• ベストアンサー

敬語は ほんとうに 尊敬を表わす語法でしょうか

 まづ 《ていねい語》は 別とします。(次の意味あいから その理由は 自明になると思います)。  ▲ (ヰキぺ:敬語) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E  敬語は、  ○ 言葉で表現する主体(書き手、話し手など)と  ○ 客体(読み手、聞き手)や その話題中の対象となる人との  ○ 上下関係、  〔あるいは〕  ○ 話題中の人物同士の上下関係  などを言葉の内に表現するために用いられる語法。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とあります。考えるに おそらく 別の側面があると思われます。  ○ 社会的な上下関係にかかわりなく 相手や人をうやまうゆえに 語法において その心を示そうとして 表現を形成する。  ☆ そこで 質問です。  【Q:敬語は (A) 上下関係が社会身分として成ったから 出来たのか。それとも (B) はじめに 人びとの間で 互いにうやまう気持ちを表わそうとして 出来たのか】  ☆ もし (A)であれば 敬語は 要らないと思います。結果としてでも 上の者が 下の者に そういう表現形式を使うようにと 押しつけたものだと考えられるからです。  果たして どうなんでしょう?   * 質問者じしんの考えをも述べます。(1) じつは あいまいです。  (2) 分かっていることは 仮りに(B)の場合が 歴史的な事実だとした場合 それでも (A)のような使い方は あまり愉快ではないと感じます。  (3) 尊敬するかしないかが決まっていなくても 一般に―― 一般に―― 敬語という語法を用い合うことによって コミュニケーションが 障りなく実り多く 進められるのなら そのほうがよいではないかという議論があるかと思います。ということは 敬語という語法がなければ 社会の人間関係は 滞りなく 進むことは むつかしいということでしょうか?   (4) だとすれば それは 尊敬語というよりは 最初に挙げた《ていねい語》という語法ではないでしょうか? 表現にあたって その内容および形式(語の選びや文の形態)を みづからのためにも 相手のためにも より良く形成しようと つとめる語法です。  おしえてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.1

 「敬」という字は会意文字ですよね。確か、図らずも羊の角に触れて、はっと驚くような意味合いだったと思いますが、そういう意味の文字を当てている以上、相手を敬う言葉としての意味よりも「敬」という文字の意味が先立つのではないでしょうか。  こういうのって、ブラジュロンヌさんの方が詳しそうですが。  ある程度の年齢以上の方(七十歳くらい以上)ならきっと、「敬」という字は人が屈んだ姿勢を現わす文字だという理解があると思います。  では、なぜ屈むのか?   それを三十代くらいの人に聞いてみると、「それは相手より頭を低くすることで、相手を敬う自分の態度を現わすからじゃないか」という返事が多いんじゃないでしょうか。  質問は、これって本当の意味なのか? と理解して以下に答えてみます。  単刀直入に言えば、相手が「敬語」を口にしたとき、きっと心のどこかで相手は避けようとしているんだと思います。うまく身をかわして羊の角を避けたいのだと、こう判断したんだと思うんですね。  その判断は、この相手とはむやみに言葉を交わしてはならない――そういう心理に裏付けられている。意識してか、無意識かはわからない。けれど、敬語ってそういうものだと僕は思います。    どうしたんですか、ブラジュロンヌさん。どこかで、敬語を口にされた?

