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福島県と薩摩と長州

だいぶ以前ですが、とあるラジオ放送で「福島県民は上野の西郷さんの銅像に石を投げつけている」と言っておりましたが、私は福島県民ですが西郷隆盛の悪口は一度も聞いたことがありません。福島県民が薩摩藩と長州藩を嫌いだと思われている由来はいったいなぜでしょうか。

みんなの回答

  • take000
  • ベストアンサー率55% (25/45)
回答No.12

幕末の因縁ですね。 長州藩が一時期京都で勢力を張っていた。 会津藩は薩摩藩と組んで長州藩を京都から追い出した。 長州藩は巻き返しを図り京都に兵を進めるも敗戦。 さらに長州征伐などで藩存亡の危機に陥る。 しかし幕府の限界を感じた薩摩藩が長州藩と同盟を結ぶ。 薩長の朝廷工作や鳥羽・伏見の戦い勝利で形勢逆転。 矢面に立っていた会津藩は、徳川慶喜の恭順もあって倒幕派の恨みを一身に背負う。 そして会津戦争へ。 会津は幕府に忠義を尽くした。薩長は新しい時代を切り開いた。 どちらかが一方的に正義を決め付けられるものではない。 しかし会津から見て長州は仇敵、薩摩は裏切り者。 恨み辛みはどうしても出てしまう。 「戊辰戦争で薩長軍が残忍だった」 先に会津城下に攻めて来たのは薩摩と土佐です。 長州は越後を回り遅れて到着。その頃戦いは鶴ヶ城篭城戦に入っていた。 「薩摩には西南戦争で一矢報いたが長州を叩く機会は永遠に失われた」 西南戦争の折、会津藩の元家老だった佐川官兵衛らが警察隊として参戦しました。 「新政府軍が会津軍の遺体の埋葬を禁じた」 一方的な埋葬禁止令はなかったようです。 会津藩兵の遺体だけでなく、新政府軍の遺体の埋葬も禁止していた。 理由は埋葬にかこつけて刀などを盗む輩が出るのを防ぐためとか。 会津藩は敗戦後に下北(斗南藩)に移されました。 ここでの飢餓も酷かったらしいです。 下北行きは薩長に強引に決められたのではなく、猪苗代か下北のどちらかを選択できるものでした。 会津は下北を選んだのです。 しかし猪苗代移転にしろ下北移転にしろ23万石が3万石に減らされてしまったのですから、どちらにしろ破綻するしかなかったかと。 猪苗代を選ばなかった理由は、No.11の方が書いている通り地元民との関係が上手く行っていなかったからのようです。 江戸時代に会津に移ってきた松平家(最初は保科姓)は、地元民からよそ者扱いだった。 度重なる凶作による増税。 さらに京都守護職による多額の出費でまた増税。 そして戦争による被害。 この結果、会津敗戦後に「ヤーヤー一揆」と言う大きな一揆が起こります。 これでは猪苗代は選びたくとも選べないですね。 明治になってから、会津出身者の出世を長州が阻害したと言う話を聞いたことがあります。 長州閥全体と言うよりも、どうも山県有朋あたりが実際に行っていた模様。 会津出身の柴五郎陸軍大将は西南戦争での西郷の死・翌年の大久保暗殺に対し、「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結でなりと断じて喜べり」と書いたという。

roatwang
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。なんかものすごい複雑というかいろいろなエピソードがあったんですね。 「新政府軍が会津軍の遺体の埋葬を禁じた」 これはひどいと思っており嫌悪感が少しありましたが、理由を聴いて ふっしょくしました。

回答No.11

他の方が回答されているとおり、質問者さんがお住まいの地域にもよるのでしょう。 ちなみに私は学生のとき歴史学を専攻しており、そのときの指導教官は会津地方の出身でしたが、ことあるごとに言っていたのは、福島県民(特に会津地方)の人全てが、薩摩・長州嫌いというのは誤っている、むしろ会津藩の圧制が一番ひどかったし嫌っていた、でした。 というのも、彼のご先祖は農家だった(どのくらいの規模かは知りませんが)らしいのですが、当時の会津藩に対して一揆を起したかららしいのです。 ウィキぺディアにもあるように、福島県の郷土史研究は当時の士族階級の視点から行われているため、それ以外の階級がどうであったというのが省みられていないようです。そのため、ご先祖の身分や地域によって多少差があるのではないでしょうか?

