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信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか

 (α) 個人における良心・信教の自由と宗教としての結社の自由とは 両立しないのではないでしょうか?    (β) 信仰にもとづく生活態度としての倫理思想を――それがたとえ聖典のことばであろうと―― 宗教組織において教義規範とするのは 信仰の自殺行為ではないでしょうか?  (γ) 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪ではないでしょうか?  (δ=α) 宗教組織としての結社は 良心および信教の自由を必然的に侵す行為であるゆえ その自由は認められないのではないでしょうか?  (ε=β) 信仰の宗教化は その瞬間に 自殺行為が完成するのでは?  *(ζ) 聖典と呼ばれる文章等の研究組織のみが残るのではないでしょうか?   *(η) いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきでは?

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noname#135843
noname#135843
回答No.10

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ▲ (コリント前書4:1) こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。  ☆ というようにまで踏み込んで《使途の使命》を明らかにしています。信仰のことをひとにおしえ さとすかのようです。  しかもこの使命としての役割が 組織やその権限関係からほど遠いということを見たいと思います。 確かに、仕えるのは、組織ではなく、キリストとなっております。 > ▲ (コリント前書4:6-14)  (10節)わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。  (13節)ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。  (14節)こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。 ☆ ですから 社会の周縁と言いますか 今にもその外へ追いやられるかというべき境界上に身を置いて 自己表現し発言していると考えます。  文面では、神(キリスト)を信じるものと、わたしたちとの比較でございますが、 「諭す」 この目的は? となりますと、コリントびとへの愛 になると思われます。 また、 「パウロはあたかも人類のうちですべての人びとを教会に入れてそのあと最後に自分も教会に入ってくるひとであるかのように振る舞っているのではないかと考えます。」 意見を等しくいたします。 > イエスもキリストももうその名前を出さなくても済むようにして世の中のことは いとなまれていくのではないでしょうか。それでよいと考えます。どうでしょう?  愚生の職業上、情報源として論文なるものを読みます。その論文の構成でございますが、”Introduction”なる項目がございます。その中では、もちろん、紹介の部分にあたりますから、引用文献を数種類列挙しております。しかし、それが定説となり、誰もが知るところとなりますと、自然に“引用”はなくなってしまいます。これは、もうその必要性がなくなってしまったからだと察しております。  つきましては、“(当たり前になったため)必要性”が認められなくなれば、もう“名前”はあえて挙げる必要性はないかと思っております。ですが、現時点では未だお早いような…..  ですが、いつかその日が来ることを願っております。  なお、yy8yy8az様の件につきましては、yy8yy8az様への元気付けのためのものでございました。紛らわしい表現をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。  ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん 澄みません。課題がまだ残っていました。(17日朝 記します)。   ★★ (No.11) 「反人間的行為」につきましては、全く意見を等しく致します。“傲慢”なる行為 これも7つの大罪の1つだったかと記憶しております。  ☆ この条理違反は 構造的な問題だと考えますが いかがでしょう?  組織化という時点で 構造的にこの反人間的行為は起きうるという認識です。組織の権限や権力を握った者が 信仰という人間内面のことがらにまで手を出し口を出しその対象となった人間の一生を左右するまでに成りかねない。こういう《信仰の自殺行為》という要素です。  ですから これまでの歴史における間違いについては 自分たちで反省し表明してもらうこととして ただしそのローマ教会に対しては 自己解体をうながすひとことだけは こちらから明らかにする必要がある。こう考えます。  行き過ぎの点などありましたら おしえてください。  * 《罪のない〈魔女〉》の復活を見届ける必要があると考えます。そこまでワ゛チカンに迫ることは われわれのつとめだと捉えます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  明日は休みですね。最近は夜更かしをしなくなっていますが 少し今夜は遅くまでという感じでいます。  ご見解をありがたくうけたまわりました。わたしに都合のよいように解釈しますと あとは《犯罪》とするか《罪》として捉えておくかの違いになるようにも うれしく受け取りました。  ★★ (No.11) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただ、“犯罪”としました場合、単純に具体的な条文が浮かんでこなかったからでございます(“信教の自由”の阻害、“良心の自由”の弾圧ぐらいでした)。確かに、「共同体(社会)としての個人」として考えますと、「違法性の存在」を主張しても、決しておかしくはないとは考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりなんです。そうなんですが どうもわたしの感覚としては《犯罪》と言っておきたいですし また同時に 信仰の次元で眺めるかたちでの《罪》という言葉では規定したくない。こういう いじいじした気持ちがあります。どうしたもんでしょう?  ★★ (No.11) 「反人間的行為」につきましては、全く意見を等しく致します。“傲慢”なる行為 これも7つの大罪の1つだったかと記憶しております。  ☆ この考え方を基本としましょうか。  条理の違反という内容として 犯罪と言いたい気持ちはあるが ふつう言わない。こういう捉え方です。  ○ キリストのキの字も出さなくてもいいようになると見とおされるという問題  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つきましては、“(当たり前になったため)必要性”が認められなくなれば、もう“名前”はあえて挙げる必要性はないかと思っております。ですが、現時点では未だお早いような…..  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ごもっともだと思います。わたしは気が短くはなく長いと思っていたのですが 短くなったかも知れません。気が早いというのは どうしようもなく当たっています。《終わりから始める》をひとつの基本的な考えとして持っております。  ★ 【Q:時空】  ☆ の行方を見守っております。  この質問も一段落したように感じます。ありがとうございます。  余韻として もうしばらく開いていることにします。