bragelonne
質問者

お礼

 ri_rong さん お久し振りですね。ご回答をありがとうございます。  漢字や語源(字源)から 説き起こすのは 中村元の専売特許かと思っていたら お使いになるのですね。やや 皮肉交じりです。中村のばあい あまり成功していないように思っていたものですから。  さて なるほど 《敬》の字源は 藤堂と白川とで 説が分かれていますね。  ▲ (ヰクショナリ:敬) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wiktionary.org/wiki/%e6%95%ac  会意形声。「攵(攴:動詞を表す)」+「苟」(キョウ:現在、「コウ」と読む文字とは同形別字)。  苟は、羊の角+人+口の会意文字で、角にふれかしこまる様子を表す(藤堂)。  又、「羊の角+人」で、中原の西部に住んでいた、羌人を表し、「口(神器)」の上に置いて、羌人の生け贄を捧げ、神をうやまうことを意味するとも(白川)。  はっとしてかしこまるの意は「警」「驚」に含まれる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしが この質問を挙げたのは 敬語を学ぶという人がいたからです。  で お答えは けっきょく 《敬遠》ということになりましょうか?  ★  単刀直入に言えば、相手が「敬語」を口にしたとき、きっと心のどこかで相手は避けようとしているんだと思います。うまく身をかわして羊の角を避けたいのだと、こう判断したんだと思うんですね。  ☆ 敬遠の四球というところですね。  ★  その判断は、この相手とはむやみに言葉を交わしてはならない――そういう心理に裏付けられている。意識してか、無意識かはわからない。けれど、敬語ってそういうものだと僕は思います。  ☆ ううむ。ただ ただですね ただ これほど 普及していますよね。そして 敬語を使って 話を引き出そうとしたり 相手を味方につけようとしたりしますね。交通の手段のようなものでもありますね。  積極的に使っている場合も 少なくない。ということになりませんか? なった場合 どう捉えるかだと思うのですが どうでしょう?

その他の回答 (2)

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.3

こんばんは。 敬語表現という呼称にあまり囚われない方がよろしいのではないでしょうか。 思うに、ある国語学者が待遇表現をさらに細かく分類しようとした結果、その一部について、たまたまその時代・社会を支配していた日本的、儒教的美徳?の影響を受けて《敬語》と呼び、それが今日まで存続してきただけと考えた方が無難ではないでしょうか。 要するに、敬語表現を用いる話者の意識裡に、本当に相手に対する敬意が認められるかと問われれば、「必ずしもそうとは言えない」という程度のことは、誰しも経験的に理解しているのではないかということです。 申し上げるまでもなく、相手に対する話者のいろんなレベルでの気遣い、配慮、思惑等々からいろんな待遇表現が生み出されたきたわけですが、その中の敬語表現だけに限れば、話者が相手から有形無形の利益を引き出さんと謀ったり、そのために相手のプライド、自尊心を擽ったり、相手の歓心を買ったりすることが、敬語を用いる際の動機、目的、意図等になっているのではないでしょうか。 したがって、ご指摘の通り、相手を「敬遠」することで自己防衛しようとするときも、敬語は重要な働きをするわけです。 同じような心理は、日本語にはいわゆる目上の人に使える二人称代名詞がないことや日本人特有の対人恐怖症的傾向等にも認められるのではないでしょうか。 もしかして、日本語における敬語表現とは、日本人がいかにアカの他人の他者と面と向かって対話することを苦手としてきたかを立証しているのかもしれませんね。 その意味でも、ときどき日本語の敬語表現がかつての封建的な差別社会、身分社会の残滓であるかのごとく言い張る人もいますが、あまりにも底の浅い謬見だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 起源についての第一考。  ○ めし(召し・飯 ← 見し)  ▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=《お治めになろうと》  ▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧になると》  ◆ (大野晋・古語辞典) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  めし:《見る》の尊敬語  1.ご覧になる  2.お治めになる  3.お呼び寄せになる  4.結婚の相手となさる  5.お取り寄せになる  6.お取りあげになる  7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買うなどの意の尊敬語  8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ シは スルという動詞。見ナサルというように 能動性をつけ加えている。メは ミの母音交替形。  見ナサルゆえ そのものを《身近に寄せる》。(2)から(6)までについて 不都合無し。(7)は 《寄せた》あとの動作について 直接に触れず 遠回しに言う。  ここで 別の解釈をします。  シを 使役の意に採る。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。このようにも 解釈できる。ただし モノを取り寄せるという用例では 合わない。おそらく この使役の語法は 第二次的であろう。  高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづからの姿を見セル。ゆえに 《めし(召し・飯)・召しあがる・お召し物》という意味。  メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞・シをとおして 第一次と第二次の用法が見られる。第二次の用法は ヰキぺで言う《上下関係》にもとづく尊敬語法。表面的でもある。  第一次の用法は では 人びとの生活から 自生的に 起こったか。  レル・ラレルという敬語法を見てみるとよい。古語で ル・ラル。これは 自然生成の相。《出来る》という可能の相も 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとする。  能力があるという相を その表現に使えば 敬うかたちになる。見ラレルや食ベラレルは あまり使わないが 第一次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいまいか。身分関係にかかわらず 発生したのではないか?  《敬遠》の語法は どうあつかうべきか。

