江戸時代の住居状況と『奥の細道』について

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代の住居状況について疑問がある人向けの質問です。特に『奥の細道』に関連する点について興味があります。
  • 当時の住宅事情では、芭蕉が旅に出る前に家を売却していたことが分かっていますが、このようなことは一般的だったのでしょうか?また、江戸に戻ってからの住居形態についても知りたいです。
  • また、芭蕉の持ち物や旅費についても注目しています。高価な買い物をしていたのか、それとも売って旅に出たのか、芭蕉の決意が知りたいです。詳しい方からの回答をお待ちしています。
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江戸時代の住居状況(『奥の細道』に関わって)について

宜しくお願いします。 奥の細道を、今習っているのですが、当時の住宅事情で不明な点を質問させて下さい。 芭蕉は、旅に出る前に家を売り払って?出ているようですが、当時はそのようにひょいひょい家を売ったり買ったりしていたのでしょうか。 また、江戸に帰ってきてからすぐに家(草庵?)に入っているようにみえます。 当時は家を所有する形態だったのでしょうか?(だとすると値段はどのくらいだったのでしょう?)それともほとんど賃貸だったのでしょうか? 高価で買うようなものなら、芭蕉ってお金持ちだったのかな、とか また高価なものを売って出て行く状況だったなら、芭蕉はかなり決意して旅に出たんだなぁとか色々わかると思っています。 詳しい方、是非教えて下さい!

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  • aananzu
  • ベストアンサー率50% (96/191)
回答No.2

補足を受けて、私見の追加です。 >芭蕉ってお金持ちだったんですね・・・。意外です。   実際の生活は、質素だったと思います。 ただ、必要なときにいくらでもお金を出してくれるスポンサーが何人かいる状態だと思います。 >大概借地で、家も借家とみていいんでしょうか? 時代劇を見ても判るとおり、町人が住んでいた長屋など、借家ですよね。 おそらく自分の家を持っているのは、大身の武士や富商ぐらいでしょう。 >借りるのも、すんなり借りられるようなシステムだったんでしょうか すんなりとは、いかないでしょうねぇ。 当時、『大家が親代わり』とあるように、お上(幕府)は大家に”人別帳”を作る役目を与えてました。(今の役所みたいに) 当然、大家にも責任がかかるので、身元がある程度確かでないと困るでしょう。 >家賃は安かったんでしょうか? 江戸とかの大都市では、割と安かったと思います。 糞尿が肥料としてかなり高額で売れていたので、これらの実入りが有る分、値が下がったと思います。  

gudousha1
質問者

補足

すばやい返信、ありがとうございます! くわしいですねぇ・・・ 江戸時代、私は必殺仕事人くらいしか知識がないので^^; とても助かりました! これでちょっと知識持って宿題できそうです^^ ありがとうございました!

その他の回答 (1)

  • aananzu
  • ベストアンサー率50% (96/191)
回答No.1

歴史好きの私見で良ければ・・・。   『奥の細道』の当時、【松尾芭蕉】はかなりの有名人であり、 多くの門弟を抱えていたと思います。   中には、富商(富裕な商人)や豪農(財力や勢力のある農家)も 居たことでしょう。   そんな彼らが、授業料として納める金額は、かなりのものと思います。   江戸時代なら土地はおそらく借地であり、所有者は彼ら富商や豪農あたりで、 家の手配などは、門弟たちが行っていたのではないかと思います。   旅に出てもそれぞれの土地に富商や豪農がいるので、ステイタスほしさに【芭蕉】をもてなしただろうし、俳句の授業料で路銀は賄えたと思います。

gudousha1
質問者

補足

ありがとうござます!! 芭蕉ってお金持ちだったんですね・・・。意外です。 確認で、お願いします。 一般人として、この頃の住宅は、大概借地で、家も借家とみていいんでしょうか? 借りるのも、すんなり借りられるようなシステムだったんでしょうか?家賃は安かったんでしょうか?

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