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過去の哲学者の発言をすぐ持ち出すのは何故ですか?

ページ数を膨らませたい物書きや、哲学者、自称セレブな人がよく 「ゲーテは○○と言ったが、」 「ニーチェが○○と言ったように~」 と言い出しますが、 その人がそれを言ったから何なんでしょうか。 別にその発言が正しいだとか的を得てるという証明も何も為されていないのに、その発言を持ち出す意図が分かりません。 ハイソ感覚を共有したい者同士がそういう発言を半ば合言葉的に用いるというのなら分かりますが、 たまに、自身の何らかの主張の後ろ盾になると考えて発言している人もいるみたいで・・・ どなたか教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#118718
noname#118718
回答No.4

>「ニーチェが○○と言ったように~」 ニーチェを正確に理解している人にとっては、長々と説明されるより効率的に理解できるでしょうね。 ですから、本来は時間と労力の節約の為の表現方法だったと思います。 しかし、いつの間にか「ニーチェ」という言葉が「正しさの保証書」の役割をもち読者の怠惰を助長しだしたのだと思います。 怠惰を許す者に人気がでるのは一般的なことです。

dendenaaa
質問者

お礼

分かりやすいです。

その他の回答 (15)

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.16

訂正:  と、言うわけで、すぐに教養や有名な哲学者の言を持ち出す人の気持ちが 『身にしみて』解ったんじゃないでしょうか^^ ⇒と、言うわけで、論理的に反論できず、追い詰められたが故に 教養や有名な哲学者の言を持ち出す人の気持ちが 『身にしみて』解ったんじゃないでしょうか^^  結論として、やっぱり質問文にあるようなケースもあるという事の証明になったようで。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.15

数学者でない限り、自分で何を言ってるのかを判っている人はこの世の中には居りません。数学を言語として日々それに頼っている物理学者と言えども、自分で何を言っているのか判らないほど、この世界は複雑に出来ております。自然科学者も人文学者も、そんな複雑な世界を何とか自分の言葉で理解したいと日々努力しているのです。 そして、その連中は自分自身の認識の程度の不完全性を心から体得し、認識しております。ですから、その連中は、あらゆる手段で自分を納得させる方法を探しております。そんなとき、その人が誰から教わるでもなく、重要だと考える概念を自分自身で見つけ出したとします。自分の不完全性を十分理解している人には、そのことを人から教わったのではなく、自分で見つけ出したときに、常に自分の見出した認識が果たして本当に重要なことなのか、それとも取るにたらない詰まらないことなのか不安なを持っています。そんなときに、歴史的に評価されている人も同じ結論に達していたと知ることは、どんなに心強く、歓喜に値することでしょう。 ですから、自分自身で物を次々と創り出すことの出来る人達に取っては、自分が到達した概念が既に先人達に知られていたことを知ることは、喜びなのです。その反対に、自分自身の創り出したことが既に先人達に知られていたことを知ってがっかりする人は、自分自身の創造性の自信の無さに失望している人達なのです。 そのように創造力の豊かな人は、次々と先人達と同じ意見を自分自身で生み出し、運が良ければ、先人達の言わなかった何かを人類の歴史に付け加えることが出来るかもしれません。しかし多分殆どの場合、歴史に残った先人達と同じ創造のレベルを自分自身で達成した段階で一生を終わっているのだと思います。そのような人達は、たまたま生まれた時が遅過ぎて、自分の名前を歴史に残せなかったのです。 ですから、本当に創造性の豊かな人は、喜びを持って自分自信の意見を 「ゲーテは○○と言ったが、」 「ニーチェが○○と言ったように~」 と、堂々と言うことが出来るのだと思います。 貴方も、自分自信の創造した意見が既に人に知られていることを知ったときに、歓喜出来る人になって下さい。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.14

