• ベストアンサー

心とは、すべてなんだ

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.23

No.8 & 15です。 >>>No.19のお礼欄より 「14歳からの哲学」での問題の投げかけでは、その結論にはすぐに達しないんだよ。でも 考え続けたら、そこにたどり着けるから、頑張って考えなよ! って、解釈できるんですよね。 だから、僕は、その結論に至る以前の、「心とは、すべてなんだ。心が全てとしてあるんだ」 の理解をちゃんと得て、その次の段階として、思考を進めて、宇宙の果て・・自分に果て・・ の理解に至ろうとして、今回の質問を投げかけたんです。 <<< はじめに「答えありき」を想定し、そこに向かって、自分の考えを当てはめていく。。。 「ひとつの」考え方を踏襲し、トレースする手段として、一度は必ず行うべき手順ではあります。 しかしながら、そこが終点ではありません。さらに「その先」、複数の可能性、未知の領域がひろがっていると考えるべきです。(と、池田氏は書いておられます) もし、そこに何らかの「違和感」を感じるのであれば、(おそらく、今回の質問を出されたのも、「違和感」を払拭できないからこそ出されたのだろうと想定されるのですが)、mintarou1さんの想定可能な「こころ」と著者が想定可能な「こころ」とが「ずれている」と考えるべきでしょう。 「すべて」をちゃんと理解しているといえるには、「独我論」や「一元論」や「二元論」などといった概念を含めて、先に引用させていただいた「心の哲学」関連の各種考え方について、深く洞察する必要があると思います。 私は、もう一冊、池田氏の死後にまとめられた三部作の一つ「死とは何か -さて死んだのは誰なのか-」(毎日新聞社)を持っていますが、著者の見解(ひとつの「こころ」に関する考え方)は、「新・唯心論」として明確に記述されています。 >>>「死とは何か -さて死んだのは誰なのか-」p.43-45より モノゴコロついたそのときから私は、ココロ以外のものがこの世にあると思ったことがなかった。(中略)だから大人になってから、人々のココロの秤には、ココロとモノとが同じ資格でのっていると知ったときには驚いた。 <<< 池田氏は、自分以外の考え方をも受け入れるだけの「ココロ」をもっておられるからこそ、「他の考えを理解」しえたというべきでしょう。 上記箇所以外に、明確に著者の立場が記述されている箇所を引用しておきます。 >>>「死とは何か -さて死んだのは誰なのか-」p.126-137 私はしかし、物理科学が得意ではない。(中略)宇宙について考えているのは、我々の頭である。我々の頭にある理論によって、外界の物質の法則を証明するなら、証明されているのは、我々の頭の論理の側であって、外界の事柄、未知そのものではないのではなかろうか。 どうしても、そう考えてしまうのである。こういう私にとって、宇宙とは、すなわち、それについて考えている自己なのである。宇宙は、自己もしくは内界なのである。この奇妙な事実に気がつくと、これはこれでまた玄妙な宇宙探査の旅がはじまるのである。 <<< 「新・唯心論」をはじめ、この部分は、一歩踏み外せば、映画「マトリックス」や、星新一氏の「水槽脳」が類推され、いわゆる「独我論」と重なる思考法になっています。もし、仮に、唯心論的に「自身のこころ」が宇宙全体だと「本当にそれのみを信じる」のなら、そこ(宇宙内部)におけるあらゆる出来事の責任は、そう思っている「自身のこころ」にあると言われても仕方がないことになりかねないということを、十分に顧慮すべきです。責任を回避しつつ、そのように主張しようとするならば、内部矛盾を抱え込むことになりかねないでしょう。 ただし、著者は、「私は、そう考えるんだけれど、そういった考え方もあるよね?」程度の表現しかしていませんので、留意すべき所です。 >>>「死とは何か -さて死んだのは誰なのか-」p.126-137 しかし、心なんてもの、いったいどこにあるのだろう。(中略)自分の中に心があるのではなくて、心の中に自分がいるのである。この逆説は、考えるほどすごいことで、我々、どれほど深い思いこみによって、この人生を生きているものであるか。 いまだ何も知らない コラム10回目。最終回です。(中略)彼らも我々も、等しくこの未知なる大宇宙に、なぜだか存在し、そして、そのことの何であるかを知ろうとして考えている。(中略)科学の仮説を一知半解する我々素人は、つい、すべては解明されたかのように思いがちだけれども、慎みたいものである。我々は、いまだ何も知らない。知らないと知るからこそ、なお知ろうとパッションを燃やすのではないですか。 【初出】「朝日新聞」2004年8月28日~10月30日東京夕刊 <<< まず、とっかかりから。。。 >>>>> 自分の中に心があるのではなくて、心の中に自分がいるのである。 <<<<< このように感じることは、別段不思議ではありません。「意識・無意識」「知・情・意」といった「こころ」の概念区分をだれしも有するということからも、「意識・意」といった領域に「自分」という概念を想定するならば、「心の中に自分がいる」ようにすら思うことができます。 まさに「自分」とか「心」とかが、その人の「思うようにある」わけです。 で、注意すべきは、 >>>>>> 我々、どれほど深い思いこみによって、この人生を生きているものであるか。 <<<<<< 「思いこみ」するのは、「我々」すなわち、池田氏を含めて「皆」が対象になっています。 。。。思索の最初は、(「思いこみ」を含めて)「どれか一つのみが真」として進めていかざるをえないでしょうが、「他の可能性を排除せずに」考えを進めていくことが大切でしょう。。。 注意すべきは、上記引用の >>> コラム10回目。最終回です。(中略)彼らも我々も、等しくこの未知なる大宇宙に、なぜだか存在し、そして、そのことの何であるかを知ろうとして考えている。 <<< です。 著者が意図して書いているかどうかは不明ですが、「彼らも我々も、等しくこの未知なる大宇宙に、なぜだか存在し」です。 すなわち「大宇宙の中に存在している」ことを前提としておられます。 池田氏の考えておられる「こころ」も「自分」も「未知なる大宇宙の部分」であることを了解しておられる記述だと考えます。 (p.133からの「宇宙の果ての、その先は?」にも、同様の記述があります) さて、一つの解釈としての >>> 「○○としたら、どうする?」 <<< ですが、 この部分には、「そうでなかったら、どうする?」ということを暗に示唆されていると考えるべきでしょう。。。 池田氏の文章(とりわけ「14歳からの哲学」)は、自身の感覚を大切にしながらも、あらゆる考え方を尊重しようとする姿勢が見られます。 それが、どういった意味をなしているのかを深く考えるべきだと思います。

