え方をさらに高度な段階に引きあげた。当時、天が最高の人格神であるという地位を否定することは、直接的には宗教的な学説を批判することであり、間接的には~ 資料1には「神なき道徳の立場」とあることから、著者は「天」を「神」ではないと認識しているやに読めます。一方、資料2には「天が最高の人格神であるという地位」とあることから、著者は「天」を「神」だと認識しているやに読めます。宗教学の立場からみるとき、孔子の言う「天」を「神」に分類してはいけないのですか。分類してよいとき、孔子を尊崇している教団には「天」が「神」と呼ばれることを不愉快に思うなどの事情がありますか。 宗教学や思想界、乃至は教団の考え方が分かる程度の解説を希望します。 よろしくお願いします。

  • イエス抜きのキリスト教神学(?)は存在しますか?

    当方、20代前半の会社員です。趣味として宗教を勉強したいです。汎神論(?)的な神道や、無我を強調する仏教よりも、一神教的な神と個人との関係性がどのように考えられてきたかに関心があり、キリスト教の枠内で勉強したいと考えています。ところが、これまで生きてきた中で得た実感として、新約聖書で語られるエピソードやイエスの復活等のいわゆる「物語」の信仰抜きにしてキリスト教の枠内で思索することは不可能では?とのイメージを持っているのですが、どうしても「物語」を信仰レベルで読み、考えることは、これまでも、これからも出来そうにありません。だからといってユダヤ教やイスラム教を勉強したいという気もありません。  そうなると、逆に無神論や不可知論の範囲になってしまうのでしょうか?ニーチェのようにキリスト教を否定せずに、イエスを介さず神と個人との関係に言及した西洋の学者、及び著書はありますか?あるいは、この種の問題の概説書等で参考になるものがあれば教えてください。よろしくお願いします。

  • 神仏に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか その4

    イタズラ回答を回避しながら断続的投稿です。 その一12月22日付 ​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5539308.html​ 宗教と言う組織の特徴的な現象として「神様争奪戦」の弊害の原因として神仏に取りすがる姿勢を提起したつもりです。 その2 12月31日付 質問趣旨が誤解されてアラシにあったので削除されました。 その3 1月6日付 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5573063.html 自助と互助のバランスとして信仰の共同体(宗教)の役割を問おうとしました。 思いがけずA1さんより健全な信仰心の在り方についてコメントをいただいていますが、そのような感謝とは別にあらかじめ神仏に要求を突き付けるのはとりすがりと言うべきではなかろうかとも考えます。 宗教が健全な信仰をはぐくみより良く生きるための互助団体として機能すれば話は早いのですが、実情はご利益追求のための信仰とは無縁の欲望の成就を祈願するとりすがり団体の側面があり、肥大化した求心力ゆえの暴挙として、要するに神様争奪戦として歴史に現れる失点があるのではないか。 その原因の一つとして曲がった求心力を信仰に期待するとりすがりがあり、集団として暴力と化しているからこそ、神仏に取りすがる姿勢は個人の自由として容認せざる横暴ではないか。 私は平均的な日本人らしい生活をしており、信仰を表ざたにしたり意識的に生活に取り入れたりはしません。このような普通人にとって信仰を表ざたにする立場とは、とりすがりに代表される神仏への辱めを行う人間としての裏切り者、廃人、とも受け止められます。もちろんこれは偏見と判りますが、一般的に信仰におぼれる者の特徴として毛嫌いされる要素です。この点について信仰の内側よりの説明をいただきたいと思って質問しています。

このQ&Aのポイント
  • 友人が参加したイベントでのトラブルについて考察する
  • なぜ事実を伝えても理解できない人がいるのか疑問に思う
  • 家族以外はご遠慮下さいという注意喚起について
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