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その他の回答 (32)

回答No.2

こんばんは、bragelonneさん。 【内弟子問答集 3】 http://www.daitouryu.net/1191487252237/ いろんな言葉があるもんだ。 さよならは別れの言葉じゃなくて 再び会うまでの遠い約束 コレ如何に!?

bragelonne
質問者

お礼

 訂正します。  誤:ちょうど今のわたしの文章に見られるように 傲慢と高ぶり あついは独りさとり こういう系統の気が  正:・・・傲慢と高ぶり あるいは独りさとり ・・・  です。

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆ (【Q:究極の悪とは――存在について――】No.48お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4708484.html (本年2月)  littlekissさん 巻きこんじゃったね。  ☆ それは いい考えである。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それに、よう喋る人もおれば口べたやら天邪鬼やらはにかみややらいろんな人がおるやん。文面に上がる文字からはわからん人の思いっていうのもあるやん。言い当てられて恥ずかしいなって、引っ込みつかへんいう場合もあるやん。照れ隠しに怒って誤魔化すいうんだって。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 確かに 原則 これである。  問題は 原則の実現のほうだね。  ただ こういう考えを もともとわたしは 持っています。  一般に人と話していて うそを言っていると分かっている場合 わたしなら一たんは その表面のことば つまりウソのほうで 応じるのがふつうです。  それは もう一方での 自己申告の原則に基づきます。ウソをついたと自己申告するという原則です。  こちらの都合をどうしても悪くする場合 というよりは そのウソによって 以前に言ったことと すでに矛盾しているとはっきりして来た場合 そのときには その場で ウソを質します。  いま ここでは 具体的にどうすべきかが 問題のようです。特に 面と向かって話しているのでないときには ですね。  とは言っても 長期的な視点で見て 究極的にはやはり  ★ 形のないものを形あるものに形作っていくお手伝いしてくれはるんとちがうかな? どないやろ?  ☆ これで当たっていると考えます。その意味でも たしかに 原則です。そして さもなければ(つまり 一定の長期的に見ても そうでなかったという場合には) それは お手伝いしてくれはる人びとは滅びるでしょう。しかも 滅びるという場合も 滅びて 再生してくるでしょうから 原則として当たっていると言えます。  岡本綺堂でしたか その雷の話に あたまのてっぺんからつま先まで 悪に染まった人びとが出てきましたね。応用問題ですな。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このときから 半年以上が経ちました。  悪の気(け)は 薄らいで来ています。どうも言っていることは――その中身がどうであれ―― うそでもないようです。  ちょうど今のわたしの文章に見られるように 傲慢と高ぶり あついは独りさとり こういう系統の気が 砂塵を巻いて起こるかのようです。でも ひとり・ふたりですけれどね。  あぁ 人前に出ると上がってしまって顔を赤らめっぱなしだった昔もあったなぁ。  littlekiss さん 味方だったら わたしを撃ってくれないと。

