- ベストアンサー
「考えるのは、言葉で考える」というのが分からない
私は今「言葉」に興味を持っています。 本を読んで勉強していますと、 「意識」や「考え」は「言葉によってできている」という説明によく出会います。 その説明が、どうも分からないのです。飛躍があるように感じられてしまうのです。あるいは「意識」「考え」が先で、後に言葉が出てきたとも考えられるのではと思ったりします。 例えば、「私はゴルフが上手くなりたい」という意識が、あって、「私はゴルフが上手くなりたい」という言葉が出てくるのではないかと思ったりします。 どなたか、この辺の所を分かりやすくお教えください。 あるいは、理解できるような本をご紹介ください。
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 >「意識」や「考え」は「言葉によってできている」という説明によく出会います。 そうですね、 これは何の根拠もない間違った認識だと思います。 意識の中で言葉を使うことを「言語思考」といいます。ですが、我々の脳内で「論理的な思考」と言いますのは必ずしも言語思考のことではありません。意識といいますのは感覚情報など、言語情報以外でもちゃんと発生しますし、我々の脳といいますのは別に言葉を使わなくとも見たもの感じたものを論理的にきちんと識別します。 そもそも、脳内で思考といいますのは神経伝達と選択的反応によって行われるものであり、そこでは言語がやり取りされているわけではありません。ただ、その対象情報や結果に対して言葉が宛がわれているというだけの話です。 脳内の情報処理といいますのは以下のような経路で行われます。 「知覚入力―中枢処理―結果出力」 知覚入力といいますのは主に感覚器官からの「外部情報」ですが、記憶想起や思考結果などとして知覚野・連合野に呼び出される「内部情報」も入力に含まれます。 中継中枢ではこのような入力情報に対して選択的反応を発生させるわけですが、反応の結果がそのまま出力されてしまうものは「無意識行動」であり、「本能行動」や「情動行動」がそれに当たります。「選択的反応」といいますのは、「一致しない入力情報に対しては反応を発生させない」ということです。 これに対しまして、感覚情報や記憶情報など、このような複数の情報を比較したり組み合わせたりする複雑な作業を「認知」といいます。これにより、入出力処理の結果は「自覚あるいは記憶の可能な状態」になるのですが、このためにはまず、脳内の覚醒状態が少なくとも「注意」に移行していなければなりません。つまり、対象を意識しなければならないということですね。 脳内にある程度の注意・緊張状態というものがありませんと、起きてはいても見えているわけではなく、聞いたつもりでも憶えていません。特に仕事や勉強をしているときでなければ我々の日常生活の60~70%はだいたいこのような「無意識行動」で済まされています。 日常生活の70%が無意識行動、そんなはずはない。 「私はゴルフが上手くなりたい」 こんな論理的な思考が無意識行動であるわけがない、と、思われるかも知れません。ですが、実はこれは上記で述べましたように何らかの入力・切っ掛けが基になり、多くの場合「脳内で不意に発生した反応結果」に対する「理由の後付け」なんです。 例えば、「お腹が空いた」といいますのは本能行動の判定による無条件反応です。では、「私はあのときお腹が空いたから台所へ行ったのだ」というのは、これは後から付けられた説明です。この説明が作られることにより、行動の結果は「自覚、及び記憶の可能な状態」になります。これが記憶に残りますので、あたかもそれは意識行動であったように思えてしまうのですが、実は、果たしてそのほとんどが「理由の後付け」なんです。 では、「私はゴルフが上手くなりたい」、このような反応は本能行動にはありませんから、こちらは「情動反応に基づく欲求」ということになります。テレビのゴルフ中継、あるいは昨日のプレーの筋肉痛など、何らかの入力に対して発生した情動反応の結果に対し、我々の大脳皮質が自覚・理由付けを行っています。 「言語思考」といいますのは「対象の表象化」でありますから、脳内にその対象が揃いませんとそれぞれに言葉を宛がうことはできません。で、最初に述べましたが、ここで「論理的な思考」といいますのは必ずしも言語思考のことを指すものではありません。 例えば「前後・上下」「因果」「大小」「同じ・違う」、このようなものは言語を用いなくとも中枢系の選択的反応によって機械的に識別することが可能です。