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自由と平等について

近代において自由と平等は基本的に同義でありましたが、20世紀以降になると両者が対立関係になってきて、現代では政策でも思想でも鋭く対立している。なぜ、両者が対立関係になったのですか?背景もあれば教えてください。

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noname#100196
noname#100196
回答No.1

※たくさん書いておいてなんですが、私はあくまでも一般人です。以下に書いたことの正確性は保証しません。 近代における自由と平等、そして民主主義とは、とりもなおさず「選挙権が付与されていた」富裕層・資本家にとっての自由であり、平等であり、民主主義でした。 産業革命・工業化の時代において、自由と平等とはすなわち「自由放任主義経済・社会保障の拡大の禁止・自由貿易・少数派の市民権はこれを認めない」ということを指していたわけです。 介入主義はともかくとして、計画経済や国家資本主義経済は「選挙権をもつ」資本家にとっての自由を妨げるものですし、 社会保障の充実や、保護貿易、定常状態(身分の固定)を認めない少数派への完全な市民権の付与といったことは、資本家にとっては社会的弱者が国家から援助を得るという意味でアンフェア(不平等)なことだったのです。 話は脱線しますが、このような自由と平等、そして定常状態の確立を推進したことから、小泉政権は「新自由主義」と呼ばれています。 近代においてはこのように、自由と平等とは資本家のものでした。しかしながら同時代に、1848年革命のような自由主義革命の機運が高まり、それまで富裕層に限定されていた選挙権が資産による付与、さらには普通選挙と貧困層にも付与されるようになります。 そうしますと、自由と平等の定義が変わってくるわけです。 貧困層にとっての自由と平等とは、とりもなおさず 「計画経済・社会保障の充実・保護貿易・少数派への完全な市民権の付与(身分の自由)」、のことです。 資本をもたない貧困層にとって、計画経済による資本の分配、社会保障による資本の分配(最低賃金の保障、労働時間の制限、安全基準の確立、医療補助の設立、年金制度の導入等)、そして身分の自由(江戸時代で例えると、士農工商のどれになっても良いということ)といったことこそが「持つものと持たざる者」との平等を担保するものですし、権利=自由を確保する上で重要なものでした。 さて、このように近代においては「資本家にとっての自由と平等(自由放任経済)」対「非資本家にとっての自由と平等(計画経済)」という展開が繰り広げられていたのですが、ファシズム(国家資本主義)の挫折や社会主義(計画経済)の敗北によってそういった構図は用いられなくなりました。経済の形態において、「資本主義経済(自由経済)」が当然のものとして受け入れられるようになったのです。 しかしながら当然、資本家がいなくなったわけでも、非資本家がいなくなったわけでもありません。依然として、資本家と非資本家の対立は残っているわけです。そこで、自由経済の内部における「資本家の自由」対「非資本家の平等」という構図が意識されるようになったのです。 ここで、「資本家の自由」対「非資本家の平等」という構図の一つとして「大学奨学金」というものを例にあげたいと思います。持てる者にとってみれば、奨学金という制度は当然アンフェア、不平等なわけです。お金を持っていない人が、お金を持っている人から集めたお金を無断で使うわけですから。そしてお金を強制的に巻き上げられることは、当然自由の侵害なわけです。故に、資本家は「自由(競争)」を主張します。しかしながら、持たざる者にとってみれば、奨学金がなければ資本によって進学(身分の上昇)が制限されるわけですから、不平等かつ不自由となる。故に持たざる者は「平等」を主張するわけです。 つまり、持てる者にとっては無制限の「自由」競争のほうが有利であり、持たざる者にとっては資本の共有と再分配による「平等」のほうが有利である、という仕組みはいまだに変わっていないわけです。…この、立場によって「自由と平等」は異なるのだということを、義務教育で習わないのは何故なのか、不思議でなりません。 このように、現代において自由と平等が鋭く対立しているのは、資本家とそれ以外の人間の間においてそもそも「自由と平等」の定義が異なっていたことに端を発しています。

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