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けんかをしては 何故 いけないのか

noname#81313の回答

noname#81313
noname#81313
回答No.36

 巣を見つけました。そういうことですか。  僕のこころは、どうやら身体には従順でないようです。ルールに全てを委ねる身体の振る舞いとは、どうも様子が違っています。病める身体、老いる身体、けれど、こころはそこに居着きません。暗い淀みに沈んでゆき静かに横たわろうとする身体に、まるで別れを告げるかのように、こころは階段を上り続けています。  きっと僕は、不健康なのでしょう。  健全なる精神は健全なる肉体に宿ると言いますから、健全に朽ちて行く肉体に、ちっとも居着こうとしない(そればかりか、居着くのを病と称して逆らっている)こころは、不健全としか言えません。だから僕は、こころを信用しないことにしました。きっと、こころにはこころの都合で、何か思うところがあるのでしょう。  僕は、身体に従います。そしていつも、反省するのです。  その立ち位置を失えば、僕は僕を見つけることができません。どこでもない世界のまん中から、僕はこころに向かって叫び続けます。声ではないその叫び声だけが、荒ぶる獣のようなこころを眠らせることができる。僕は、レヴィナスにそう教えてもらいました。    それと、これは根本的な事なので書いておきます。  教父の言葉を乱用してはなりません。「しかし知ることなしに だれがあなたを呼びもとめることができましょう」とお感じになるのは無用のことです。僕らはそれが「よくわからない」ルールだからこそ身を任せるのです。よくわかっているようなルールに身を任すのは、愚か者のすることです。ですから、二重の意味で愚かな引用だと思えます。  ひとつは、よくわからない相手には身を任せられないという宗教に対する無知、ばかりでなく「信じる」という言明すら、その意味が危ぶまれる愚かさ、そしてふたつめは、相手をわかり得るものだとする誤解からくる愚かさでしょう。ルールは決してわからない。わからないからこそ、身を委ね、そして信じるのです。わかっているようなルールに身を委ね、わかっているようなものを敢えて信じるような人は、おそらく注意力の欠如か、もしくは「知る」という言葉の意味を知らない文字通りの愚かな者となるでしょう。  わからないものに跪くということの意味を知っていれば、  「ちなみに つまりは 宗教は この信仰観もしくは信仰の目に映ったものとして捉えたところの世界観を わざわざ 人間の言葉にして やはり仮りに表現したその内容を ひとにおしえるためのものです。組織集団をつくり 教義としてしまえば 逆に ひととその信仰の自由を 束縛する恐れが出て来ます。一般に 信仰の宗教化は 信仰にとって自殺行為だと考えます。」  という、宗教とか信仰とか、よくわからない言葉を並べる必要もない話です。

bragelonne
質問者

補足

 passcardさん ご回答をありがとうございます。  まづ 触れやすいと思われる二点です。なるほど   ★ 荒ぶる獣のようなこころ  ☆ について 少しは 分かったような気がします。(というふうな言い回しにしたということは けっきょく 分かっていないことのようです)。  そしてもう一点は  ★ 僕は、身体に従います。  ☆ であるならば そこに こころは いわば降りて行って 見守っていると わたしには 思えるのですが? たとえ 居着いていないとしてもです。  これらや 肉つまりは 身体および精神 についてのことがらは――触れやすいと言ったにもかかわらず―― わたしが 軽々に 何かを言うことが差し控えられます。ピンと来れば それなりに のちにでも 考えを述べることにします。  あと 信仰の問題で 特には 争点があるとも思えません。  《宗教》については それと 個人の信仰との違いをめぐって それなりに 論点があるとは考えます。ただし これもそれも 具体的に 論議の場が 形成されたときにです。そのときには きちんと おそらくは その前提領域について 明らかにすることが望まれますし そうすれば よいのではないでしょうか。  それと言うのも わたしの考えでは――わたしの抱く信仰にのっとれば―― 社会生活において 議論一般にかんして けっきょく キリストのキの字も言わずに おのれの信仰やそれにもとづく思想を述べればよい こう考えるからです。逆に言うと それが むつかしい場合 あるいは おのれの表現力が乏しくて 先達の観想成果をあおぐという場合 には やむを得ずそうするという考えです。  あと 具体的な議論です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それと、これは根本的な事なので書いておきます。  教父の言葉を乱用してはなりません。「しかし知ることなしに だれがあなたを呼びもとめることができましょう」とお感じになるのは無用のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは たしかに 《根本的なこと》だと わたしも 思います。  ですが 争点になっているとは 考えません。なぜなら  ○ 神を知る というのは 神に知られる ことである。  からです。みづからのはからいによって――いくら 信じるだの 受け容れるだの 人間の自由な意志行為を言っていても その能力や意志や努力によって―― 神を知るのではなく 神への信仰を得るのでもなく そうではなく 神に知られる〔時点がある〕のであり 向こうから 信仰は やって来て 与えられるものだと考えるからです。  言うなれば 人間の言葉による表現が あくまで 仮りのものであるということ ではないでしょうか。特に 神にかんしては その代理表現を使って 指し示そうとするかのように 仮想・仮構・虚構あるいは物語において 一人ひとりが その主観の内面を表わしたいとき 語っているに過ぎないと考えられるからです。  ★ ルール  ☆ この言葉も じっさいには 仮りの表現です。むしろ なぞのことです。と言うと この《なぞ》という言葉も 仮りのものなのですから 永遠に 堂々めぐりになります。確かに  ▲ 文字は殺し 霊は生かす。(コリント後書3:6)  ☆ だと思いますが どうでしょう。  これは 丸くおさめようとするのではなく あるいは 問題をあやふやにするためのものでもなく そういうものである。こう考えています。どうでしょう。  * 直前のお応えに添えるべきでしたアウグスティヌスの文章を ここに掲げます。  ▲ (アウグスティヌス:告白1・1)~~~~~~~~~~~~~   《たかぶる者をしりぞけたまう》。(cf.箴言3・34)  主よ どうか私に 知らしめたまえ。あなたを呼び求めることと讃えることと いづれが先であるかを。  あなたを知ることと呼びもとめることと いづれが先であるかを。  しかし知ることなしに だれがあなたを呼びもとめることができましょう。知らないならば別の者をそれと思って呼びもとめるかも知れません。  それともあなたは まさに知られるためにこそ 呼びもとめられるのでしょうか。それにしても まだ信じていない者を どうして呼びもとめることができましょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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