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文学は何の為に存在するのか? 文学の存在意義・定義・役割

euchroniaの回答

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  • euchronia
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回答No.2

1. フーバービルまで辿り着けなかった私が言うのもなんですが。 情景描写対象に何を選ぶかに関しては、作家のこだわりというものがあります。 これは私見なのですが、作家が何かをしつこいぐらい描写するとき、その描写対象を深く愛している場合が多い。きっと「俺の中のこれを文章で再現したいんだよ!」と必死で頑張っているので、温かく読み飛ばしてあげてください。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』なんか、なぜか無駄に猫描写がありますし。もちろん、単に小道具みたいな感じで、より物語を現実らしく見せるためだけに書かれる描写もありますが。 言いたいことを物語に仮託する作家の中には、自分のことを直接言うのが気恥ずかしいと思っている方々がいます。照れ屋さんなんです。そういう方々は、物語の中の「私」とか「彼」に自分の意見を言わせるんですよ。物語だと「神を信じる」「神を信じない」というような矛盾した考えが同じ人間に生じたときにも、別々のキャラクターに言わせることができます。そうすれば無神論者だとかつっこまれても言い訳が可能です。 言論弾圧されている場合もしかりです。太宰とかあれな作風なのでナルシストとかいろいろ言われますが、戦時中に戦争礼讃の文学なんて一行も書きませんでした。 何を言いたいか、ということよりも、物語を通して、読者にある世界を追体験させたいと思っている作家達がいます。 ミヒャエル・エンデは読者にこう問いかけます。 「小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?」 安部公房はインタビューでこう答えます。 「日本の国語教育というのは、文章があれば必ず「右の文章の大意を述べよ」とくる。文学作品というのは、大意が述べられるという前提、思いこみ。ぼくの作品も教科書に載っているんですが、「大意を述べよ」といわれたら、ぼくだって答えられない。 ひと言で大意が述べられるなら、小説書かないですよ。 小説というのは、まだ意味に到達していないある種の原型を、作者が提供し、読者はそれを体験する。際限なく読み尽くせるでしょう。無限の情報ですよ、現実は」 二人ともカフカに強い影響を受けているのは、興味深いですね。 2. まあ、役に立たないと言えば、立たない。単なる趣味です。でも古典を読むようになって、ときどき身につまされることがあります。それは、今私達が何気なく日常的に使っている言葉でも、昔の作家が発明したり、頑張って翻訳した言葉だったりする、ということ。 例えば、「猟奇」は「curious hunting」を、佐藤春夫が訳したものです。 3.4. 実学のほうが、確かに万人に受けいれられる「価値あるもの」かもしれません。でも、どうでもいいようなものに慰められることってありません? 道端に咲いている雑草とか、つまらない冗談とか。 文学って、そんなどうでもいいものに似ていて、誰にでも届くものじゃないと思っています。メッセージボトルなんですよ。同じように思っている人間には届くけど、届かない人間もいる、みたいな感じ。要するに合わない人にはとことん合わない。川端がだめな人もいるし、太宰がだめな人もいる。 私が大好きな作家に開高健という方がいて、なぜ書くかと聞かれたときに、「助けてくれのひとこと」だと言っています。また、どんなに絶望的なことを書いていても、字でものを書いている限り、作家はヒューマニストなんだ、とも。 信じられないかもしれないけど、世の中に絶望しきっていて、書かないと死ぬってタイプの人間は確実に存在します。 愛する妻の死後に広島で被爆した原民喜、アウシュヴィッツから生還したプリーモ・レヴィ…… 二人とも最期は自殺してしまったけれど、本当に物語を書いていてくれて良かった、と私は思います。 こんな風に必死に文章を書くことで、精神的危機を乗り越えている作家が特に多いのは、文学、今では純文学と呼ばれている分野なんですね。なぜって、絶望的なことだけを書いてもエンターテインメントにはなりにくいから。だからサブカルチャーを楽しむことが多い私は、純文学の偉そうな雰囲気を腹立たしく思いつつも、存続してほしいと思っています。 思うところを書いていたら、長文・乱文になってしまいました。読みにくかったらすみません。

booter
質問者

お礼

> サブカルチャーを楽しむことが多い私は、 ! 純文学はサブカルなんですか! てっきり文化としては細々とはやっているがメインの方かと思っておりましたが・・・。 >純文学の偉そうな雰囲気を腹立たしく思いつつも、存続してほしいと思っています。 同感です。社会において何故あの地位を確立できているのかがちょっと分かりません。 自分なりに考えたのですが、音楽業界に例えると上手く説明できそうな気がします。 音楽にもクラシック、オペラからアイドル歌謡まで様々なジャンルが有り、 これらがそれぞれ純文学、大衆文学に相当するのかと思います。 しかし、音楽はクラシカルなジャンルと大衆音楽は完全に分離されており、 秋元康さんとつんくさんなんかはクラシカルではないと容易に判断できますが、 個人的にパッと見ると、一般人には文学というのは普段接する事が無い為、 秘密のベールに隠れていて神秘的なイメージを覚えて、皆すごいのだな、と 思い込んでしまう。 私がそうした中で現代の文学作品をいざ読んで見ると、 『オナニーしてセックスした。相手が死んだ。』 『出会った踊り子にドギマギ』 『没落華族が遊ばれて子供ができてしまった』 『ホモにキスされて学校中退して死んだ』 などと書いており、何の意味があるんだこれは、となった訳です。 全く共感できないし、読み物として面白くないし、為にもならない、テーマの核心にも迫らない。 流行歌を書いているだけなんじゃないかと。 もしかして読む本に関しては立て続けに貧乏クジを引いたのかもしれませんが・・・。 読書量が足りない時点でこんな事を断言するのもマズいかもしれませんが、ここら辺が現代純文学を読み止める為の引き返し地点なのかな、と。感動を与える、人間の原点をえぐり込む、という部分においては現代純文学の有用性が無いように思えます。 その他、良質な教養と娯楽の集約として山岡荘八や塩野七生、教養として渡部昇一、世界情勢を知る事のできるノンフィクションとして佐藤優、完全なエンターテイメントとして舞城王太郎、森見登美彦などがあるでしょうが、これらは純文学に入れられないでしょう。 後は落語や古典が洗練されているのでそちらの方面に読み進めようかと思っています。

