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東京大空襲

東京大空襲の時、 死体を天皇の目につかない様に隠したとの記述を読んだんですがなぜ隠したのでしょうか? 現況を天皇に見せるのは何がいけないのでしょうか? やはり腐敗した死体は美しいものではないからですか? それとも損害を隠すとことで戦意を失わないようにするためでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • djiburil
  • ベストアンサー率47% (11/23)
回答No.6

 まず事実関係を整理します。  昭和天皇の空襲地視察は昭和20年3月18日の午前9時から実施されました。これは昭和天皇自身の希望だったようです。  昭和天皇から被災地視察の意向を受けた内大臣・木戸幸一は宮内省当局に対し、「思い切り簡単なる方式」での巡行を指示します。これは大空襲直後に現地視察に出向いた東部軍管区司令部の将校に焼け出された市民から悪罵が飛んだということを踏まえ、被害地を仰々しく視察することによって被災者を刺激し、天皇に対する不穏な事態が発生することを回避しようとしたものです。  視察コースですが、空襲の被害が大きかった下町を中心に、呉服橋→永代橋→深川八幡→汐見橋→東陽公園→錦糸町→駒形橋→上野→湯島切通坂をめぐるコースが取られ、深川八幡境内で、大達茂雄内務大臣から状況説明を受け、11時頃には宮城に戻りました。この視察には木戸内大臣と侍従長・藤田尚徳海軍大将らが随行し、基本的に車での視察でしたが、小名木川橋付近では車を降りて徒歩で視察が行われました。(参考urlは視察当時の写真です。中央の陸軍軍服の人物は侍従武官長・蓮沼蕃陸軍大将、左端は藤田侍従長と思われます。)  この際、昭和天皇は藤田侍従長に「関東大震災の際も市中を視察したが、今回の方がはるかに無惨である。関東大震災の時は焼け跡といっても大きな建物が少なかったからかそれほど無惨には感じなかったが、今回はビルの焼け跡が多くて一段と胸が痛む。これで東京も焦土になった」と述べたと伝えられています。  ご質問の遺体を隠した云々の話ですが、まず天皇の被災地視察は大空襲から一週間後に行われており、そのころには遺体の片付けも進んでいたということはあると思います。  ただし、逆に遺体の片付けが済んだ頃を見計らって視察の日程を組んだということも考えられ、この場合は昭和天皇に無残な遺体を見せないようにという配慮が働いた可能性もあります。行幸主務者である木戸内府の「木戸日記」や藤田侍従長の回想録を調べれば何か手掛かりがあるかもしれません。ぜひ調べてみてください。(歴史研究の面白さは、一次史料の踏査にあります!)  なお、昭和天皇は大本営から戦況上奏を基本的に1日1回、多いときは1日3回受けており、日本の敗北が避けられないことはよく承知していました。ですので、空襲の犠牲者の遺体を見る見ないは直接天皇の戦意とは関係がなかったと思われます。

参考URL:
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tokyoudaikuusyuu.files/image025.jpg
wivea
質問者

お礼

詳しいですね! 大変参考になりました。ご回答ありがとうございます。

その他の回答 (5)

  • Auskunft
  • ベストアンサー率53% (35/66)
回答No.5

 側近の軍人達が色々と隠そうとはしたものの、天皇がおびただしい焼死体を見て嘆いた、という記述も見たことがあります。  それによると、天皇が死体を見てしまうと終戦を断行しようとする可能性があり、軍人らはそれを恐れたそうです。また当時、天皇側には粛軍クーデターを目論んでいた者もいて、軍人達と天皇は微妙な関係だったでしょう。  大混乱の中ですし、複雑な思いの方も多かったでしょう。色々な情報があるようです。  軍部が戦況や国際情勢など、都合の悪いことを天皇に色々と隠していたのは事実でしょう。しかし、実際に、このときに無数の死体の隠蔽工作ができたかは疑問です。  視察は、側近(の軍人達)の意志に逆らう天皇の意志でした(昭和天皇独白録だったと思いますが、自分はそういう記事を読みました)。  視察先がもっとも被害の大きかった深川や錦糸町だったことから、行き先は天皇側の自由だったことと、物的損害を隠すことは無理だったと予想できます。  視察は侍従らの側近を従えたお忍びでした。突然車を降りて歩き出すというものだったので、事前に遺体を片付けておくことは難しかったでしょう。    天皇の視察は、空襲の日から一週間以上がたっています。  そのため、空襲後のあたりまえの処置として、路上の死体が埋葬されていても不思議ではありません。心理的にも衛生的にもそうするべきです。  しかし写真を見ると、瓦礫の下の遺体をすべて処置できていたとは思えません。なので、天皇が少し脇に入って覗いていれば、遺体を見ることができたのではないでしょうか。写真を新聞に載せるのに、死体が載っているものを使わなかった可能性もあります。