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noname#131234
noname#131234
回答No.1

排泄物をシテ、「コレは臭い」と論じることは不毛です。 「この人は、ヒトラーよりも人格者である。」ということは誰にでも当てはまること。自分がえらそうにしたいとき、この種の議論しか もう残っていないというのもわかりますが、組織の定義が甘すぎです。 貴方の議論では 袋小路デブ麻呂ならびに さる・きじ and Co.が犯罪者となってしまいます。自己にも規範を当てはめる訓練をしてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 組織の定義が甘すぎです。  ☆ この部分だけは人間のことばであるようです。  ただしその理由説明が欠けています。  なおひとの名誉をきずつける発言は 控えるようにしなさい。

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     たたき台を述べて 表題についてなお問います。     *  教祖と教義と教団とにもとづく組織は 教祖ないし教義を――そして時にはあろうことか 教団〔の存続〕を――《神》そのものとしてその会員に信奉するようにさせることがある。これは いかにその個人の自由意志によると言っても その結果も行為じたいも 無効である。  自由意志そのものを放棄する自由意志の発揮は 無効である。  すなわち 《信じる心 つまり心に神を受け容れている》に《考えるオシエ つまりオシエを考え実行する》を先行させることは 《信仰》ではなくなる。信仰としての意志自由ではなくなる。つまり宗教組織は 《信仰》という看板を取りはづしてから 宗教と名乗らなければならない。  そうしてこのおそれは そのような可能性がつねにあるという意味では 宗教組織そのものの持つ欠陥である。  よって 組織宗教は すべからくすみやかに解散せざるべからず。  信仰を取り除いて 宗教をかかげることは ありえず 出来ないことだと考えられるからには。    *  ▲ (K.マルクス:宗教批判) ~~~~  ( a ) 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。  ( b ) 宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  ( c ) それは人民の阿片(アヘン)である。  ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。  ( e ) 彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。  ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。        (『ヘーゲル法哲学批判序論』)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでは総じて言って 個人にとっての信仰――わが心に《非思考の庭》が成るということおよびその生きる動態――が忘れ去られている。  個人が信仰をいだく前にも後にも 《現実的悲惨》は われわれの前にある。  それは われわれのものでさえある。  けれども 信仰であるなら――これはマルクス自身も言うように―― たとえ《阿片》であっても痛み止めはそれとして必要であり 持たれてもおかしくない。  そしてそこまでである。信仰をめぐる《超現実(想像の世界また想像物としての神》)》の必然性と必要性とは。  〔そのあとさらに積極的な信仰の保持は 一人ひとりの信教・良心の自由の問題である。そういう人が互いに語り合うのなら 組織宗教にはならない〕。    だから( b )で 《追い詰められた者のためいき》は 信仰に行き着いたとしても 組織宗教には到らない。ほんとうには 到り得ない。    ○ ( b )の修正: 超現実への想像は追いつめられた者の溜息であり、そこにともかく《信仰》を得たならその信仰とはたしかに 非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。  そしてこのあと     ○ 《超現実への想像》が 《単なる想像の産物としての神( Y )》をいだくか それとも《非経験の場 としてのナゾなる神( X )》を無根拠として心に受け容れるかに分かれると思われる。  想像物としての神( Y )は けっきょく《考える》の対象である。そして一般に《オシエ》となっている。