そして、我々の脳内で「論理的な思考」といいますのは、それは必ずしも言語を使うことではなく、このようなルールを組み合わせることによって「矛盾のない結果を選択する」ということです。このため、例えそれが全くの無意識行動であったとしましても、我々の行動といいますのは自然と秩序が保たれます。 デパートのスポーツ用品売り場に手頃なゴルフ・バックが置いてあります。 「私は新しいゴルフ・バックが欲しい!」 これは、そのゴルフ・バックが目に付いたため、視覚入力を基に発生した「情動反応」です。ここで、まず脳内の思考では「私は」といいう主語はほとんど省略されます。 次に「新しいゴルフ・バックが欲しい!」、この文章の中で「新しいゴルフ・バック」という情報は今現在、目の前から入力されていますので、これも言語化する必要はありません。これにより、「私は、何々が」という文章が省略され、残るのは「欲しい!」だけです。 そして、この「欲しい!」といいますのは、これは入力情報ではなく判定結果です。それは情動反応であり、ゴルフ・バックという視覚入力に対して大脳辺縁系に発生した「心の叫び」であります。 「欲しい」と考えたわけではありません、「欲しいという結果」が出力されるのです。このように、ここでは一切の言語表象を行うことなく「私はそのゴルフ・バックが欲しい」という論理的な結果が整然と処理されています。 このようにして脳内に発生した「心の動き」がどのようにして理由付けされ、どのように自覚されてゆくのかというのは古典心理学でも長らく論議されてきたことです。そして、この自覚のプロセスを「情動の原因帰結」と言います。 大脳辺縁系に発生する情動反応といいますのは我々の「感情の源」です。ですが、ここでは取り敢えず「好き・嫌い/YES・NO」の単純な反応しか発生させることができません。では、これが我々の喜怒哀楽といった、与えられた状況に対応した多彩な感情として表出されるためには、このためにはどうしても「状況判断」というのが必要になります。 大脳辺縁系に発生した情動反応が「欲しい!」という欲求に発展するためには、「何が、どうして」という問題が解明されなければなりません。そこでまず、「私は今、デパートの売り場でゴルフ・バックを見ている」という状況判断が成されます。これは大脳辺縁系ではなく、大脳皮質の認知機能を使って行われることです。 そしてこれにより、 「私が今胸をときめかせているのは、そのゴルフ・バックが欲しいからだ」 という説明が可能になります。 このように、大脳辺縁系に発生した情動反応が大脳皮質の認知・状況判断によって特定の感情に分類され、自覚される過程のことを大脳皮質における「情動の原因帰結」と言います。 何故、言語思考による理由が必ず後付けになるのかはこれでお分かり頂けると思います。 大脳皮質は大脳辺縁系に発生した情動反応に対して原因帰結を行っているわけです。そしてこれにより、その情報は初めて「自覚・記憶の可能な状態」になります。 では、反応といいますのは発生するまで知覚することは絶対にできません。ですから、大脳皮質は大脳辺縁系に情動反応が発生するまではこれに対して認知作業を行うことはできないわけです。これがどういうことかと言いますと、つまり我々の脳内では大脳皮質の原因帰結よりも大脳辺縁系の情動反応の方が必ず先であるということです。そして、これが果たして我々の脳が自分の意志でもって情動の発生を阻止することのできない理由であります。
その他の回答 (6)
- tanq7
- ベストアンサー率0% (0/6)
類人猿は人間に似てますが 言葉が無いから これ以上進化はしないと思います。チンパンジーをいくら訓練しても 人間の 思考には届か無いでしょう ヘレンケラーも言葉を覚えたことで激変していきました。意識も感じることも 言葉があって より鮮明になものになると思います そして意識と言葉は同時だと思います というより 常に言葉があり 思考し 芸術・文化・科学など 進化していると思います。
お礼
tanq7さん、こんにちは。ご回答ありがとうございます。 ヘレンケラーは、モノにはみな名前がついていることを知り、そこから激変したというご説明で、そうか、人は言葉で考えているのかということを、身近な例から感じることができました。とても参考になりました。 ありがとうございました。感謝。
