• ベストアンサー

ブッダの教え

mmkyの回答

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

釈迦仏陀が活躍しているときに、現在のバングラデッシュあたりから釈迦の説法を聞きに訪れた者が釈迦仏陀に帰依し、そのものが遠くてあまりこれないので小さな仏陀の姿をした像を作っても良いかと直接釈尊に御願いし、よろしいという許可を得て作ったのが仏像の初めといわれてますね。 つまり、遠い国の信者が修行や信仰の対象とするために仏像を作ったのが最初ということでしょうね。

apples
質問者

お礼

ありがとうございます。

関連するQ&A

  • ブッダの教えと、仏教。菩薩。阿弥陀。

    私はブッダは哲学者で、宗教家ではないと思うのですが、知識が中途半端でよくわかりません。 小乗、大乗は解りますが、いわゆる仏教はいつから宗教として何がきっかけで、成立したのでしょうか?少なくとも、ブッダは菩薩や阿弥陀などの存在を語ってなさそうだし、となれば後世の人が創作したように思えますが、そうなるとブッダの教えとは全く別のものです。ブッダその人を神聖化し「神」の様な存在として崇拝する事は、本来の教えからかけ離れたものと思います。 もしブッダがいきていたら死者を拝んでも、「奇跡など起きるはずもない」といいそうですが、なぜ、このように大きく変質してしまったのでしょうか?

  • 「ブッダの教え」について教えてください。

    全ての苦しみは執着から生じる。執着しないように生きなければいけない。というのがブッダの教えですが・・・・ すべての執着を捨てるとなると、例えば、会社で実績を上げて人よりも出世しよう!とか 自分の家族をなんとかして養なっていこう!とか・・・こういったことにも執着してはならない!ということでしょうか? すべての執着を捨てるとなると、出家せずしてまず実行不可能と思いますが・・・可能なのでしょうか? どなたか教えてください。

  • ブッダについて

    閲覧ありがとうございます。この世を一切皆苦と表現したブッダですが、何故子どもをつくってはいけないという教えを作らなかったのでしょうか?

  • 仏教とブッダ

    いちおう検索したのですが答えが見つからず仏教での知り合いに聞いてもwikiを参照してくださいといわれ、見てみても答えがでなかったので質問させていただきます。 仏教とはブッダの教えが元でつくられた思想ですよね?(もしかしたら違うのかな) そして、検索してわかったのですが、ブッダは魂の存在を否定していたらしいです。 なのに何故、今現在の仏教は魂の存在を認めているというか、魂の存在が前提みたいな考えなのでしょうか? そもそも何故、ルーツはブッダの教えひとつなのに世界にはこんなに多くの宗派が存在しているのですか? 教えてください。自分だけでは正しい答えが出そうもありません。

  • 【宗教・ブッダ時代の仏教における蓮子(はす)の持つ

    【宗教・ブッダ時代の仏教における蓮子(はす)の持つ意味はなんだったんでしょうか?】 日本に伝来したときには仏像には蓮子を持ってないですよね? 日本には蓮子がなかったのでイメージが湧きにくいから排除したのだろうか? で、仏像のあの変な手の構え方は蓮子を持っていた仏像から一方的に蓮子を取ったので意味不明なポーズとなって、日本の高僧は国民に「高僧。あの手のポーズは何ですか?」と聞かれて、さすがに知らないと答えるわけにもいかず「あのポーズには意味がある尊いポーズなのです」って言ってしまってあの変なポーズには意味があるんだと日本人は思うようになった。 けど実際のあのポーズは蓮子の一輪の花を茎で持って喜んでいるブッダの姿だったりする。 当時の日本の技術ではまだ蓮子を再現出来る技術がなかったので蓮子は取り払われた。 で蓮子を空想で持っているポーズがあれである。 違いますか? あの変な手の形は蓮子を持っていたら成立するし、ブッダの微笑む顔が仏様の穏やかな表情に繋がっている。 要するに仏像はブッダが生前に蓮子を持って微笑んだ姿を表しているので仏像が無愛想な瞑想している顔になったのは目を書くのが難しいから目を閉じさせたとかそういう技術的な問題であのぶっきらぼうな顔にされたのだと思う。 1番最初の原型の仏像は蓮子を持った微笑んだブッダの姿をしていたはず。 そう考えると全ての辻褄が合うのではないでしょうか。 あとブッダは天然パーマで髪が伸びるとアフロヘアみたいになったからあんな仏像はクリクリくせ毛がイメージ強すぎて一個ずつカールして巻いてったらあんなパンチパーマみたいな仏像になってしまった。 途中から面倒くさくなって頭に冠を乗っけたり坊主頭にして蓮子、目の次に髪の毛も技術的な問題でカットされて今の仏像に至る。

