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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

SOLAR_RAYの回答

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.69

brag1.○ 感情もこころも論理思考も何もない こう判断せざるを得ないこと ◇1.独断と偏見を「示し」ているということのようで。お粗末さまでした。 brag2.○ 狂っているというとき 自分は狂っているという自己認識を持つものです。そう発言するものです。 ◇2.狂人は自分が狂人であると認識できないようで。 brag3.☆ これがない。しないのか。出来ていない。かけらが現われたかに見えたが 引っこんだ。永久に引っ込んだようだ。わたしにとってはだ。二度目だからだ。 ◇3.開き直りも甚だしい。「われはある」と言う開き直りと「われは正しい」という開き直りを区別できていないようで。  ※われはあるというのは理屈ではなく、実感するものです、土台がしっかりしていないようで。 brag4.どうして出来ないのか。分からないから課題ではあるが ふつうに取り組む課題ではないようである。 ◇4.「ムキー」ということで。

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    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

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     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?