bragelonne
質問者

補足

 kadowaki さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  思うに、ある国語学者が待遇表現をさらに細かく分類しようとした結果、その一部について、たまたまその時代・社会を支配していた日本的、儒教的美徳?の影響を受けて《敬語》と呼び、それが今日まで存続してきただけと考えた方が無難ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううむ。kadowaki さん これだけでは 納得しましたと申し上げるわけにはまいらないと まづ 考えます。まづ そのように反応いたします。こうなれば  ○ 起源  ☆ をしっかりと捉えて 論じないことには 上滑りになりかねない。もしくは 歴史の途中の段階からの議論になる。とお考えになりませんか?  この疑問が先に立って 決してそうではないのですが いわば粗探しをするかのように 話を継ぎますが この質問の思うところにしても  ★ 敬語表現という呼称にあまり囚われない方がよろしいのではないでしょうか。  ☆ というように囚われて 何かを訴えようとしているわけでもないのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  要するに、敬語表現を用いる話者の意識裡に、本当に相手に対する敬意が認められるかと問われれば、「必ずしもそうとは言えない」という程度のことは、誰しも経験的に理解しているのではないかということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と たしかに なるでしょうね。その上で どうして この語法がつづいているか ですが  ★ したがって、ご指摘の通り、相手を「敬遠」することで自己防衛しようとするときも、敬語は重要な働きをするわけです。  ☆ というNo.1説に賛成のご見解ということになりましょうか。詳しく述べてももらっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  申し上げるまでもなく、相手に対する話者のいろんなレベルでの気遣い、配慮、思惑等々からいろんな待遇表現が生み出されたきたわけですが、その中の敬語表現だけに限れば、  ・ 話者が相手から有形無形の利益を引き出さんと謀ったり、  ・ そのために相手のプライド、自尊心を擽ったり、  ・ 相手の歓心を買ったりすることが、 敬語を用いる際の動機、目的、意図等になっているのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうなれば――つまり このように分析されていることが まちがいだと言うのではなく そうではなく まちがいではないゆえに そのまま 敬語の理論としていいかとなれば それは 待ったがかかると思われ それは―― やはり 起源から説き起こした上でないと この《敬遠》説を 胸に落とし込むわけにはいかないように感じます。  たしかに なお説いて述べられることには 日本人には 社交下手といった性格があるということのようですね。  ★ 日本語にはいわゆる目上の人に使える二人称代名詞がない  ★ 日本人特有の対人恐怖症的傾向等  ☆ が証拠として挙げられるのだと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もしかして、日本語における敬語表現とは、日本人がいかにアカの他人の他者と面と向かって対話することを苦手としてきたかを立証しているのかもしれませんね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうして  ★ 封建的な差別社会、身分社会の残滓  ☆ の説をも破って むしろ  ○ 敬語にかんする《敬遠》説は 起源としての敬遠をも含んだ《敬遠語法》理論である。  ☆ という様相を呈しています。そういう日本人論でもあるようです。  たとえば わたしは 日本人には 進取の気風をも感じ取るのです。隣の半島や大陸に対して けっして 目をそらせていたわけではない。引っ込み思案であったのではない。こう捉えます。  この一事からしても 《敬遠》説は ことの半分をしか言い当てていないという感触を まづ 持つものです。率直な感想は まづ これなのです。  少し時間をください。考えてみます。  また お礼欄では 字数が足りないので もういちど 何でもよいですから ご回答を寄せておいていただけないでしょうか。  急ごしらえの状態です。あらかじめ そのための試行錯誤によるご不便などについて おわびを申し上げておきます。このような出で立ちですが よろしくお願い致します。

