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神と霊
適切なカテがよくわからないので、とりあえずここに質問させてください。 私は、霊を見たことはありませんが、その存在は信じています。 そして、神の存在も信じています。 そこで、神と霊の両方の存在を信じている方に質問です。 私の中で、神とは絶対善です。 絶対善である神が、霊のいたずらを許すとはとても思えないのです。 世間では、よく霊のいたずらに関するエピソードがありますが、本当にそんなことがありうるのでしょうか。 神がそんなことを許しているのでしょうか。 それとも、神には我々には遠く及ばない考えがあるのでしょうか。 あるいは、霊の領域にすら神は関与しないのでしょうか。 神は人間というものに一切関与してこないのでしょうか。 私は完全に混乱しています。 神の存在自体を疑いそうになります。 みなさんは、どうお考えでしょうか。
- resultado
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すみませんが、私はキリスト教の知識から回答します。 キリスト教では、神と霊と主(キリスト)の3つを三位一体として信じています。 よく日本語で使う三位一体という言葉の元は聖書の言葉です。 質問者様は霊=悪いというイメージで考えているのでしょうか? 確かに霊といえば幽霊、亡くなった人間が恨んで化けて出てくるようなイメージですが、キリスト教でいう霊は聖霊という良いものです。 人の体は肉体と霊から成り立っています。 神からの聖霊の影響を受けて人の心の中に働きかけます。 もし悪魔がいるのなら、その悪魔も人の心を誘惑し人の心を悪い方に引きずり込もうとします。そういう意味では悪い霊も存在するかもしれないですね。 神は絶対善ですが、神から出た霊は善です。霊全体が全部善であるとは限らないかもしれませんが。
- itanochan
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地上を含む宇宙の法則として“善・悪”、“明・暗”、“高・低”、“左・右”、“生・死”、“光・影”等々全て表裏がある、言いかえれば陰陽があり、善神が存在すれば逆に悪神も存在していて成り立っているのではないでしょうか。 疫病神、死神、禍神など・・・。 上手く説明出来ませんが世の中、悪意があればこそ善意を意識し、混沌があればこそ秩序を望むもの。病気というものがあればこそ現在の健康を有難いと感じる。迷いがあればこそ悟りを求める。勿論全ての悪が必要とは申しませんが、先述のような意味で必要悪もあるのではないでしょうか。そのあたり極意は人間如きに計り知れぬ神の御意図があると私は信じます。 健康で尚且つ社会的地位、名誉、名声、経済的にも恵まれ家族や友人知人にも恵まれあたかも満月の如く欠けたる部分が全く無い生活で、神を求めるでしょうか?仏を求めるでしょうか? このように悪や負の存在があればこそ善と正を意識し己を省みる事が出来るのだと私は思います。よって善を司る神もあれば悪を司る神も存在するのだと思います。
お礼
ありがとうございます。 悪があるから、善を意識する。 仰る通りだと思います。 善神と悪神ですか。 なるほど。 つまり、世界は善神と悪神が支配しているということでしょうか。 アフラ・マズダとアーリマンのように。 では、悪神が霊に悪さをすることを許しているのでしょうか。 一方、善神は、霊に悪さをさせないが、霊に対する支配力が完ぺきではないため、悪神に悪霊の支配を許してしまっているところがある、ということでしょうか。 そう考えると、なるほど、と思いますね。
- onikou
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そもそも私の場合、神が絶対善とは思っていません。 というか、神にとっての善と私たちにとっての善は、明らかに違うものだと思います。 そのため、全てに関与できるのかもしれないが、あくまで私たちと考え方が違うのだと考えます。
お礼
ありがとうございます。 私も、神にとっての善と私たちにとっての善は必ずしも同じではないと思っています。 むしろ、私たちが善だと思っているものの多くは、神にとっては善ではないのではないか、と思っています。 我々の考えなど及びもつかない存在が神だと思っていますから、神について思考すること自体無意味なのかもしれません。
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お礼
ありがとうございます。 私は、霊=悪いとは考えていません。 生身の人間と同じで、様々な霊がいると思います。 その中には、人に悪さを働く悪霊もいるのではないかと思っています。 霊とは、必ずしも死んだ人間の霊魂ではないということですね。 たしかに、神からでた霊は善でしょうね。 むずかしいところです。