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E4%B8%96%E7%9B%B4%E3%81%97%E4%B8%80%E6%8F%86
roatwang
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。そういえば階級というものがありましたね。同じ会津藩といっても不満をもつ民がいれば、薩摩・長州はウエルカムだったかもしれませんね。敵の敵は味方だ・・と。 たいへん参考になりました。ありがとうございます。

回答No.10

皆さんが書いてある通りですが、分かりやすく説明します。 明治時代の夜明け、幕末・・・ 徳川政権をこのまま維持していこう! (徳川・会津(福島)) 徳川幕府をブッ潰せ! (長州) 簡単に説明すると、幕末期は上のような派閥で日本中が 沸いていました。(本当はもっと複雑ですが) 基本、徳川あっての日本。 徳川に逆らっているのは、田舎者のテロリスト集団である 長州でした。 それに対して、徳川家光以来、深い絆で結ばれている、会津 松平、また田舎者でもあるに関わらず、政略結婚等で幕府に 近づいた、薩摩島津。 テロリスト長州に対して、会津と薩摩は幕府の警護係として 交戦していました。長州の滅亡まであと一歩と追い詰めたの ですが、複雑な事情から、薩摩は長州側に寝返りました。 結果はご存知の通り、薩長連合軍の力で幕府を倒し、会津 もブッ潰しました。クーデター成功です。 会津(福島)の人に関わらず、江戸(東京下町)にいる人も 薩摩・長州キライが多いです。 ちなみに、田舎者の薩摩・長州が江戸に攻めてきたとき、 江戸の町を守った「彰義隊」(西郷さんの銅像がある上野で 壊滅)は、今でも爺さん世代からは賞賛されています。 近現代史の、半藤一利さんという方も結構声高に、薩摩・ 長州を批判していますよ。 昔の人にとっては、田舎者の寄せ集めテロリスト集団、という 認識があるようで、さらに薩摩(西郷)に大しては、土壇場で 裏切ったという、更なる憎しみもあるのでしょう。 僕らの世代にとっとは、そんなイメージ全くなく、逆に司馬遼太郎 さん等が、悪いイメージを払拭した作品をてがけることで、逆に 薩摩・長州カッコイイというイメージになっていますね。 やはり、歴史観は世代によって様々ですね。

roatwang
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。江戸(東京下町)にいる人も 薩摩・長州キライが多いですとのこと、以外でした。「彰義隊」は 知りませんでしたので調べてみます。 歴史感は世代によって様々とのこと 心得ます。ありがとうございます。

回答No.9

>福島県民は上野の西郷さんの銅像に石を投げつけている 「由来」については、他の方のおっしゃっていることが参考になるかと思うの ですが、本当にそんなことがあるのでしょうか。西日本で「どーわ」うんぬんと いう回答がありましたが、それと同じように、事実に基づかない思い込みから、 差別というものが始まるのではないかと考えます。私たち福岡人の先祖たちも 薩長(そして新撰組の雇用主である会津藩)にひどい目に遭っているはずなの ですが、私自身は、鹿児島・山口・福島の人たちに対して恨みなどありません。 質問者さんが、これをきっかけに人権の問題に関心をもち、学習などする気に なってくださったなら幸いに存じます。「東北人差別」だって、人権問題です。 (役所で人権問題解決のための仕事もしているので、「どーわ」という書き方は どうかなと感じ、回答をしてみました。趣旨が違ってしまって、すみません。)

roatwang
質問者

お礼

ご回答ならびご忠告ありがとうございます。「どーわ」でなく被差別部落問題と申した法がよろしいのでしょうか。地元福島市では、全くこのような差別は聞いたことはなかったです(私だけかもしれませんが・・)この差別はゆるしがたいことだと思っております。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.8