オシエが神としていだかれることになる。  それでも そのオシエをいだく信念も 《個人にとっての・わがたましいの》問題であるかも知れない。  ただし 信仰は 《思考に非ず》にて 《オシエや人間としての教祖そしてさらには教団》をむろん超えている。その意味でのたましいの問題である。思考や観念の神と分けて 霊なる神である。霊とは 非合理である。思考に非ずというからには。    《非思考の庭》にあってワタシは 人は人をころさないものだなぁという直感(ないし直観)を得る。そこから誰かが 《汝 ころすなかれ》というオシエをこしらえる。けれどもこのオシエは 信仰内容の固定観念化である。偶像である。  教義をこしらえたからと言って その教祖にしたところで えらいわけではない。オシエは 非思考に先行していない。  問題は 一人ひとりの内面における信仰としての心の伸びもしくは心の明けである。この明けがあれば どの神・どんな形態の信仰に対しても わが心は開かれている。閉じられていない。《信じる》は 人の心的現象として 何ものにも先行するところのものゆえである。  無思慮とも言うべき非思考の庭が・そして次に感性(直感)が 理性に先行している。  オシエは 混沌とした信仰内容に先行しない。まして組織ないし集団が 個人に先行するものではない。(それはただ 無効の行為として 権限関係などによってたまゆらの有力となるのみである)。  組織宗教は 自己解体を前提として みづからをへりくだらなければならない。  オシエよさようならと言わなければならない。  したがって     ▲ ( f ) かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。    と言えたとしても 問題は実践としては すでに《教義ないし教祖を後光に持つ》という組織宗教じたいについての批判が先である。  あとは ふつう一般の人間論ないし存在論が来ると思われる。  (非思考なる信仰が 思考に先行するという命題を 人間の内面についてあるいは社会的側面に沿って問い求めておかねばならない)。  (社会政策といった側面は 社会哲学のさらに応用部門であるように思われる)。    個人の信仰の宗教化(教義化)およびそれにもとづく組織化 つまり組織宗教というものは すでにその存在じたいにおいて 信仰の自殺行為である。  信仰にかんする自由意志の放棄・従って人間の存在そのものの放棄 これらをおこなったところで成り立つ代物だからである。  つまり 非思考が思考に先行するという命題が 有効であるなら そういう結論になる。  仮りに信仰をも批判する人がいて      ▲ ( d ) 人民の幻想的幸福としての宗教  というくだりを 次のように言いかえたとしよう。      ○ ( d )の修正: 個人の幻想的幸福としての信仰  だからいけないという論法で信仰をも批判したとしてみる。どうなるか?  まづは 幻想ないし超現実を想像しない人間がいるか? このように反論する。  つまり想像物としての神( Y )も それとして 有益な場合がある。特には 小説などの虚構によって人間の真実を表現しようとする芸術の場合である。  つぎにもし《非思考の庭に無根拠にていだいた神( X )》にもとづく《信仰は 幻想的幸福》でしかないとした場合。  この場合 問題は 人びとどうしのかかわり(関係)とまじわり(交通)にある。共生の問題でもある。  すなわち 互いに言葉をとおして意思疎通を図っているのなら 問題はない。コミュニケーションが取れていれば 何も問題はない。蛸壺に閉じこもるのでなければ その信仰なる主観がたとえ幻想であったとしても 話し合いをつうじて思考および感性としての生活が 社会の現実に合ったものであれば 問題ない。  信仰は 教義化をせずその中身は わづかにヒラメキとして持たれることがらまでである。  そのヒラメキから得た内容を言葉にし思考の問題としてもし自己表現するとすれば これを他人に押しつけない。語り合うまでである。  言いかえると 信仰の無において生きている人びとも その思考内容つまり主観を他人につたえるということまではおこなうというのと まったく同じことである。  そこで互いに心から同意する思考内容があれば みづからの意志で摂取するだけである。信仰ゆえに対話する。開かれている。その《幻想的幸福》は 練られて行くはずである。  よって 組織宗教は要らない。要らないだけではなく そのオシエが信仰にとって信仰なる蝉の抜け殻のようなものであり 人びとの主観の自己表現つまり意志伝達にとって オシエ〔の固持〕が 自分のあるいは他者の自由意志を侵害する傾向に満ちている。ゆえに ここに弾劾する。