日常感覚で回答させてもらいます。 人間の脳には約140億個のニューロン(脳細胞)があるのですから、単純に「意識」「無意識」状態なのではなく、「ない交ぜの状態」にあるのが常ではないでしょうか。もしも無意識ならば、文字通り意識していないのですから、自分がどんな考えを持ったか他人に説明できないどころか、自覚すらないということでしょう。『なんだか胸騒ぎがする』と言えるのは、これすなわち意識出来ているということでしょう。ことばかたちにならない有象無象の思念や感情は、“恐怖”“喜び”“不安”などの言葉をあてがわれて類型化、標準化されて初めて自覚されるでしょう。この類型化、標準化がなされる前の混沌とした形では、犬に『あなたの今の心理状態は?』と尋ねた時の答えと同じで『……』ではないでしょうか。人間の脳は三層構造で、基本的には他の動物の脳と同じ構造も併せ持っています。いわゆる理性的な「考え」の中にも、好き嫌い(大脳辺縁系)で判断された部分が潜んでいます。 また、我々の認知というのは、既知の概念を援用して形作られるのです。「おまえの考えは狭い(浅い)」「私にとって彼女は身近な存在だ」等々、心理的な状態を表すのに物理的な概念(狭い、浅い、近い等)を援用することで表現、知覚することはよくあります。というより、このような援用でしか認知していないでしょう。いわゆるメタファーです。先述の「潜む」もそうですね。温かい心、深い友情、孤高の人、繊細な感覚、甘い考え…。砂糖の甘さと考えの甘さ、同じ「甘い」という言葉をあてがうのは偶然ではないでしょう。 言葉になる前の段階の「思念」は、言葉として紡ぎだして初めて「意識」や「考え」になるのでしょう(この辺は「意識」「考え」とは何かという定義の問題でもあるでしょうがね)。形ある「言葉」として紡ぎだされた「考え」は「記憶」というデータと照合可能となります。混沌とした思念が「恐怖」「喜び」「不安」といった類型化、標準化の処理がなされた後の形になって初めてデータとの照合が可能となり、その後の左脳思考の俎上に乗ります。上手く言葉に置換(翻訳)できたかどうかは右脳が検証してフィードバックしてくれます。 僕は思うのです。もしもこの世の中を本当の意味での“ありのまま”に捉えることができたとしたら、「何の変化も起こっていない」ように感じるのではないか(つまり、特段の感想を持たないのではないか)と…。この世の中を頭に収めるのは、3次元の世界を2次元の絵画に描くのと同様に何らかの変換が絶対に必要です。“ありのまま”=“まったく変換なし”にこの世の中の事象を頭に収めることなど不可能です。ある種の簡略化、省略、類型化、標準化、色付けをしているはずです。 「無意識」という概念が発明されたのはつい最近です。歩くのに「右足はこう出して、左膝をこう曲げて…」などとはいちいち考えません。ほとんどの日常生活が殊更に考えなくても自動的に行えるようになっています。着替える時のボタンをはめる指の使い方も、車の運転も、私たちは大部分を無意識にやってのけます。そうでなくっちゃ疲れます。無意識の存在を直接意識することは出来ないでしょうが、このように無意識の存在を類推することは可能でしょう。 脳の作用を「考え」と呼ぶならば、意識化される前にも「考え」は存在するでしょうが、それは動物のそれと同様に「反応」と呼んでも差し支えないか、あるいは「感覚」と呼ぶのがふさわしいのではないかと…そういう意味でここでは「考え」という言葉が定義されているのでしょう。 「意識」とは何か?たぶんそれは「何か」を「外から眺めているような感覚」ではないでしょうか。「対象化されていること」が「意識」の必要条件のような気がします。私たちの「こころ」そのもの自体ではなく、言葉や理論として、対象化しうる何かに変換されたものでなければ「意識」とはなり得ないのではないかという気がします。
お礼
gadgetdesuさん、おはようございます。真剣に、そして、深く考えてくださったご回答、感謝します。ありがとうございます。 お教えいただきましたこと、とても、ためになり、思考のモヤモヤの段階が、晴れてきました。 それは 「ことば、かたちにならない有象無象の思念や感情は、“恐怖”“喜び”“不安”などの言葉をあてがわれて類型化、標準化されて初めて自覚されるでしょう。この類型化、標準化がなされる前の混沌とした形では、犬に『あなたの今の心理状態は?』と尋ねた時の答えと同じで『……』ではないでしょうか」というご説明で、ソウカ!とガッテンしました。 言葉は、類型化・標準化した、メタファな後付ということと理解しました。 人がものを考えるのに、始めは、イメージがあり、それをより高度化していく材料して言葉や数字があるのかなと理解しました。 どこかでの本で読んだのですが、、ある有名な物理学者が、脳の言語野に障害をもってから、高度なことが考えられなくなったと。 そうしますと、私の最初の疑問・・・・・ 「意識」や「考え」は「言葉によってできている」という説明によく出会います。 その説明が、どうも分からないのです。飛躍があるように感じられてしまうのです。あるいは「意識」「考え」が先で、後に言葉が出てきたとも考えられるのではと思ったりします。・・・・・ に立ち返りますと、混沌とした意識や考えというか、思いは、自然に出てくる。ちょうど、赤ちゃんが、大きくなるときに、外界に対して混沌の中にあり、「あれ何?」と聞くように、そして、言葉を覚え、そして、成長と共に、より高度なイメージを、言葉や数字で積み上げていくということかな と理解しました。 今の私の理解の段階です。 とても、ためになるご回答ありがとうございました。