私は生まれも育ちも東京ですが、福島出身の人とは何人か一緒に仕事をしたりプライベートで親しくなってりしていますが、会津の人と郡山辺りの人と海に近いほう(相馬辺りとか)ではかなり気質が違いますね。郡山辺りの人は結構都会的で垢抜けているけど、東の海に近いほうの人たちは茨城人とやや近く泳ぎは得意ですけど福島県民なのにスキーは全く出来なかったり。 会津の人は郷土愛が福島の他の地方の人に比べると飛び抜けて強いように感じます。ビバ野口英世、ビバ白虎隊、長州の人間には会津の土は踏ませたくない、という感じです。 ところで、AV女優さんやソープ嬢には福島出身の方が多いと聞いたことがありますが本当なんでしょうかね。会津若松は街の規模の割に出張風俗店が多いみたいですけど。

roatwang
質問者

お礼

ご回答ありがとうごじます。福島県は広いので県民性はいろいろといった感じです。たしかに会津はわたくしの住んでる福島市からすると遠い 世界のような気がします。 福島出身のAV女優やソープ嬢が多いとのこと、はじめて聞きましたが、それも興味深いです。首都圏あたりでの看護師は多いといわれたことがあります。

回答No.7

福島県民で会津ではなく、県北のものです^^。 私も西郷さんの銅像に石なんてぶつけませんが、質問者さんは悪口ほんとうに聞いたことありません?私は、結構、耳にしますが。 私の好きだった、高校のときの教頭先生は典型的な会津っぽで^^、よく西郷の悪口を授業中に言ってましたね。「たかもり」とは言わず「りゅうせい」とわざと音読みして悪口雑言の限りを、、、、彼いわく。「長州は嫌いだがまだいい。最初から敵だった。薩摩は最低だ、途中から豹変し、会津の足をすくった云々」 ほかにも、いろいろありますが、長くなるので^^ 私個人としては、どちらかと言えば、やっぱり薩摩よりは長州がダメですね。標準語という山口弁を話すこと事態おぞましいので、なまったままです^^

roatwang
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。私も県北ですが、わたくしは悪口聞いたことがありませんでした。あるんですね・・。私なんか堂々と薩摩と長州好きだなんて言っており、地元というか会津の方々にけんかうってるようなものかも・・。

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.6

西南戦争の兵士に旧会津の民衆が居たそうです。 彼らの出身は、誰かが必死に言っている旧士農工商EHと様々な人が居たと記録にあります。 これが西日本でどーわが残る原因だとも言われてますね。 薩摩に対してはこれでガス抜きは出来ていたと思いますよ。

roatwang
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。どーわにつながるとは思いもよりませんでした。地元では被差別部落問題は聞いたことがありませんでして、 西日本ではあると聞いたことがあります。これは関係しているんでしょうかね。