>ニーチェ云々以前に全く教養を感じさせられない文章を書くのはどうなのでしょうか^^  大体私の考えには同意の上で、「教養」を持ち出してきたということですね、ではニーチェやゲーテなどの大御所 ?の言や、聞きかじった専門用語を使って説明しろというわけですか、それこそ質問タイトルが表すような事になりますね。  「ゲスの勘繰り」「痴呆者」がやはりハイソじゃなかったんですかねぇ^^  教養を持ち出すことで、自分が質問に挙げている人間と同様になってますよ。  と、言うわけで、すぐに教養や有名な哲学者の言を持ち出す人の気持ちが 『身にしみて』解ったんじゃないでしょうか^^

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.13

No.10です。 実は私も大学は理系ですし、ビジネスもがっつりやってるんですが、 そもそも質問者さんは論文引用をどうやってましたか? 普通に『国連の○○○○第×次報告書によれば~』とか、 詳細の説明もなしに引用する人も沢山居ますし、学術論文の引用だって 説明なしに名前+年号というスタイルは認められていますよね。 むしろ専門用語を好む傾向は理系の方が強いと思います。 理系ってそれこそ概念立証からいちいち説明してたら、 時間や枚数が足りないですからね。 つまり理系であっても全く同じです。 ある程度の前提を求める姿勢と、相手にどの程度専門分野に 踏み込んだ話をして良いのか。引用というのはやはりそれを図る 紳士的でスマートな、伝統的技法であると私は思います。 初めて接する情報は、知らないのが"当たり前"です。 引用元を出しているのですから、その正当性については後から 当たればいいんですし、もし引用の書籍(しかも古典的命題の) を知らないのであれば、その場は頭を下げて聞いてみてもいいんじゃないでしょうか。 だって相手が悪意を持っていようがいまいが、そもそもこちらは知らないんですよね? 悪意を持った相手に対して反撃の機会を伺うにしても 悪意を持った相手から学ぶにしても、そもそも聞かないと始まらないです。 会話というのは話し手の問題であると同時に、受け手の問題なのですから。 相手が文系の学生だから悪い、とか私が知らないからその問題を論ずるな、 というのであれば、紳士的という言葉の対極にあるその姿勢を理系とはいえないと思います。 そもそも知らないほうが悪い、という論理の上でのストロングスタイルこそが 解釈論の介入の余地が薄い"理系"が是するところですしね。

  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.12

>過去の哲学者の発言を持ち出す う~ん、認識が違う。 ・過去の哲学者のうち、現在でも有効とされる発言を持ち出す。 要するに、過去の哲学者のなかでメンバーは限定されます。 現在でも有効とされるということを皆が認めているかたの発言オンリーです。 こういった発言は、長年の年月の間、真理があるからこそ生き抜いてきた 発言であるわけであり、 「私はこう思う」というのより信憑性があります。

dendenaaa
質問者

補足

「有効」の意味がよく分かりません。 その「有効」性のご利益に自分もあやかりたいという心理なのでしょうか。 その偉人の発言を良く理解できている人なら、信憑性云々を頼りにするのではなくて、その発言の根拠を単純に口頭説明すればいいと思いますが・・・

  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.11

単純に知識人ぶりたいからです。 写真や報道でも、取材した「知識人」の場合はふつう本棚を背景にします。 こんなに本読んでるぞ、というイメージを視聴者に与える為の演出で、 ラーメン屋のオヤジなら「頑固そう」に腕組んでる写真が用いられます。 政治家や官僚は漢字や横文字が大好きだし、芸術家はベレー帽を好みます。 自称しないとわかってもらえない職業の方々は、自発的に演出しますからね。

dendenaaa
質問者

補足

なるほどですね。 そういう発言をしていれば、哲学をかじっている人だという単純な表明にはなりますね。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.10