  • われわれはブッダという父親を殺して来なかったのでは

     ないでしょうか?  あるいは ブッダはすでに死んでいると言うべきではないでしょうか?  あるいは われわれ日本人にとってはブッダは母親だと言うべきでしょうか。そのときには 一般に神話の伝えるような《父親殺し》のかたちではなく どうなりましょうか。母親を抜け出るとでも言うのでしょうか それをおこなって来ていない――のではないでしょうか?  さらにあるいは ブッダもしくはそのおしえは もうすでに確かに末法の状態にあり その基本的な思想としてのあり方において賞味期限を過ぎている――のではないでしょうか?  その欠陥は つねに《彼岸》として見られていること――そしてその点では むしろやはり《父親》のごとく立ちはだかっている―― ではないでしょうか?  この《ブッダ》――つまり観念のブッダとしての像――とわれわれとの隔たり これがつねに壁のごとく前にあり道を遮っているのではないか。こういう問いを持ちます。  ご教授を乞います。    減らず口をたたきます。質疑応答に取り上げられるブッダの多さを見てください。その議論の多くは あたかも意識の排泄であって さとりでも何でもなく 排泄であるなら金魚のふんのごとくつらなります。われわれはこの地獄から解放されるべきでは?  ぼこぼこになるまでご批判をたまわりますようお願い致します。

  • ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

     あらためて問いたいと思います。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。   * (わざと この舌足らずのまま・あいまいなままとします)。  【問い1】 ブッダは 神か?  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か?  【問い3】 ブッダがもし神であり人間の境地であると捉えられたとすれば それは――表現の問題を問わないとして―― ブラフマン(梵)でありアートマン(我)であるということではないのか?    【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか?    【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。つまりは 神ではなくその神のもとなる人間の境地でもないとすれば ブッダは いったいどういう現実なのか?

  • ブッダ以外で悟りを開いた人はいますか?

    もしいたらすみませんが、あまりブッダ以外で悟りを開いたという人の話を聞いたこと上がりません(訳の分からない新興宗教の教祖連中は除外してください) 大乗仏教理論をまとめたナーガルージュナなども、悟りを開いたという意味には当てはまらないのでしょうか? いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか? この辺の事情についてお詳しい方お願いします。

  • なぜ、釈迦はブッダと呼ばれるのでしょうか?

     仏教の開祖の釈迦を仏陀(ブッダ)という言い方があり、「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味だ、という言い方を何度か聞いたことがあります。  ウィキペディアでも、仏教を《一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。》と、説明しています。  この場合の「目覚めた人」というのは、人のどのような状態を指しているのでしょうか。  「目覚める」とは、どういう状態から、どういう状態になることを指しているのでしょうか。  ネットサーフィンして少し頑張ってみたつもりですが、仏教関係の教義や真理は、調べれば調べただけ広がってしまい、良い帰結を得ることができません.  一つの帰結を見るには、この、ブッダについて明確に知ることが必要と思われましたので、質問させていただきます。  よろしくお願いします。

  • ブッダの複数形は何を意味するか?

    buddha(ブッダ)という単語の複数形が経典に登場する そうですが、するとブッダは複数いたのでしょうか? それとも、ブッダは一人だけど弟子も含めた ブッダの複数形なのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パーリ語 アイウエ?オ(7) http://www.j-theravada.net/sakhi/pali-aiueo-2.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ まずは、上のサイトで、ブッダに複数形があることを確認。 次に、検索してみたら ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで、「仏教の開祖は釈尊」という辞書の解説は疑う余地がないのであろうか。  実は筆者は釈尊自身にはおそらくそういう認識はなかったものと考えている。釈尊は諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたという自覚を持っておられたからである。それを最も象徴的に示すのが、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」という句である。「是諸仏教」という句のパーリ語の原語は‘etaM buddhAna sAsanaM’であって、‘buddhAna ’は‘buddha’の複数形所有格であって、「諸」は「教え」にかかるのではなく「仏」にかかるのである。そこでこれは「七仏通誡偈」とも「諸仏通誡偈」とも呼ばれる。諸々の仏は、それぞれ時代や環境や衆生の機根の異なる世界に生まれられたので、その教えはさまざまなものとなったが、この句だけは共通して説かれたという意味である。  確かに釈尊は無師独悟されたとされている。釈迦牟尼仏は誰かに教えられて仏になったのではないが、一方では諸々の仏が通った古い道を自分も通って仏となり、諸々の仏が悟った真実を自分も悟り、諸々の仏が説いた教えを自分も説いたにすぎないという自覚も持たれていたのである。  もっとも釈尊自身はそうであったとしても、仏弟子たちはやっぱり仏教は釈迦牟尼仏が説きだされた独創的な教えだと考えていたかも知れない。しかしながら仏弟子も『テーラガーター』という仏弟子たちの言葉を集めた経典の中で、「智慧ある者は諸々の仏の教え(buddhAna sAsanaM)に思いを凝らすべし」などと言っているから、やっぱり同じような見解をもっていたといってよいであろう。  その証拠に仏弟子たちが編集した原始仏教聖典にはブッダの複数形が無数に出てくるし、毘婆尸仏(ヴィパッシン仏)などの具体的な釈尊以前の仏たちの行状に関する伝承が記され、釈尊滅後100年か200年ほどしてインド半島を統一した護教の王として名高いアショーカは、過去の仏の1人であるコーナーガマナ仏の仏塔を修復したという碑銘を残している。 http://www14.plala.or.jp/hnya/tokubetukikou-.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上のサイトがヒットした。 >ブッダの複数形が無数に出てくる。 と書いてあるわけですが、 どう思いますか?