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太平洋戦争について。
歴史の教科書や簡単な歴史書には決まって、日本は、常に玉砕覚悟で敵に向かっていったという記述があります。 でもどこかで、「これはもう負けるな」と悟った瞬間があったと思うんですよね。国民ではなくて、軍内部で。 それって細かく言うと、どのあたりなんでしょうか。 それとも、ずっと勝てると思って戦っていたんでしょうか。 あれだけ何もかも圧倒的な相手に、それでも勝てるという自信を持って戦っていたとは考えにくいんです。 昔の日本人は、そんなに精神的に強かったんですか? 旧日本軍が、どこで“折れた”のか、教えていただけないでしょうか。
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将棋においては、どんなに局面が一方的になっても「王」を詰められるまで負けません。 神風が吹くという事はともかく、圧倒的兵力差があっても国民全体が戦い続ければ、負けはないと思った人はいたでしょうね。 米・ベトナム戦争がそれを証明しましたが、核兵器を使わずにそのまま米国が武力占領をしようとすれば、米国側はそれなりの被害・日本側は回復不能の惨状がもたらされたと思います。 無茶苦茶で人命無視ではありますが、当時の一億人が戦い抜くとすれば、その前の英・アフガニスタン戦争の様に、米国が途中で投げ出すかも知れないと、軍部の一部では思っていたのでしょう。 もっともその場合、朝鮮と同じにソ連が侵入してきて、少なくとも北海道は持って行かれたでしょうが、原爆がその可能性を無くしました。 そう言った意味で確かに北朝鮮と似ていて、ソ連参戦と原爆がポイントだったと思います。 そ
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- astute_2wd
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どの時点で「負ける」と悟ったかはわかりませんが、 太平洋戦争末期、最前線の兵士達が絶望的な戦いを強いられ、都市部の一般市民が空襲に逃げ惑っていた頃、大本営の面々は東京の安全な地下施設の中におり、 このまま降伏したら自分達は戦争犯罪人として処刑されてしまう、なんとかそれを回避する方法はないものか? などとわが身のことばかり考えていました。 そして、 前線の兵士達には降伏は許さず最後の一人まで徹底抗戦させ、 合わせて神風特攻隊などの玉砕戦法も駆使することで可能な限り敵の戦力を削らせれば、 損害の多さに驚いた米軍が本土上陸をあきらめるかも知れない。 また終戦直前になると日本はソ連に連合国側との停戦の仲介を頼んでいたため、 敵軍の本土進攻を食い止めておけばその間にソ連が米英を説得し日本側に有利な条件で講和(戦争指導者の責任を問わないなど条件付の降伏)が可能になるといったことにも一縷の望みをかけていたようで、 大本営は終戦工作の時間稼ぎのために沖縄で女子供も含む市民を総動員しゲリラ戦を行うよう命令を下したりもしています。 結局、決断できないままダラダラと先送りにしていたら広島と長崎に核爆弾が落とされてしまい 己が身にも直接危険が及ぶにいたり(核相手じゃ地下施設も役に立たない)ようやく負けを認める決心がついた形でしょうか。
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返信ありがとうございます。 上に立っていた方々がこの体たらく。怒りを通り越して呆れてしまいます。 優秀な将官もいたという話は、いくつか聞いた覚えがあります。 ですが、軍の最高機関でふんぞり返っているだけのお偉方の方が多かったのでしょうね。 そういった意味でも、日本には万に一つも勝ち目がなかったと考えてよさそうですね。 戦うため、守るために存在した軍人が被害を受けるのなら、多くの人が納得できたでしょう。 しかし、女性や子供などを含む民間人が被害を受け始めた段階で、どうして戦いをやめることができなかったのか。負けを認めることができなかったのか。 ……考えたところでどうしようもないことなんですけどね。