>「意識」や「考え」は「言葉によってできている」 ○ 「意識」というものを頭の中で具体的にイメージできますか? 私には不可能です。 「考え」というものもイメージとして思い浮かべるのはなかなか難しいと思います。 「意識」という人間が発明した言葉が人間の意識をはっきり具体的にイメージさせてくれるから「意識」というものについて人間は考えることが出来るのです。たとえば、貴方が 「意識」と「考え」とはどう違うのだろうか?と考えるとき、「意識」という言葉と「考え」という言葉があるからこそこの思考作業が可能になるのです。具体的には、まず辞書を開くということになるでしょう。 数学の計算には数字がなければ不可能です。同じように、抽象的な思考は言葉がなければ不可能です。 より複雑な思考は文章を書き、またその文章を読み返すことによってより深く複雑な思考が可能になります。言葉の連なり、文章が数学における複雑な方程式のような役割をするということでしょう。 頭の中には具体的な物体のイメージとその名前がしっかり整理されて入っています。その関係に気づく有名な「ヘレンケラー」の伝記の一部分があります。感動的な場面です。
お礼
amazo007さん、おはようございます。さっそく、ご回答くださり、感謝します。 ありがとうございます。 とてもよく理解できます。ナルホドと思いました。 「意識」、「考え」は「言葉」によってできているということが、ご説明でしっかり理解できました。 「数学の計算には数字がなければ不可能です。同じように、抽象的な思考は言葉がなければ不可能です」 のこのご説明で、ナルホドガッテンでした。 ですから、「イメージで理解できる範囲」と、もう少し複雑になる事柄は「言葉」「数字」などが必要であると解釈しました。 まことに、ありがとうございました。感謝です。
- ruehas
- ベストアンサー率68% (816/1194)
こんにちは。 #3です。回答をお読み頂きありがとうございます。 私は催眠術には知識がなく、全くの素人なのですが、それがTVなどでやる手品でない場合は、恐らく「人間の心理を誘導する技術」ということになるのではないかと思います。 ざっと調べましたら、催眠状態といいますのは「意識の範囲が狭まった状態」ということだそうです。意識の明度が下がった場合は頭の中が朦朧としてしまうのですが、範囲が狭まれた場合は判断の選択肢が抑えられるため、それで通常の判断力が発揮されなくなるということではないかと思います。 では、どうやったら人間の心理を思い通りに操ることができるのでしょうか。 本能行動や情動行動といいますのは「無意識行動」です。この無意識な欲求を抑制できるのが唯一「理性行動(計画行動)」であります。ですから、何らかの方法で意識の及ぶ範囲を狭めてしまいますれば、これで理性によって抑えられている無意識行動の領域を表に引き出すことができるということになるはずです。 本能行動の基準といいますのは「全人類に共通」です。結果が共通なのですから、これならば多くの人の心理を誘導するのはそれほど難しいことではありません。 TV・CMで幾らでもやっています。 「このパンは世界一美味しいです!」 世界一美味しいパンが嫌いなひとはいませんから、これでたくさんのお客さんを呼ぶことができます。 ですが、「世界一」なんて言葉にそう簡単に踊らされるわけにもゆきません。美味しいものを食べたいというのは全人類に共通ですが、あれこれと余計な憶測を持たれてしまいますと、ひとの心は十人十色です。このため、なるべく意識の働きを低下させます。 レストランの店先に美味しそうな料理のディスプレーを展示します。誰もが食べたいと思いますが、 「これから仕事だ」 「これから学校だ」 「給料がピンチだから昼はコンビニで我慢しよう」 このようなものはみなその場の反応ではなく、結果を予測して選択される計画行動です。 