  • 信じるということについての質問がありました

    http://okwave.jp/qa/q6729443.html です。  哲学カテであるのに関らず、質問者は復た私をブロックされました。対象が不明なことを信ずるのは誰もできせん。  何か人がいっていることや書いてあることなどは、自分が正しいと思わなければ、正しいとは思えません。信じるのでなく確認して確信するだけです。  そうやってわたしも宗教といわれるものをここ40年以上勉強し精進してきました。10年ほど前、46年いた大学を66でやめてからはお陰で2時に起き、不束(ふつつか)ながら朝晩勤行しています。  仏教ではありませんが、対象として外にあるのではなく、全体(部分と全体ということの意味の全体ではなく)のなかにまったくぽっこり入っていられるという事でして。  そういう自分の原初的であることを努力しての精進です。だから他人のいうことでも、書いていることでもありません。  そして道具としての思考や観念、知的操作を脱け出て、一切の前提、自己や世界の存在もない無前提での行なんです。  哲学って無前提、普遍、永遠見つめます。私たちはそれをしています。そして私たちの組織は自分自身の問題・課題ですといい、方法だけは教えます。  一切の強制と影響はしません。自分の家で、せいぜい数人のグループでの行。それもそれ以外の付き合いや雑談はいけない。  ○私の質問:私をブロックしている質問はこういう宗教組織もあるべきではないといっているのでしょうか?   そして私たちを無知の盲目的信仰といっているのでしょうか?  《以下は私をブロックしている質問文から書き出しました。》  なお、私をブロックしているこの質問の認識の範囲での宗教や組織に対しての質問者さんの批判は私もそういう面もあると存じます。  でもどの宗教いろんなレベルや側面がありますから、質問者さんの断定される前提観念では非常に狭隘かと存じました。   宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 【それは 思考に非ず つまり非思考という行為である】【思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること】【その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。】【そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと】【非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる】【一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である】【無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている】【言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである】【この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である】【キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない】【キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない】【せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる】【ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである】【結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である】【仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ】【すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である】

  • 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

  • 信教の自由の説明・・・

    こんばんは。 信教の自由と政教分離との関係についてという課題があるのですが、なかなかうまくまとめられません。 →信教の自由とは、宗教的信仰の自由・宗教的行為の自由・宗教的結社の自由である。そして政教分離は、政治と宗教を分離し、互いに干渉することを禁止することであり、信教の自由を保障し、国・地方公共団体が特定の宗教団体に特権を与えたり、宗教的活動を行なったりすることなどを禁止している。このため、靖国神社への閣僚参拝は単に「戦犯を祀るから」という理由だけではなく、「国の機関である閣僚が宗教的活動を行うことになる」という点で注目されている。憲法によって信教の自由が保障されており、国(公共団体を含む)はこれを尊重する必要がある。しかし国が特定の宗教団体に対して援助をすることは結局国民全体の信教の自由を侵すこととなるので、問題となっている。  これで大丈夫でしょうか??信教の自由と政教分離との関係についてまとまっているといえるでしょうか??

  • こんな教義の宗教(宗派)はありますか?

    なにか悪いことしてしまったかな、と思ったとき、すぐにその場で神に謝れば許される。 神がすべてを創ったので、困ったことも神(>人間の自由意志)が創ったこと。 人間が教義を決めていない。ただ解釈は現代に沿うよう学者等が若干修正している。 という教義の宗教、あるいは宗派はありますか。

  • 「人→天使」という教義はありますか?

     ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が中心になるとは思いますが、天国や天使(み使い)といった概念を持った宗教の教義に関して質問です。 1、人間は死んで天国に生まれたら天使になるのでしょうか??それとも、天国の住民であっても天使とは違う者と扱われるのでしょうか?? 2、また、天国に行った人間はどのような形で、人間界と関わりを持つとされているのでしょうか??それとも、天国に行った人間はこの世と関わりはもてないのでしょうか??    天国や天使といった概念は、ギリシアや北欧の神話などが混ざり合って作られていると聞き及んでおります。ですから、一概にこうとは言えないものであると思いますが、どうぞよろしくお願いします。また、出来れば聖典や論書ような教義的な根拠を提出しながら、お話していただけると嬉しいです。無知な質問であるかもしれませんが、なにとぞご容赦ください。