「マリアナですな、ああこれはもうダメだな・・と。」(源田実)。 マリアナ沖海戦。作戦名「あ号作戦」。昭和19年6月19~20日。 海軍機動航空戦力がほぼ壊滅し、これ以降、航空機動艦隊という組織立った(実質的な)作戦行動が不可能となる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8A%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6 併せてサイパン、グアム、テニアンが陥落し、その絶対国防圏内が破られ東条内閣が倒れる。 長距離爆撃機B29による日本本土爆撃も可能となる。 レイテ沖海戦。作戦名「捷一号作戦」。昭和19年10月23~25日。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6 戦艦大和をはじめ幾隻かを残すも、多くの軍艦を失い、帝国海軍はこれで崩壊する。マニラ湾に残存した多くの艦船も徹底的に屠殺される。 台湾沖航空戦と併せて多くの航空機兵力を失い、フィリピン海域における制空権、制海権を失い南方からの物資輸送が閉ざされてしまう。 これで敗戦は決定した。これでも勝てると思うものがいれば、相当な低脳であろう。 神風特攻隊は犬死?。実質的にはそうであるが、敗戦国日本があまり馬鹿にされなかったのは、彼らの愛国心と勇気によるものがあると信じたい。 ガダルカナル、ニューギニア、ニューギニア~フィリピン、サイパン、グアム、テニアンなどにおける多くの陸兵、海兵は玉砕、戦病死する。 海外における日本の将官の評価は低い。評価が高いのは下士官であった。 政治的な配慮によってなされた無謀なインパール作戦などは、愚劣の極みであろう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6 愚劣な将官が多かった中、勝てる見込みは元々薄かったと言えよう。
お礼
返信ありがとうございます。 負け続け、物資も兵力も疲弊した旧日本軍が、「人間」を兵器の一部とした「神風特攻隊」や「回天」などに頼ったという話を聞くと、胸が締めつけられる思いです。 「お国のため」と声高に言いながらも、そういった特攻兵器となることが決まった兵士たちは、内心、計り知れない恐怖を感じていたと思います。 ほかの何を悪く言っても、特攻兵器として散っていった方々だけは、絶対に悪く言えません。
- isa-98
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自分に与えられた使命を間違っていると思いながらも 遂行出切る強さは見習いたい物です。 「餓島で滅茶苦茶しなければソロモン海は勝っているだろが。」 は、軍艦乗りの誰もが痛感していたようです。 第一次ソロモン海海戦では、ルンガ飛行場(ヘンダーソン飛行場) を奪取されていますが、海軍が一方的な勝利を収めています。 しかし、揚陸物資の攻撃に躊躇したのが後々大問題になります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%B5%B7%E6%88%A6 第三次ソロモン海海戦では大敗。 それでもルンガ沖夜戦では駆逐艦隊でもって重巡洋艦隊を壊滅させます。(海軍最後の勝利。) 田中頼三は解任されます。(指揮艦を中央に配置した為。) 旗艦は先頭に立って突撃せよ。(これで霧島が沈没した矢先の事件) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%A0%BC%E4%B8%89 ラバウル航空隊では、「戦闘機の補給に無頓着。」とののしり、 餓島では、敵の戦力を大きく誤認し、全滅させ、(一木支隊) 餓島に突入した川口少将を罷免、部隊は大混乱。(川口支隊) この為、 最後に「万歳」(飛行場奪回作戦成功の電文)まで発信する始末。 このまま突入させて爆撃に遭遇して部隊は大混乱。 その後師団を送り込む。餓島では、2~3万人が 餓えと病気え苦しんでいた。 餓島の部隊を救援する為、16万トンの輸送船を送るように進言するが却下。馬鹿野郎と東条を怒鳴りつけるに至る。
お礼
返信ありがとうございます。 ガダルカナル島での戦いで、旧日本軍が大勢の餓死者と病死者を出したということは知っていました。 歴史の本を読んでいたとき、戦闘での死者よりも、そちらの方が多かったというところに、旧日本軍の限界を感じたことを思い出しました。 旧日本軍が勢いづいていたのは、最初の数ヶ月だけという話も聞いた覚えがあります。 それでも戦い続けた……いや、戦わざるを得なかったことを考えると、どうにも虚しく悲しい気持ちになります。
- DESTROY11
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心ある人なら開戦前に既に分かっていたようです。 やる気があったのは陸軍だけで、海軍や政治家、天皇まで勝てるとは思っていなかったようで。 山本五十六・連合艦隊司令長官は、アメリカ工業地帯と油田地帯を視察していたため、勝てないことを分かっていたようです。 そのため、軍縮会議が失敗したあとも残って非公式な交渉を繰り返していたわけです。 連合艦隊司令長官就任後にも「1年は暴れて見せますが、あとは確信できません」と言っています。 天皇も「昭和天皇独白録」によると、あくまで戦争に反対すれば、自分も周囲の人も暗殺され、 挙句歯止めが利かなくなり、最後は亡国になるだろうとして、苦しんでいたようです。
お礼