では、このようなことに一切の意識を働かせないようにしてしまいますならば、本能行動が満腹という判定を下していない限り、お客さんは九分九厘レストランに入ってしまいます。これは、本能・情動に従った無意識行動であり、空腹の動物が餌を我慢できないのと全く同じことです。 意識の範囲を狭める方法には二種類あると思います。 まず、「安心をさせて他のことに注意力を低下させる」 それから、「不安を与えてひとつのことに集中させる」 これによって人間の意識は「偏った状態」になります。 どうして五円玉を使うのか、これは穴が空いていて糸が結びやすいからです(何のこっちゃ)。 失礼しました。 安心をさせるためにはリラックスしてもらわなければなりません。 催眠術師が穏やかな口調で語り掛けるのはそのためなんでしょうね。この安心はやがて脳内に「報酬・幸福感」をもたらします。そして、この報酬反応に従って選択されるのは「情動行動(報酬行動)」です。大脳辺縁系の反応は運動神経系に直接出力されますので、これによって無意識に身体を揺するという行動が選択されます。 以上、催眠術に関する私の説明は素人考えですので、飽くまで参考程度にお願いします。 前回答では「まず、心の動き(情動)ありき、言語説明は後付け」と申し上げました。で、今回のご質問で最も重要なことは、この催眠術では言語入力に対して「心の動き(報酬反応)」が発生しているということです。脳内では「言語認知」の方が先ですね。それほど難しいことではありませんので、こちらに就きましても簡単に整理をしておきます。 大脳辺縁系の情動反応といいますのは「条件反応」であり、これは学習結果に基づいて下される判定です。ここには身体内外のありとあらゆる知覚情報が入力されています。ですから、過去に美味い・不味い、嬉しい・不快といった体験があるならば、大脳皮質の学習記憶とは別に、それが大脳辺縁系では「情動(判定)記憶」として学習・蓄積されています。 では、ここには聴覚情報も入力されているわけですから、過去に「バカ!」と言われて不愉快に思った体験があれば言葉の意味を反芻しなくとも反応は即座に発生します。ですが、例えば「頭は確かですか」といった言い回しになりますと、この場合は大脳皮質が言葉の意味というのをちゃんと認知・分類しなければなりません。このため、言語認知は情動反応よりも先になります。大脳辺縁系は大脳皮質の認知結果に対して「ムカッ!」という反応を発生させるわけです。ですから、我々が小説などを読んで感動するためには、どうしてもその前に適切な言語認知は行われなければならないわけです。 ですが、大脳皮質では言葉の意味を理解しただけであり、大脳辺縁系に「ムカッ!」が発生しなければ原因帰結を行うことはできません。そして、この言語認知の結果に対して大脳辺縁系が情動判定を下すならば、そこで初めて「私は今、バカにされたからムカッときた」という説明が成立します。 さて、目の前に五円玉をぶら下げて「あなたの身体はだんだん揺れてくる~」。 「バカ」というのに不快情動を発生させるひとは幾らでもいます。ですが、果たして「身体が揺れてくる」という言葉に対して反射行動が条件付けされているひとはいるでしょうか、ちょっと考えられませんよね。ならばこの場合、少なくとも「身体がゆれてくる」という言葉を理解するだけの意識は何処かで働いていなければならないはずです。 そして、この状態でもまだ「身体が揺れる」という意味理解に対して大脳辺縁系が報酬反応を発生させることはできません。何故ならば、その動機として働いているのは身体を揺らすことではなく、今自分に与えられている「安心感」であるからです。ですから、ここではやはり何らかの形で催眠術師の言う通りにすれば安心が維持されるという状況に追い込まれなければ暗示に掛からないのだろうと思います。 何分にも催眠術は実際に見たこともありませんので、やや頼りない説明で申し訳ないのですが、私の考えとしましては、その催眠術は恐らく「報酬に対する暗示」であり、そしてそれは大脳辺縁系の「心の動き」を誘導し、無意識の領域を表に引き出す手段としては十分に可能なことなのではないかと思います。
お礼