booter
質問者

補足

回答ありがとうございます。 無用な描写にこだわりがある、というのは理解できました。 私は読むものの立場を尊重した形で文学作品が作成されると思っていたのですが、芸術という観点から見た場合、文学における作家の人間臭さを表現する為の作者の自己主張の余地が残されているという事ですね。作品の自己主張と公共性のどちらに軸足を置くかという点で、自己主張寄りの作家達に対する許容といったものが文芸を読む方達に許容されているように思えます。 それが新しい方向性を与えんが為に、公に理解されなくとも作者がチャレンジした結果であれば良いのですが、今の文学にはそれが無いように思えます。 キャラクターに複数の主張を持たせるという点についてはOKです。 ただ、安部公房の主張を読んでしまうと、それでは文学というものは必要ないのでは、という感覚が拭えません。 無限の情報も体系的に整理し、そこにテーマを見出す事により、文章に意味のある生命が生まれる。 生命に置き換えて言えば、テーマというコアがなければそこにあるのはただの蛋白質だけであり、生命としてなり得ず、ドラマが生まれない。 大意=主張=テーマとするなら、一貫したテーマ(大意)がなければ文学としてある意味が無いように思えます。 これは最近の作家全般に言えるように思えます。 カフカは未読なので、読んでみます。 > 実学のほうが、確かに万人に受けいれられる「価値あるもの」かもしれません。でも、どうでもいいようなものに慰められることってありません? 道端に咲いている雑草とか、つまらない冗談とか。 あります。それこそが人間である証です。このテーマの極大点は、最終的には魂の救済という部分につながるかと思います。 では現代にそうした人に感銘を与えうる文学はあるのか、と言った所で個人的に疑問を憶えているのです。 現代での賞を受けている有名な文学作品とされるものについて、そうした人の琴線に触れるものがあるのかと疑問に思うのです。 ただ、私が求めうるもの、慰めてくれるものが、繰り返しも含みますが、テーマという球体の中心に不恰好ながらも切り込んでいって、世界の真実の回答を求めうる作品なのですね。セネカの「人生の短さについて」等は直球で良いと思います。しかし、表現は悪いですがテーマという球体に羽箒でさらりとなぞるような、格好が良くて誰も傷つかないという行為に癒される方がいるのかもしれません。 無論、文学自体の革新や改革を目指した結果で今現在はこうした体系になったのでしょうが、純粋に文章を読む形でみると、テーマが無い文章に意味があるのかと。 しかし、美術に心が癒されるような形で文学にもその役割がある、と解しました。 > 川端がだめな人もいるし、太宰がだめな人もいる。 ここで私個人の意見になるのですが、私にとっては川端は×でございました。太宰はもう少し読み込んでみようかと思います。他は森鴎外○、谷崎潤一郎○、武者小路実篤○です(著作全て読んだ訳ではありませんが・・・)。が、邦楽で言うと平松エリ「部屋とYシャツと私」やGreeeeeN「愛唄」を聴いているような薄っぺらでテーマが見えて来ないものがあるのも事実です。もっと三輪明弘「ヨイトマケの唄」のように魂をえぐり込めよと。 トルストイはNG。人生論では「人生とは○○である~」の○○に文字を羅列しているだけとの指摘に読むのを止めました。 面白文体の舞城王太郎、森見登美彦はOK(ここは文学と呼んでいいのか微妙ですが)。 山岡荘八、塩野七生、童門冬二は好きです。人物史、歴史を物語にする事には有用性があるし読み物として面白い。 ヘッセはあってもなくても良いが、よく分からず。 私の魂を救済してくれたのはゲーテと福澤諭吉だけです。 ここで、文学の意義・定義を私なりにちょっとまとめますと 文学の意義・役割 ┣(1)思想・哲学性 ┣(2)感動性(魂の救済として価値があるもの) ┣(3)情報性(未知の情報の社会への展開・摂取) ┃ ┣社会事実の公開 ┃ ┣新しい言葉の造成 ┃ ┃・・・ ┃ ┗その他 ┣(4)芸術性 ┣(5)娯楽性 ┗(6)その他 という形になるでしょうか。 現代における純文学作品の大半、9割以上からは魂の救済が得られない、芸術性、感動性、テーマの存在が認められないというのが私の結論です。 回答で記載頂いた、開高健、原民喜、プリーモ・レヴィは私は未読ですが、回答を読ませて頂いた限りですと、魂の文学に近いものがあるので、これはそれなりにテーマを含んだものなのだと思います。 メッセージ性、テーマ性を含んだものは文学として有用なのだと私は思っているのですが、シェイクスピアなどは個人的に話しのタネとする以外には有用性を憶えないのです。

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