聖書(福音書)の中に『荒野の誘惑』という話があります。 そこでは悪魔とキリストの問答という形で、宗教への解釈が記されている わけですが、キリスト側の回答はすべて『~と書いてある(言っている)』 となっているんです。これに限らず、新約聖書はこういう想定問答集の ようなもので、要するに2000年前から人間社会は同じなんです。 さて、この話がどういう内容かというと、要するにユダヤ教の異端審問です。 ナザレのイエスはユダヤ教の中では改革派の人であったので、 常に審問を受ける立場にありました。 『神が使いに指示を与えるとき、あなたを支える』と書いてあるだろ。 ごの絶壁から飛び降りても助かるはずだ、という指摘を受けたときに どう応えるべきか。キリストの回答は『聖書には神を試みてはならない とも書いてある』となっています。 ここで重要なのは、前提(この場合聖書)が正しいか否かではありません。 そもそも聖書はこういう矛盾だらけの書物ですし、両者ともそこを論点に していないんです。問題となるのは前提となる書物を読んでいるか否か。 つまり、ある命題に対して”勉強しているか否か”なんです。 『○○にこう書いてある』、というのは 深い考えも無しに、単に批判しているわけじゃないよ。 私はこの本をきちんと読んで、分析した上で発言しているよという 意味を包含します。 この言葉に対する反論は『いや、○○はこうも書いている』であったり 『その前提は○○で否定されている』と繋がることで、 お?あんたも勉強しているんだね、という了解が出来てくる。 これは会話の初期段階としてお互いに勉強しているんだよね? という確認作業でもあります。 単に、その本を使った権威付けだろうという反論では 発展性がありません。会話はそこで終了し、何も生み出さない。 ひとつの共通の前提を置くことは人間の会話を発展させていく 重要なテクニックのひとつなんです。 発言者はもちろん、受ける側の対応をもってこの隠語は完成します。 要するに一言で言うならば"ハイソな隠語"としか成立しないんです。 (ハイソって数十年ぶりに聞いたような・・・ゲフン)

dendenaaa
質問者

お礼

文系用のもっと上品な確認作業って無いものですかね。 「ニーチェが○○と言ったように~」 ↓ 「あ、知らなかったんですね、失礼(苦笑する表情)」or「流石よくご存知で(にこにこ)」 こうなるんですか? とある文系の学生さんで、こういう事を本当にやる人が実際いました。 一緒に高教養気分を共有したい相手なら気分がよくなる会話なのでしょうが、 相手によっては露骨に試されたと感じて、ちょっとムッとしたり萎縮したりするかもしれません。 品がある方法のようで、実は全然品が無いですよね。配慮が無いですから。 試す気丸出しで知識の有無を問うているだけで、全く「テクニック」とは言えません。 私は理系ですが、たとえば初対面でいきなり専門用語で試すような幼稚なことをする理系研究者などいません。 ビジネスマンでもそうですが、時事の話題などで少しずつかすらせていって、相手の知識レベルを量りつつ(量ってるぞと分かりやすい事はしません)、言葉を適宜噛み砕いたりして、上手く共通の域で話せるように調整していきます。紳士的でスマートです。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.9

訂正  ある人が駄々をこねて「ああでもない こうでもない」と屁理屈を言い始め、単なる自己顕示、自己主張をし始めた時、その人間に対して権威や社会的常識を象徴するような何かを提示することで黙らせるのは効果的です。 ⇒ある人が駄々をこねて「ああでもない こうでもない」と屁理屈を言い始め、単なる自己顕示、自己主張をし始めた時、その人間に対して権威や社会的常識を象徴するような何かを提示することで黙らせることができます。 補足: >別にその発言が正しいだとか的を得てるという証明も何も為されていないのに、その発言を持ち出す意図が分かりません。  結論として、正しいとか的を得ているという証明のために「その発言を持ち出す」というケースは極まれでしょう。  無邪気に自己主張する人間を黙らせるのは有意義なことです。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.8