ruehasさん、おはようございます。さっそく、ご親切に丁寧なご回答をいただき、感謝申し上げます。ありがとうございます。 私の知りたいと思っている所が、とても分かりやすく説明してあります。よく研究されておられますね。 そうです、今度は「言葉が先」という前提でした。催眠は「言葉で暗示」を与えていって、その人の行動を操作するのでしょう。その時の脳のシステム的な動きを知りたかったのですが、ご説明でよく分かりました。私なりに理解しましたことを、書きます。 「言葉が発しられ」⇒それを聞くときの「大脳辺縁系」の反応がポイント。例えば、その言葉によって、心の安心、心の喜びに結びつく場合は、そこから、大脳辺縁系の反応は運動神経系に直接出力されるので、無意識に行動に結びつくことになる。 よく、その人の口ぐせが、その人の行動を決めるとと言われます。「私はダメだ」と言えば、それに対して「大脳辺縁系」が反応して、イヤな気分になり、行動も消極的になっていくのかなぁというように判断しました。 大脳辺縁系って、すごい力を持っているなぁと思えてきました。 いつも、かゆいところに手が届くように分かりやすいご説明、感謝します。
この世界は、脳と自然の心が対立しています。だから脳が思考してる時は、人と自然の交流を、脳が遮断するので、心がストレスになります。脳が休むと、人と自然の情緒とが交流するので、心が癒されます。だから人の心の中も、脳の自我意識と、自然の無我意識と対立しています。超古代のアトランチス文明の頃いた神人は、無我意識が強かったので、自然の心とテレパシーで交流していたので、言葉は不要でした。現代人は自我意識が強いので、テレパシーがありません。というか脳の影響が強いので、脳の分身である言葉で考えています。だから世界は脳の分身の言葉、コピーのパソコン、脳の意識の人工的建造物で溢れ、自然に対して脳が領土を拡大しています。しかし老子や釈迦は脳を否定し、無知や無我になると、人は救われると教えています。だから脳の影響を避けるためには、言葉で考えたり話たりする事を少なくする事です。昔の日本人は、以心伝心とか、行間を読むとか、しぐさで分かるとかいいました。また前頭葉の言葉で考えたり覚えたりするのを止めて、後頭部のイメージで考えたり覚えたりする事です。天才はイメージで考えてます
お礼
eyasi2012さん、おはようございます。早速のご回答、ありがとうございます。感謝します。 ご説明を読んで考えたことがあります。 「イメージ」が先ずあって、そのイメージを説明するために、「言葉」が出てきたのかなぁということです。 とても、参考になりました。ありがとうございました。
- gadovoa
- ベストアンサー率28% (835/2909)
あなたが混同しているのは「直感」と「意識」の区別です。 あなたが言っているのは「直感」「感じる」「feel」「inspiration」の類です。 「私は絵が上手くなりたい」と考える前に人は良い絵を見て「感じます」絵を見たとき大体であれば「わぉー」「すごい」「おお!」と直感で驚き感じます。その驚きは「感じ方」ですね。「意識」「考え」ではありません。 それから感銘を受けた作品に対して言葉で考えます。もし描きたいと思ったなら「上手くなりたい」と。欲しいと思ったら「欲しい」と。 だから「意識」や「考え」は「言葉によってできている」ということです。 思考の手助けになれば幸いです。
お礼
gadovoaさん、おはようございます。早速のご回答、ありがとうございます。 感謝します。 ご説明で、「直観」というのが、多分、脳の大脳辺縁系の働きではと思いました。 そして、この絵のどこが素晴らしいのか、どんな思いであるか、言葉で説明するのが「意識」「考え」で、これが大脳新皮質で行われるのかなと理解しました。 とても、思考の手助けになりました。 ありがとうございました。
お礼
ruehasさん、おはようございます。ご回答、さっそくいただきまして、ありがとうございます。感謝します。 とてもよく分かりました。いままでのわだかまりが、スカットしました。 {言葉は後付である}というわけがスカットしました。 先ず、大脳辺縁系の感情脳と言いますか、喜怒哀楽脳に、外界からのものを知覚・感覚を通して、情報が飛び込んでくる。これは言葉はいらい。「ゴルフが上手くなりたい」の「上手くなりたい」という感情が起こる。そして、次に、大脳皮質が「ゴルフをしている自分」を認知・判断して、それを「言語化する」という流れと理解すれば良いのでしょうか。 言葉は、後でつけたものであるというのが理解できました。 いつも、とても理解しやすく教えていただきありがとうございます。 今ひとつ教えいただきたい事があります。 私、30年ほど前に、催眠療法のレッスンを受け、その時の最初のレッスンが五円玉をつるした紐を手に持って、目の前に置き、「動く」「動く」と何回も「言葉」を発すると、自然と動き出すのです。いわゆる「言葉」が脳を操作して、動く行動につなげるというシステムではないかと思うのですが、これは、脳の中で、どのようなことが起こっているのでしょうか。よろしくお願いします。