返信ありがとうございます。 最初から「勝てない」と思っていた人がそんなにいたのですか。 私は、昔の日本は「どこと戦争をやっても勝てる!」とほぼ全ての人が思い込んでいたのかと、勝手に思っていました。 そうでなければ、あのアメリカにケンカを売ることはしないだろうという感じで。 なんだか、やりきれない感じですね。 勝てないだろうなと思いつつも、それを止められなかったのですから。
- tande
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>常に玉砕覚悟で敵に向かっていったという記述があります。 些細な事に突っ込むようですが、私としては「常に」って所に強い違和感を感じます。 玉砕覚悟というのは限定的な場面での話では無いでしょうか。 もちろん、多少大げさに「日頃の心意気」を表現したとも考えられますが。 恐らく、(だいたいこんな感じって程度に思ってください) 「こりゃ勝てない」と思ったのがあ号作戦の失敗。 「この戦争は負けた(負け≠無条件降伏)」と思ったのが昭和19年のフィリピン航空戦での敗退。(レイテ沖海戦の話じゃなくてそれ以降) 「折れた」というな話なら、昭和20年8月ではないでしょうか。(だから無条件降伏を飲んだのですが) まあ、そんなこと言い出したら、 シチリア占領され、本土上陸寸前で降伏したイタリアどうよとか 本土どころか首都まで攻め込まれてから降伏したドイツはどうよって話になりますけどね。 彼らは「それでも勝てる」と思っていたのでしょうか?(古今東西、似たような例なんかいくつもありますが)
お礼
返信ありがとうございます。 そうですね、「常に」の記述はなかったかもしれません。 私の勝手な思い込みだったかもしれません。申し訳ありませんでした。 やはり心が完全に折れてしまったのは、原子爆弾が投下されたときですか。 限られた物資で、諦めずにあのアメリカと数年もの間戦い続けられたと言えば聞こえはいいですが、「負け」の二文字が見え始めてもなお戦わされ続けた現場の将兵たちは浮かばれませんね。
- gadovoa
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軍内部の識者、民間人の識者等とても多くの日本人が負け戦だと開戦当時から認識していたと思います。ただ言えなかっただけで。たぶんアメリカという国の事を全く分からないアナクロな軍人のみ勝てると信じていたと思います。 私個人的には軍部が慌てて(負けるんじゃないかと感じて)きたのは、ミッドウェイ海戦敗退か絶対防衛圏(本土決戦)を引いた時だと思います。
お礼
返信ありがとうございます。 やはり、“勝てない”ことを分かっていた人もいたんですね。 私のような、ただ簡単な歴史の本を読んだだけの人の目にも、例えば「真珠湾攻撃」なんかは、真正面からぶつかったら勝てないから、とりあえず奇襲してやろうという浅はかな考えの上の行動にしか映りません。 2国の力の差を把握している人がもっと大勢いたら、もしかしたら戦争にはならずに、話し合いでどうにかできたのかなと感じました。
- sky-plane
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広島と長崎に原子爆弾を落とされた後だと思います。 現時爆弾を落とす前までは帝国軍側がポツダム宣言による無条件降伏を促していましたが、どうも無視するようなので原子爆弾を落としたようです。 その威力を知ってか原子爆弾を落とされた後にポツダム宣言の受諾ときたので落とされた後ぐらいにお手上げだと気づいたのではないでしょうか。 実際に軍内部でどのようなやり取りがあったのかは分かりませんが、そんな感じだろうと思います。 太平洋戦争末期の日本は現在でいう北朝鮮に似た部分があるので軍内部で何を考えてたのかは分かりません。
お礼
返信ありがとうございます。 原子爆弾なんて強大な力を持つ兵器を使わざるを得なかったのは、やはり日本がなかなか負けを認めなかったというのが大きな理由だったんだろうなというのは、なんとなく感じていました。 でも、あそこまでやられるまで降伏しなかったのは、やはり理解できません。 今さら歴史に意見しても仕方ないですが、何とかなるうちに何かしらの手を打っておくべきだったのではないかなぁと、ただ単純にそれだけを思いました。
お礼
返信ありがとうございます。 2発の原子爆弾によって、計り知れないほどの犠牲者が出ました。 なぜこれほど強大な力を持つ兵器を使用せざるを得なかったのかを考えると、やはりそこには、なかなか負けを認めない日本の心を完全にへし折る目的があったということなんですよね。 それによって日本はようやく降伏し、戦争は終わりました。 逆に、もしも原子爆弾というものがなかったら……と考えると、恐ろしい想像しかできません。 日本が“折れた”のは、「原子爆弾を落とされた後」で結論としてよさそうですね。