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卑弥呼

 卑弥呼はシャーマンだったろう、ということを聞いております。  ◎これはほぼそうかも知れないと思っても遠からずでしょうか?  ◎一般に祭政的シャーマンとは独自に国家とかの統治や政治を行うことと両立しえましょうか?  ◎卑弥呼の時代にはもう古墳時代になっていたかも知れないというお話しもありますようですが、膨大な労働と人を動員したであろう古墳築造は国家権力とか、統治権力の存在を想像しても間違いではないでしょうか?  ◎卑弥呼などシャーマンが国政を行うものでないとしたら、国政担当者として、卑弥呼などのシャーマン以外の存在を画けないでしょうか?  ━シャーマンを利用しているかもしれない人物など━

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  • gungnir7
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回答No.2

古代の国家は原始的集団→都市国家→古代国家の流れを汲みます。 古代の原始的な集団はほぼ例外なく呪術的集団であり、統治者は祠祭を行えるものになります。 近隣部族と抗争を繰り返していく中で、都市国家がある程度まで大きくなると、 世襲的な権力が強くなり、支配の機構が世襲に移っていきます。 また、治世も呪術の道徳から立法による統治に変わっていきます。 卑弥呼は100%シャーマン、現在でいえば恐山のイタコのような巫女で間違いないでしょう。 恐らくは霊媒体質の人物だと思われます。トランス状態になったときの姿は 周りの人間には妖しくも恍惚に映ったことでしょう。 実質的な権力者はいたと考える方が自然です。 ただ、卑弥呼などの巫女は住人から絶大な人気があり、これに抗うことはできません。 国とはいっても部落みたいなものなので、武力で支配できるほどには至ってないからです。 結局は巫女を頂上に拝しながら、その人気にあやかる形になります。 勿論、儀式のシャーマンが国政をつかさどっていたケースはたくさんあります。 シャーマンが男性の場合、むしろ積極的に指導力を発揮していたことでしょう。 この例はアメリカのインディアンやインカ文明などにみることができます。 古代中国の神農氏、あるいはユダヤ王サムソンなどもそうです。 そういう観点からすれば多大な労働力を必要とする古墳は、中央集権的な強大な力がないと無理です。

krya1998
質問者

お礼

 古代の国家やそのあり様についての状況はとても興味深く拝読しました。  今の私たちの政治とはずいぶん異なり、それがあり方万事に及んでいたのでしょうね。  想像できないのがまだるっこしいです。    男性のシャーマンもいた。そしてシャーマンと国政者とが同一人であったことも在りうる。  そういうご説明と存じます。  神農氏、サムソン、がそういう事例であるとのこと。  多分そういう人の場合は、現実にも統治の権力を掌握していたのかもしれませんね。  しかし実務での補佐と有能な配下臣下はいたのでしょう。  被支配者に接する立場をどう表現していたのか、その違いが面白いですね。  神農氏が祭政の方ということで、たいへん勉強に為り、もっと知りたいと存じました。  アメリカ・インディアンやインカですか。  風土もあるかもしれませんね、男性・覡の出現は。  恐ろしい状況も一面あったのでしょうね。  ありがとう御座いました。

その他の回答 (1)

  • rivoisu
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.1

> 卑弥呼はシャーマンだったろう、ということを聞いております。  ◎これはほぼそうかも知れないと思っても遠からずでしょうか? 卑弥呼の存在は「魏志倭人伝」に書いてあるのですからそしてそこにそう書いてあるのですから間違いも正しいもないでしょう。 >◎一般に祭政的シャーマンとは独自に国家とかの統治や政治を行うことと両立しえましょうか? 古代から政治と祭事はほぼ同義です。 政治のことをまつりごとというでしょ。 > ◎卑弥呼などシャーマンが国政を行うものでないとしたら、国政担当者として、卑弥呼などのシャーマン以外の存在を画けないでしょうか? 弟が卑弥呼の言葉を民に伝えていたという記述があると思いますが 国政担当者ともいうべき存在でしょうね

krya1998
質問者

お礼

 ありがとう御座います。  「魏志倭人伝」にそういう記述があることは存じておりました。  それはやはり、今の私たちのことばで“シャーマン”の類に属するということですね。    でも「魏志倭人伝」って本当に日本のどこかの状況であったのでしょうかね。私たちの文化や歴史とはどういう関係が、つながりがあるのでしょうね。  わき道ですが。  そうですか、古代の政治は祭祀や祭ことなんですか。  私たちが考えるような政治や権力、国家や自治体の状況とはずいぶん違うのでしょうね。  弟という関係ですね。  そういう人が多分実務のような、仲立ちみたいなことをしていたのでしょうね。  やはりマネジメントはシャーマン自体は携わらないのでしょうね。  孔子も出自が不審な点があり、白川静さんのお話ですと、どうも巫祝のじょせいの婚外子であったということも推量できるということで、お父さんは、たくましい武士ですが、最初の突撃隊で突っ込んでいく焼くの、まぁあまり指揮などはしない人がいたが、その人ではないか。  この方はもうご家庭のある方であった。  とかのことでした。巫覡集団の中で育ったようだ、という話でした。  開祖はみなそういう出自の不明な方が多いが、私も中国の葬儀に出席して、ご夫婦の巫覡さんにお会いしました。  やはり男性がマネジメントしておりました。大変興味深く観察させていただきました。  女性がシャーマンでした。主役で中心です。

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