 ある人が駄々をこねて「ああでもない こうでもない」と屁理屈を言い始め、単なる自己顕示、自己主張をし始めた時、その人間に対して権威や社会的常識を象徴するような何かを提示することで黙らせるのは効果的です。自分の頭で考えることが出来ないのだから、そういった人間は、社会的権威や常識を提示するのが一番効果が在るでしょう。  いわば、そういった痴呆者とこれ以上会話を続けたくない場合の、最後通告として「有名な」人の言を用いているケースもあります。  しかし一般的には、「私は何処そこの出身です」と言うことが、挨拶代わりになると同時に、「そこの風土、風俗文化等の影響を受けていますから、そのへんを踏まえたうえで、私と接してください。それを知った上で反論するなり同意するなり、話の展開をするなりしてください、私は私の思考、脳味噌だけの影響を受けているわけでなく、あらゆる文化、風土、風俗、等の影響を受けてきていますので。」ということを表明していることにもなります。  ということで、 >ハイソ感覚を共有したい者同士がそういう発言を半ば合言葉的に用いる >自身の何らかの主張の後ろ盾になると考えて発言している人もいるみたいで  これらはごく一部の人間に対して当てはまるか、もしくはこういった主張そのものが下種(ゲス)の勘繰りであると言うことも考えられます。  もしゲスの勘繰りでなかったとしたら、自分が理解できないことで、自分自信の存在のくだらなさ、無価値さなどを 思い知らされる のを防ぐための、自分をも ごまかすための狡猾な言である と考えられます。 >その発言を持ち出す意図が分かりません。  お解りでしょうか?

dendenaaa
質問者

補足

ニーチェ云々以前に全く教養を感じさせられない文章を書くのはどうなのでしょうか^^

  • sotom
  • ベストアンサー率15% (698/4470)
回答No.7

哲学というのは、思考を繰り返してある程度その形態が固まったモノ、 いうなれば、数学の公式みたいなものと考えてもいいかと思います。 まあ、数学と違うのは、完全なる正解を求める分野ではないという事です。 いずれにしろ、その途中の経過を省くような形で持ち出すのであれば、 それは大いに有り得る事だと思います。何せ、受験問題で、いちいち 公式を導き出していると、面倒くさくてやってられないでしょう? まあ、その辺りを判断するのは、その人の「学」レベルによります。

dendenaaa
質問者

お礼

>哲学というのは、思考を繰り返してある程度その形態が固まったモノ、 いうなれば、数学の公式みたいなものと考えてもいいかと思います。 それはよく分かります^^ しかし物理などの公式をよく理解してなくて知ったように語るとあっという間にボロが出たりしますが、哲学だと言葉をゴチャゴチャさせてるとそれっぽく聞こえてしまうから厄介です。 無理解者の「ゲーテが~」がまかり通ってしまう。

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    哲学・思想に限らず、日々の物事に「一貫性」を求め、その一貫性を 「善いもの」として扱う。これは日常生活の中でよく見かけます。 また、他人から見れば一貫性に欠ける行為のように見えても、 本人には本人の信念に則り、一貫性を保持しているということもありうります。 一貫性から引き出される魅力をうまく使っている犯罪小説をよく目にします。 で、最近私は、そのような一貫性を魅力的に感じる態度というのは、 いつ・どのような意図をもって発生・変化してきたか考えます。 生まれたときから人が保持しているもの(自然)・人間が作り上げたもの(理性) ・宗教権威が行う隠蔽・・・等々。 宗教や共同体から供給される「善」を意識しての、一貫性であれば、 非常に分かりやすいのですが、人々に共通した善があるのか分からない 現代社会を生きる私には、一貫性という言葉・態度が個々人の行為を 弁護するものにすぎないように思えます。 そこで哲学・思想に限らず、ものごとの一貫性を考え抜いた 人物はいるのでしょうか。またそのような書籍はあるでしょうか。 ご存じでしたらお教え下さい。 ニーチェ以後の哲学者・思想家が主役になると考えていますが、 一貫性への考察が、古代から現代にかけてどうなっていくのかを学ぶのもおもしろいと思います。 (一貫性という態度がいつからあったのかも知りません)