  • kh1007
  • ベストアンサー率29% (36/122)
回答No.5

No.1の方が言っておられるように会津の人は、戊辰戦争が理由で 長州(今の山口県)の人を嫌っている節があります。 (今は、仲直りをしたと言う話もありますが・・・) 江戸時代末期(幕末)は、京都の治安維持として会津藩主松平容保公が 京都守護職になっていましたが、その配下に新撰組がいました。 新撰組は、倒幕を計っている薩長を中心とした人たちの殺害など 行っていましたが、それを薩長が根に持っていたのかもしれません。 鳥羽伏見の戦いの後、薩長を中心とした新政府軍は、東に進軍して 江戸城無血開城など行うのですが、降伏しない場合は 殲滅させていきます。(上野の彰義隊など) 旧幕府軍で降伏しない人は、北へ逃げて行きますが、 会津藩祖 保科正之の言葉を忠実に守っていた会津藩は、 新政府軍と戦うことになったのです。 (会津藩祖 保科正之は2代将軍徳川の息子。徳川家光に恩義があった。) ここで有名な白虎隊の自刃があります。 飯盛山で自刃した白虎隊は10代の若者でしたが、 新政府軍は、反政府軍として亡くなった人をお墓に入れることは 許さず、遺体は野ざらしにされました。 さらに新政府軍は降伏した松平容保をはじめ、会津の人を東北の地に 移住させるといったことをやってきたわけです。 このようないきさつがあるため、会津の人は長州の人を嫌っていると 言われています。

roatwang
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。福島といってもやはり「会津」なんですね。福島県では(会津以外でも)白虎隊は英雄?になってるかな・・・と思います。悲劇の・・。 私は長州も薩摩も大好きです。会津の人の長州の悪口は聞いたことがありませんが・・。

noname#155097
noname#155097
回答No.4

福島県民ではなく、会津の人です。 嫌いなのは薩摩藩ではなく、長州藩のほうです。 西郷さんは最後は政府に追われて悲惨な最期を遂げていますし、 多少恨みのガスは抜けているようです。 戊辰戦争で会津を攻めたのが主に長州藩であったとか、 朝敵の汚名を着せるのに主な役割を果たしたのが長州藩だった などと言われているのもその一因だと思います。 会津にいった時に、地元の歴史好きの方とお知り合いになったのですが、 「会津の人間が長州の人をとことん嫌っているとよく言われるが、 今では特にそんなことはないのですよ」と開口一番に言われた時は (その時はそんなことがあることすらしらなかったもので) ちょっとびっくりしました。(笑)  こちらにちょっと詳しくありますが、 http://birthofblues.livedoor.biz/archives/50779313.html 『(1)戊辰戦争で薩長軍が残忍だった (2)薩摩には西南戦争で一矢報いたが長州を叩く機会は永遠に失われた (3)新政府軍が会津軍の遺体の埋葬を禁じた (4)未だに会津軍の靖国合祀を許可されていない 1について、会津戦争の新政府軍に、長州藩は含まれなかったと聞きます 2について、これは感情論ですので除外 3について、こういう記述が埋葬禁止の論拠となっているそうです』 こういう考察もあるようです。 http://shinta30.exblog.jp/tags/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9/ 未だに会津と長州は現代的に和解すべきかなどという議論が まことしやかにささやかれているところは、 歴史の妙というか、興味深い現象ではあります。

roatwang
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。私は会津とは遠く離れたところ在住ということもあって、なんだかよくわかっておりませんでした。リンクもご提示ありがとうございます。ぜひ、機会があったら読んでみたいものです。ありがとうございます。

回答No.3

西郷さんに対しての悪感情は余り無いと思います。 原因は幕末から戊辰戦争、及びそれ以降の差別的取扱いによるものです。 長州藩は、幕末の時期に京都で八月十八日の政変や蛤御門の変等の、今ならテロとも呼ばれるような騒動を起こし、京都守護を勤めていた会津藩・松平容保を始めとする佐幕派に処罰されました。 その、いわば逆恨みで、会津藩は、長州藩の恨みを買ったのです。 そして、戊辰戦争時、新政府軍の主力を成した両藩藩士の行為、特に、共に京都で戦った薩摩藩の裏切り行為、及び戦争犯罪行為に対する悪感情、そして、西南戦争時、会津藩士族を主力とした警視庁抜刀隊の活躍が、その由来だと思います。

roatwang
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。長州藩の恨みかっていたのですか・・・。伊藤博文はどうなんでしょうかね・・ いろいろ由来があったんですね。ありがとうございます。

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