noname#117439
noname#117439
回答No.2

オコリザルです。 難しい話は付いていけないので世代間の変容の話です。 最近の若者は年配者の前でわざと乱暴な言葉を使うこともあります。 私もそれにならっていい年をして「バカ」又は「アホウ」を連発します。 この心情とは「私は若いゆえに至らない」と自覚した上での逆説的な謙譲です。 尊敬できる大人を見分けるための若者の処世術でもあります。 一見凶暴な暴言を吐く若者は、やりこめてくれる尊敬できる大人の見分け方を探しています。 ややこしいかもしれませんが、実践した経験から行くと、理解してもらえない場合でも自分だけは納得できます。更にウマの合わないお年寄りは、自動的に去っていきます。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  敬語について 起源をさぐるよりも いま どのように言葉一般を用いているか これを捉えるなら 敬語の扱い方もわかるのではないか。こういった探究の道であるように思いました。    ★ 尊敬できる大人を見分けるための若者の処世術  ☆ として  ★ 最近の若者は年配者の前でわざと乱暴な言葉を使うこともあります。  ★ この心情とは「私は若いゆえに至らない」と自覚した上での逆説的な謙譲です。  ☆ つまり 見栄を張らず 慣れない敬語などを飾りとして使ったりしない。そのことまでをも分かって欲しいからか かえって 乱暴な言葉を わざと使う。  ここからのわたしの理解は こうです。若い人びとで 敬語を使いこなせていない者の思っていることは 言葉使いに関しても ひとに対する尊敬の念を 表わしたい気持ちはある。ということ。  もしくは ぎゃくに 言葉使いにおいて それとして尊敬を表わす用法を使わなくても 実質的に 尊敬の気持ちを表わすことはできる。と思っているのではないか。    そうですね。わたしは 自分の見方に引き込もうとしてのように 《ていねい語》があればよいという方向を見てしまうのですが どうでしょう?

関連するQ&A

  • 敬語について

    書き手からみて主体も客体も身分が上の時の敬語の使い方を教えてください。 *→は動作です。 登場人物、、、 高位1 高位2 書き手 主体(高位1)→ 客体(高位2)の場合は、 書き手が、主体に尊敬語、客体に謙譲語を使うとわかったのですが、 主体(高位2)→ 客体(高位1)の場合は、 書き手から見てどちらも身分が高くて、どちらにも敬語が必要だと思うのですが、 客体に謙譲語、主体に尊敬語とすると身分が逆転してしまいます。 だけど、ここで主体に丁寧語ってのも変な気がするし、普通文にしたら変だし。。。 どう考えればいいのか教えて下さい。

  • ややこしい敬語

    いずれの方も同じ社内の人間で、仮に上下関係を「(上)Aさん>Bさん>Cさん>自分(下)」 だとします。 (1)(Aさんに対して)Cさんは2時に出かけると言っていました。 (2)(Bさんに対して)Aさんが来るように言っていました。 (3)(Bさんに対して)Cさんはあちらにいます。 これを正確な敬語で表現した場合どうなるでしょうか? いずれの場合も尊敬語を使うべきか、謙譲語を使うべきかで迷ってしまいます。 宜しくおねがいします。

  • 敬語法による表敬は 何を表わしているか?

