航空母艦の艦橋はなぜ右側ばかりなのですか?
航空母艦の艦橋は世界最初と呼ばれる鳳翔の時代から現代の原子力空母まで、何でか殆ど全てといって良いほど飛行甲板の右側に位置しています。例外として赤城、飛龍の2隻が左側艦橋(もしかして世界でこの2隻だけ?)、あと瑞鳳に代表される日本の小型空母などは聳え立つ艦橋すらありませんが…。
しかし、艦橋を持つ空母はなんでこうも右側ばかりなんでしょう。赤城も飛龍も日本では名空母として知られており、護衛艦『いずも』も命名前は『あかぎ』になるのでは?なんて、もの好きな人たちに推測されてたほどに、空母と言えば必ず名前の出てくる2隻です。そんなに優れた空母なら同じように左側艦橋の空母がもっとあって良かったはずだし、原子力空母にだって左側艦橋ってあってもいいと思います。しかし現実には存在せず、空母大国の米海軍なんてたぶん過去から一隻も左側艦橋なんて無かったように思います。なんでこうも右側ばかりに艦橋が設けられているのでしょうか?
港で観ていると多くの船が左舷側で接岸していますが、右側艦橋だと左舷接岸は難しいと思いますし、事実横須賀の『いずも』は駅からみるといつも右舷側で接岸しているようです。子供のころ、横須賀のベース祭で乗ったアメリカ空母(?…強襲揚陸艦かも)も右舷側で接岸してたという記憶があります。
なんで空母には右側艦橋しかないのでしょうか?
また、左側艦橋の赤城、飛龍は名空母と呼ばれているのでしょうか?
(飛龍はミッドウェー海戦で最後まで頑張って反撃していたからってことからだとは思いますが、赤城はよくわかりません。飛龍と蒼龍は基本的な艦体設計はほぼ一緒と聞いていますが、それなら右艦橋の蒼龍だって名空母と言われてもいいわけだし、加賀にいたっては“焼き鳥製造機”…悲惨なあだ名しかついていない ‘泣’ です)
よろしくお願いします。
補足
回答ありがとうございます。 自分で調査した分を補足しておきます。 赤城と加賀が戦艦から空母へと改造を受けてた当時、 そのお手本になる空母が世界初の空母「フューリアス」 くらいしかなかったため、これを真似た。 そのため多段甲板構造になってしまった。 だが、三段構造の下段甲板では、複葉機の発艦しか行えず、 運用上不都合であった。実際、この反省を生かし、イギリスでも 「フューリアス」の次作の空母では多段構造をやめた。 これを受け、赤城と加賀は全通甲板一枚に改造された。 そうしたら、必然として背が高くなってしまった。