参考URL:
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tokyoudaikuusyuu.htm
wivea
質問者

お礼

完全に隠すというのは不可能ですね。 URLありがとうございます。

noname#115237
noname#115237
回答No.4

まず天皇は当時立憲君主の立場を守っており、損害を隠す・隠さない云々で戦意に影響しない、という前提でお話します。 東京大空襲で、皇居も影響を受けました。 またすでにそのころは皇居内に防空壕ができておりました。 天皇陛下がそういう状態で皇居外に外出することは考えられません。 陛下のために遺体を隠されたとかではなく、見ることはできなかったのではないでしょうか? ただ陛下は悼む歌をたくさん詠んでおられますし、決してそのことを知らなかったわけではないと思います。 私もどこでその記述を読んだのか気になります。後学のためにぜひ教えてください。

wivea
質問者

お礼

すいません。 図書館のいろいろ見ていたため忘れてしまいました。 ただ「東京大空襲の○○」というタイトルでした。 ご回答ありがとうございます。

回答No.3

 回答番号:No.1です。回答番号:No.2様もご回答を拝読しての補足です。  私も陛下に悲惨なご遺体を隠したという話を確認しているわけでは在りません。  でもそういうことがあったのだ、といわれると、そうかもしれない、と思って回答番号:No.1の回答を投稿しました。  軽はずみかもしれませんが、そういうことがあれば、それは携わった方の思いはこうなのだろう、というものです。  陛下がいろいろ日本中を巡幸され、視察されたのは戦後の焼け跡も大分片付いた、後のことでしたね。  それを空襲後、直ぐだったのだと思ってしまったのです。  そして犠牲者の遺体をみせないという配慮をしたということ、或いは視察したいということを差し止めた所謂る誰かがいたかも知れませんね。あまりに悲惨で。  そんな話を聞いたような気がしていての番号:No.1の回答でした。  粗忽なことでした。

wivea
質問者

お礼

私の不確かな質問に何度も回答いただきありがとうございます。

回答No.2

何に記述されていましたか教えてください。 宮内庁文書? 内閣の公文書? 誰かの日記? 小説や一般書籍での記述は信憑性がありませんので、まず公式文書で 誰が・何時・何処で・そのような事をしたのかを記載してください。 尚、東京大空襲は大本営発表されており、皇居も被害を受けているので被害を隠しようがありません。

wivea
質問者

お礼

すいません。 図書館でぱらぱら見た本の一部なので出典元は忘れてしまいました。

回答No.1

 確かに至尊といわれ、一応統治権の総覧者に実態をしっかり見せることは絶対に必要であったかもしれません。  何も危惧するべきではないと存じます。  でも私も、今も多分そういう悲惨なことを天皇の目に入らないようにしたと存じます。  当時はまだ小2ではあり、後でそんなことをしたということを知ったのではありますが。    当時の感情ですね。その感情ってなんだ?  と問われても応えられません。  私も長く組織の中にいました。悪いことかもしれませんが、現場を最終的に仕切る立場としては、そこで自分の責任を全うしていきます。  そして、それは自分の範囲のこととします。  そして一定の方に何かを知ってもらうということは、何かを考えてもらうという目的をもって、提示します。誘導です。何もかもさらけだして、煮るなり焼くなりどうでもしてくれ、と丸投げをしません。  実務で一諸に、そして上で指揮をとる人なら、きちんと提示します。  天皇と戦災、空襲のことではないが、そういう立場ではない人で、高い立場の人に、或いは関係のない人に、思わぬ思いや、考えで進まれると困るので、系統の中で、提示していけるようにしてきました。  そういうことでいいかどうか、批判があることは確かです。  天皇にどうみせるかの、あのときの思いは、国民の大多数は、戦災の遺体までも見せたくないという、理由の通らない感情があったことは否めないと存じます。  それは批判されることになるでしょう。  特に欧州の王様であれば、更に特に民選の大統領であるならば。  多分痛々しい遺体を、きちんと安置したいという思いもあったと思います。例には為りませんが、いとけない小学生などに、その悲惨で醜悪な状況をわざわざみせたくない気持ちもありますね。  こんなことをいってもご質問者は決して納得されないでしょう。  納得はさせられません。合理でもありません。  ですから、間違いである、という批判がありうるのは良く知っています。でも国民としての感情だったと存じます。  本当に申し訳ありません。当時小2の今、年寄りとして、日本人の不合理を反省し、お詫びします。  これが歴史というものでして、私も実は批判をしています。

wivea
質問者

お礼

戦争経験者の方でしょうか。 恐れ入ります。 たしかに死体を誰かに見せたいとは思いませんね。 ご回答ありがとうございます。

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