     自然生成的な《うやまひ》を示そうとしたか。  それとも 社会の成り立ちにしたがって身分制の身分関係を示そうとしたか。  両方だという見解を仮説として持ちます。  それで 問いは しかしながら・またはしたがって 身分制に沿って上下関係を示そうとした敬語法は すたれる。のではないか?  これを その起源説と合わせて 問います。  §1 敬語の起源について     1. 《うやまひ》説:相手を互いに同等・対等な人間と見ることにおいて うやまふ。     (あ) その自由対等を確認する意味で たとえば《言う》を《言われる》とわざわざする。     (い) レル・ラレルは 自然生成の相を表わす。それゆえ 親愛称をつくる相でもある。     (う) 我レ・汝(な)レ・彼レのレである。我れ・ラ / 高ラ=宝(推測です) / 清(きよ)ラのラである。     (え)  それゆえ 言わレルというウヤマヒ表現は 互いの自由の確認を親しみを込めておこなおうとしている。   2. 《敬遠》説:相手は どこの馬の骨だか分からないといううたがいを持つところから出る。     (お)  ただし (1)のウヤマヒを欠かさない。ゆえに 敬して遠ざける。     (か)  あまりひとのふところ深くへは 踏み込まないでいようとする心つもりを表わそうとした。     (き)  付かず離れずの関係を保つためにウヤマヒつつ(自然な人間関係をよそおいつつ) それ以上は深入りしないでおこうという。   3. 《身分関係》説:社会に出来上がった上下関係をことばによる表現にも表わそうとする何らかのきっかけがあったと見る。     (く) 言いかえると 一代限りの栄誉がその人に与えられるというような場合を通り越えて すでに身分の世襲を前提としていると思われる。     (け)  《まなざしを 上からそそぐ側と下にいてそそがれる側との関係》を表わそうとした。     (こ)  そそがれる側つまり一般に命令を受ける側は そのささやかな地位を守るためにだけとしても その身分関係を損なうことは出来なくなる。これを 言葉による表現に表わすことを余儀なくされた。     (さ)  エライ人がものを《言う》場合は 《のり(告り=掟・法)たまふ→ のたまふ》となる。間違ったことは言わないという決め込みが出来上がっている。     (し)  あるいは 《おほせ(負ほせ=負はせ=背負わせる。課し命じる)‐ある→ おっしゃる》。     (す)  韓語の《マルスム(おことば)》を借用してこれを動詞にした。すなわち《まをす=まうす=申す》。     (せ)  申すは 必ずしも謙譲語ではなかった。荘重語と言われもする。   4. 《身分関係語》からの特殊な複雑な進展:尊敬語から二重尊敬語が現われたごとく。     (そ)  身分の高いひとは 自己尊敬の表現を用いるようになった。自敬表現。     (た)  それに合わせて 下の者は 自己を低める謙譲表現で答えた。     (ち)  これは 身分制社会の華であるか? あだ花であるか?   5. その後の展開やいかに?     (つ)  身分関係は・つまり一代限りの栄誉を別としてその世襲制は 人間とその社会にはふさわしくないと考えられるようになる。     (て)  よって 最初のウヤマヒ表現(1)を別として 《身分関係》表現としての敬語は すたれる。     (と)  身分関係の固定をこよなく愛する向きは 身分への表敬表現がすたれて行くことについて 近代以降の西洋的な発想や社会関係のあり方が影響していると見るようである。と推し測られる。       *  §2  例証をこころみます。  (な) ○ めし(召し・飯 ← 見し)    この《見し》という起源について考えます。  (に) ▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=《お治めになろうと》  ▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧になると》  ◆ (大野晋・古語辞典) ~~~~~~~~~  めし:《見る》の尊敬語  1.ご覧になる  2.お治めになる  3.お呼び寄せになる  4.結婚の相手となさる  5.お取り寄せになる  6.お取りあげになる  7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買うなどの意の尊敬語  8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (ぬ)  シは スルという動詞。メは ミの母音交替形。  見(め)スというのは 見ナサルというように 能動性をつけ加えているわけのようです。能動的・積極的な行動は 相手に敬意を表していると見なされたゆえなのでしょう。  (ね) つまり 〔辞典の〕(1)《ご覧になる》の意が現われます。  あらためて言えば 《見る》という動作について能動性あるいは主体性をわざわざ言い表わすことで 尊敬の意を添えています。  (の) 言葉そのものに 表敬の意味合いはないと言うべきでしょう。  (は) つぎに この(1)の《見ナサル》ゆえ そのものを《身近に寄せる》ということが起こります。  その捉え方によって (2)から(6)までの意味の発生があったと見られます。  (ひ) (7)は 《身近に寄せた》あとの動作について しかもそのものごとに直接に触れず遠回しに言うもののようです。  (ふ) 直接にその動作つまり《食べる》などなどとは言っていない。ほのめかして言うことによって尊敬の念が出ると考えたわけでしょう。  (へ) 別様の解釈をここで挟むなら 高貴な人は自分に仕える者を《呼び寄せ》 その者らに自分のそのような《飲む・食う・着る》などの動作を《見(め)す=見せる》と表わしている。  (ほ) 《ほのめかし》が 表敬になる:  ひとに対して 《誰々様》と言って敬意を表わすのは 《さま》つまり《そういう状態ないし雰囲気ないし情況》が見てとれますが おそらくその雰囲気の主はあなたさまであろうと思いますと言っている。《殿》は 場で言っている。   (ま) ここで 別の解釈をします。  シを 使役の意に採る場合です。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。  すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。このようにも 解釈できます。  ただし モノを取り寄せるという用例では 合いません。おそらく この使役の語法は 第二次の派生であろうとも考えられます。  (み) 高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづからの姿を見セル。召し使い(《召し=身近に寄せる》)は そばにまで行かなくては食事を運び得ません。高貴な人は 自分では着替えもしなかったようです。ゆえに 《めし(召し⇒飯)・召しあがる(食べる)・お召し物(衣服)》という意味が派生したようなのです。  (む) メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞であるこのシをとおして 第一次と第二次の用法が見られます。  第二次の用法は 《上下の身分関係》にもとづく尊敬語法となるでしょう。表面的でもあります。  (め) 第一次の用法は では 人びとの生活から ふつうに・自生的に 起こったか。言いかえると 《ていねいなウヤマヒ語法》であったか。  (も) レル・ラレルという敬語法を見てみるとよいはずです。古語では ル・ラル。これは 自然生成の相を表わすようです。  (や) 《出来る》という可能の相も――《出て来る》と言っているに過ぎないのですから―― 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとするものです。  (い=射) 能動性・積極性が 表敬の表現になることもあれば ぎゃくに自然生成性やむしろ受動性のほうが 表敬にふさわしいと考えられた側面もあるようです。  (ゆ) 自然生成かつ能力があるという相(レル・ラレル)を その動作を表わす語に添えて使えば 相手を敬うかたちになりました。  (え=江) 見ラレルや食ベラレルは あまり使わないようですが 第一次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいないでしょうか。この語法にかんしては 身分関係にかかわらず 人と人との互いのうやまいの気持ちをつうじておのづから発生したのではないだろうか?    (よ)結論:  自然に生成した第一次の《ウヤマヒ・ていねいな言葉遣い》としての敬語は ひとは《すすんで使っている》と考えられます。  社会的な身分関係から発生した尊敬語ならびに謙譲語は 起源から言って・奥の奥の意図から言って ひとは《使わされている》。  (ら) おまけ:その昔 太平洋の島々の人びとの間では いわゆる酋長と呼ばれた指導者は偉い人であるから ふつうの人が直(ぢか)に見ると 目がつぶれると言われていたし 信じられて(思いこまれて)いました。つまりこの風習と 《めし(見し)→召し》という言葉の発生とは 軌を一にしていると考えられます。  ふだんは 一般の人びとがえらい人を見ることは出来ないということです。  (り) このメシが 《飯》として使われるようになったのは――つまり柄のわるさがついてまわるというような語法に変化したのは―― その敬語法が 必ずしも自然でふつうのものではなく 社会力学上の第二次・人為的な発生であったことを物語るのではないであろうか。《貴様》という語法の変遷も同じような成り行きだったと思われます。