mintarou1
質問者

お礼

長い丁寧な回答ありがとうございます。 実は、自分は頭を抱えています。自分は、相手を考えて回答お礼の内容を変えています。 相手により、簡単に返答したり、断言的な表現にしたりしています。ですから、それぞれの回答へのお礼は、別の人への回答のお礼ではありません。 No19への回答お礼が、k_jinen へだと仮定すると  著者は、宇宙の果て・・・自分の果て・・・について、ひとつの解釈を得ているように感じています。  それは、別の著書・・・からも内容からもその思いを強くしています。  それが、著者の最終的な結論か、途中の過程かは分かりませんが・・・自分は、ひとつの道しるべように思っています。  自分も自分なりに考えて、著者の考えを追っかけるわけですから、著者と同じ解釈に自分が至るかどうかは分かりませんが、  その前段階として、「心とは、すべてなんだ。 心がすべてとしてあるんだ。」  の理解が必要になると考えて、今回の問題を投げかけたわけです。 という風な、感じになると思います。 その辺を、ご理解ください。

mintarou1
質問者

補足

話は少し変わりますが、自分が、池田晶子さんの著書をいくつか読んで不満に思うのは、科学に対する考え方に違和感を感じます。 「14歳からの哲学」でも感じるのですが、たとえば、k_jinenさんのあげている上の例では  「宇宙に考えているのは、我々の頭である。我々の頭のなかにある理論によって、外界の物質の法則を証明するなら証明されているのは、我々の頭の理論の側であって、外界の事柄、未知そのものではなかろうか」 この考えでは、科学そのものが否定されてしまいます。しかし、著者の言う頭の理論の証明によって、飛行機が飛び、車が走り人工衛星が地球の外を回っています。文明そのものは、科学の成果であり、その恩恵の上で、著者も生活しているのです。 その事実と矛盾するように思われて仕方ありません。 科学の方法は、新しい事実の発見、観察から始まり、仮設を立て、それを実験等により、解析・証明しているわけで、新しい事実の発見は、脳が勝手に作り出したものではないはずです。 それについては、どう思いますか? それから「14歳からの哲学」で、回答No12の回答への補足で著書の本の内容を引用しましたが、その中で、とても、気になる点があります。  著者は、 「自分の性格を冷静に観察、分析して考える自覚できるというのは、自分の中に自分でない部分、自分のことを他人のように見ることができる部分があるということなんだ。 目に見えないもの、思いや感じのことをひとまとめにして「心」と呼んでいるいるけれど、同じ目に見えないものの中でも、動いて変わる部分と、変わらない部分がある。前者が感情、後者が精神だ。感情は感じるもので、精神は考えるものだ。 と書いています。 しかし、自分の心の動きを観察すると、「考える」行為と「観察する」行為は、まったく別の部分が働いているように感じます。 たとえば、「考える」行為は、自分で自覚できます。ということは、「考えているもの」を、観察している「もの」があるといえると思います。 これを、精神という言葉で一くくりにするのは、心に対する理解の障害になると言う思いが強いのです。 また、自転車に乗るとき、最初は頭で、手足の動きを考えますが、慣れてくれば、考えなくても自転車に乗れます。 つまり、考える行為も、変わる部分と、変わらない部分があると思います。 そんなふうに、心の動きを細かく観察してみると、心とは、二つに分かれるのではなく、もっと数多くの部分(又は層)に分かれている感じがします。 (又は、各層でネットワークを取っている感じもします。)その辺もまた、著者の説明に物足りなさを感じています。 それについて、どう思いますか?

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