  • 《永劫回帰》なる阿呆な考えについて

     徹底的に批判しきっておきたいと考えます。  ニーチェの亡霊をもほうむっておきたい。  すでに 批判がなされています。ところが 次のヰキぺの記事においても どこかまだ その《永劫回帰》なる考えにしても なんらかの思想性があるかに思われるというような評価さえが残っている。  質問者は 次のくだりをめぐって 批判を明らかな結論が得られるようにおこない切りたい。  ご見解をお寄せください。  ▲ (ヰキぺ:永劫回帰) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E5%9B%9E%E5%B8%B0  § 3 永劫回帰批判  ・・・  ( a ) 永劫回帰は科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、あくまでも実存主義の構えの柱の一つであり、個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。    ( b ) ニーチェは、個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び、個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。これについて、永井均は永劫回帰は思想と言うよりも、ある日突然ニーチェを襲った体験である点を強調している。  ( c ) 永井均はニーチェ哲学とは徹底した「問い」であると指摘している。確かにニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。  ~~~~~~~~~~~~  (あ) 次の命題は 意味がない。   ▲ ( b ) 個人幻想の枠内ならば、人間は因果律も時間軸も超えられることを叫び  つまり 《人間は いかようにもその想像力の翼をはばたかせて自由に空想を成しうる》と一般論を言っているに過ぎない。ゆえ。  (い) つまりそれを   ▲ ( b ) 個人幻想の絶対的自由を主張したかったとも解釈しうる。  と解釈するのは ばかばかしい。想像力の自由さ・ゆたかさは 特に主張をするものではない。     (う) これをもって   ▲ ( a ) 実存主義の構えの柱の一つであり  という気が知れない。想像力があれば 《実存主義の構えの柱の一つ》になれるのか? ならすべての人が 実存主義者だ。  (え)  ▲ ( a ) 科学的に確定される現象や政治思想としてではなく、・・・個人の心的現象内によって発生しうるものなのかもしれない。   ☆ 《心的現象として発生したもの》なら 思想だというのだろうか? 何らかの気持ちをいだいたという心的現象が そのまま《実存主義の構えの柱》になれるのか? ちゃんちゃらおかしい。  (お) ▲ ( c ) ニーチェ哲学は狂気をはらんでいるが、それは無知や短絡的思考からくる狂気ではない。一般人なら適当なところでやめてしまう疑問を問い続けた結果であり、哲学的思索を徹底したがゆえに発生する狂気なのである。  ☆ ここには このように《発生する狂気》が 何らかの思想的な意義を持つと言わんばかりである。んなばかな!  ▲ 一般人なら適当なところでやめてしまう疑問  ☆ というのは 無意味と知ったからやめるのではないだろうか?  (か) すなわち 永劫回帰については 次の説明がある。  ▲ (同上ヰキぺ) ~~~~~~  § 1 概要  ( d ) 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。  ニーチェにおいて、この世界の円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。  ~~~~~~~~~~~~  このどこが 《ニーチェ哲学》というように《哲学》なのか?  どこが 《哲学的思索》なのか?  (き) ▲ 「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち  ☆ この前提がおかしい。のではないか? なんで時間が無限なのか?  (く) ▲ 現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。  ☆ という内容についての次の説明が どういう考えから出て来たものか 解明していただきたい。  ▲ ~~~~~~~~~~~  § 1 概要  永劫回帰は生への強い肯定の思想であると同時に、「一回性の連続」という概念を念頭に置かねばならない。つまり、転生思想のように前世→現世→来世と‘生まれ変わる’ものでは決して無く、人生とはカセットテープのように仮に生まれ変わったとしても‘その年その時その瞬間まで、まったく同じで再び繰り返す’というものである。   仮に2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服していたとしよう。命尽きて生まれ変わっていたとしても、2006年、あなたはブルーの服を着て、白いズボンを履いて14:45に目黒駅前の明治学院行きバス停でタバコを一服している。リセットしてカセットテープを巻き戻しただけの状態になる。  これが「一回性の連続」である。それを永遠に繰り返す。  故に、己の人生に「否」(いな)と言わず、「然り」(しかり)と言う為、強い人生への肯定が必要なのである。  ツァラトストラは自ら育てた闇に食われて死して逝く幻影を見る。最高へは常に最深から。超人は神々の黄昏に力強く現れる。闇を知り、闇を破し、死してなお生への強い「然り」を繰り返す。今、ここにある瞬間の己に強く頷く態度、それこそが超人への道であり、永劫回帰の根幹である。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この哲学の貧困について その由来が知りたいと思いますので ご見解をのべておしえてください。  その内容こそが ニヒルではないか?