  • 「おっしゃっていただく」は正しい敬語でしょうか

    日本語を勉強中の中国人です。「おっしゃっていただければ」のように、「おっしゃる」という尊敬語表現と「いただく」という謙譲語表現を合体して使用するのは正しい敬語表現なのでしょうか。 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 敬語について教えてください。

    「私で構わなければ・・・」を敬語に直すと 「私でお差し支えなければ」になると教えていただいたのですが、 「私で宜しければ・・・」といった表現は間違えているのでしょうか? また、「お差支えなければ・・・」は尊敬語ですか?それとも謙譲語ですか? ご存知の方がいらっしゃいましたら 解答をお待ち申し上げております。 よろしくお願い致します。

  • マニュアル敬語について

    文化審議会が「正しい敬語」の目安となる指針案をまとめ,ファーストフード店などで店員がつかうマニュアル敬語について指摘しています。そこでは,尊敬語の「お~になる」は人を立てる敬語。「ご注文の品」に対し敬意を表すことになってしまうことから,「ご注文の品はおそろいになりましたでしょうか」は誤用であるとしています。 尊敬語は相手や話題に上っている人の動作や状態等を表現することによって相手への敬意を表すと理解していたので,相手の「注文がそろった状態」を表現しているので正しいのではないかと思ったのですがやはりダメなのでしょうか? そうなると,このような,「人が~する」という動作になじまない「そろう」「届く」などの動詞には「お(ご)~になる」という用法は当てはまらない場合が多いということになります。「お荷物はお届きになりましたでしょうか?」も同様ですよね?

  • 二方面への敬語

    敬語の本には、謙譲語に尊敬語をつけても尊敬の意味にならず、誤りだと書いてありました。 でも調べるうちに、古文の文法には二方面への敬語というものがあることを学びました。 例)たてまつりたまふ(謙譲語+尊敬語) ですが 「お差し上げになる」 「拝見なさった」 という表現を私はあまり耳にしません。 現代では、動作をする人と受ける人に同時に敬意を表すため、謙譲語+尊敬語を使うことは誤りなのでしょうか? 間違ったことを質問しているかもしれませんが、よろしくお願いします。

  • 敬語、上下関係について。

    敬語、上下関係について。 こんにちは。高校2年生男子です。僕は、「敬語」というのに疑問を持っています。何故、目上の人には「敬語」を使わなくてはいけないのでしょうか?確かに、年上の人は敬わなくてはいけないのは確かですが、何故「敬語」という言葉を使わなくてはならないのですか?敬語とは確かに、人を敬う時に使う言葉ですが、そこには必ず「壁」が存在します。上司部下の関係も、敬語をなくせば親近感が沸き、より仲を深める事により仕事が色々やりやすくなるかもしれません。年上の人を敬うのは大切ですが、自分の身分を低くしてまでまるで神を拝む様に接しなくてもいいじゃないかと思います。僕は敬語が大嫌いです。まるで自分が支配されているかの様に感じ、不愉快に思います。今日アルバイトの面接に行って来て、まず上司は部下に対し、お前と言ってきます。初対面で、言葉遣いに気をつけろって行ってくるくせに、その張本人が部下を名前で呼ばないのはどうかと思います。僕も実際に呼ばれ、実に不愉快でした。まるで、奴隷にされたかの様な気分です。僕はインターナショナルスクールに通っていて、そこでは上下関係は無く、先生達には普通にあだ名で呼び合ったり、ため口で喋ったり、イジったりイジられたりまるで友達の様な関係です。ですがいざ面接に行くと、社会では敬語を使えと言われます。何故、日本の会社の上司は『壁』を造ってまで自分を尊敬させたいのですか?アメリカでは上下関係は合っても、日本よりは厳しくありません。何故そこまでして上下関係にこだわるのか、不思議でたまりません。僕が先生に対してため口を使うのは、ただ友達と思っているだけではなく、心から尊敬できる大人だと思っているからです。僕は、こう思います。仕事上敬語を使うという事は、それは仕事のできる先輩として尊敬しているからです。優しく、皆を平等に見、心から尊敬できる大人ならまだいいでしょう。しかし、敬語に対する執着心が強い人は、ただ単純に敬われたい、『お前より高い地位にいるんだ、俺偉いだろ、神だ。尊敬しろ』と行ってるようにしか思えません。そういう人は、仕事ができる先輩としてはリスペクトはしているものの、人間としては、心からは尊敬できません。

  • 自分が尊敬してる人に敬語や丁寧語使いますか?

    年上年下関係なく、自分が尊敬できるなって思った人にタメ口で話しますか? それとも普段通り普通の人と同じように接しますか? 私は、年上年下関係なく自分に持ってない物や尊敬できる人には敬語や丁寧語を遣ってしまいます。 その行動が媚びてると捉えられる方もいらっしゃいますが、媚びてるように見えるんですかね? 回答宜しくお願いします。

  • 「やられる」は正しい敬語?

    最近、テレビなどに出演される方も含め、多くの方が「やられる」という表現を「do」の尊敬語として使っていらっしゃるのを耳にしますが、私はとても違和感を持ちます。 「なさる」という言葉があるのに「やられる」を敬語として使うのは正しいのでしょうか? (「される」はまだ許せる範囲かなと感じますが、「やられる」にはどうも馴染めません) また、この「やられる」が頻繁に使われるようになったのはいつ頃からなのでしょうか? 敬語に詳しい方、教えていただけませんか? よろしくお願いいたします。