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現実とは何か? それは理想やロマンをかみ殺すか?

serpent-owlの回答

回答No.5

 mori0309さんが「ここで言われている「現実」とは…」と限定されている「現実」に関しては、前のお二方、north073さんとhasshyさんのお答えで完璧回答ですね。で、あまりに完璧なので「mori0309さんの聞きたいことはこれこれこういうことなんだろうな…」ということについて、なかなか書けませんでした。north073さん宛てのお礼で、「やっぱりそういうことか」と思ったので、ちょっと書きます。  でも、これについても、north073さんの回答に答えが書かれているようですよ。「もちろんつらくて悲しい現実もある。けれどしかし、それは決して夢や理想やロマンをかみ殺しなどしない。逆にそれを育ててくれる」とのmori0309さん御自身が書かれている内容に賛同しておられる部分です。私も、まったくその通りだと考えます。ここを少し広げて書いてみます。  「結婚生活の理想と現実」なんていうふうに、理想と現実を対立的に捉える図式もあるにはあります。哲学の歴史でも、例えばプラトンの理想主義に対してアリストテレスの現実主義なんて説明がされる場合があります。そして、それは必ずしも不適切ではない。おおまかな特徴付けとしては。  でも、プラトンだって現実を説明するためにイデアを考えたのですし、アリストテレスだって自然の基底にある根拠を形而上学で追究しているのです。「理想主義、現実主義」と言ったって、それだけじゃない。截然と切り分けられて対立項に置かれているわけではありません。  ヘーゲルの『法哲学』序文(Vorrede)に、  「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である」 という、あまりにも有名な言葉があります。  この言葉は『法哲学』出版の当初から、反自由主義的な反動政策をとりつつあった当時のプロイセンを肯定するものと捉えられ、非難にさらされました。カール・ポパーも『開かれた社会とその敵』で、そうしたヘーゲルの姿勢を批判しています。  しかし、カール・ハインツ・イルティングという研究者が発掘した講義録ノートには、   「現実的なものは理性的になり、理性的なものは現実的になる」 と記されたものもあったのです。こうなると事情は変わります。「現実」は絶えず「理想」を生み出し、「理想」は絶えず「現実」を変えていく、そういう意味になります。(このことは、ヘーゲル『論理学』の「現実性」に関する規定から、内在的にも示すことができます。実はこれ、私の卒論のテーマでした。)  これをもう少し詳しく見ましょう。  ある一時点で、現実がある形をとっています。それでうまくいっています。なんら不都合はない。けれども、時は流れます。新たなものが生まれます。すると現実は変化します。不都合が生じてくるでしょう。(具体的に言えば、高度情報化社会の展開につれてハイテク犯罪が問題になるとか。)  この不都合を解決するため、「理想」が掲げられます。現状の問題点・課題の克服が要請され、ある観念(イデア・理想)が打ち出されてくる。この観念が、充分に現実を踏まえ、真に問題解決に役立つなら、それは「理性的」です。「現実的になる」でしょう。「現実」は再び「理性的」に、なります。しかしその「現実」も…というわけです。  そういうことだと思います。ですから、mori0309さんのご見解に賛成です。現実は、夢や理想やロマンを育ててくれる。  ただ、この「育ててくれる」のところは、もう一歩踏み込んで「鍛えてくれる」と表現したほうがいいかもしれません。というのは、north073さんが言われているように、現実とは、理想を「育てていくために必要な痛みと強さを与えてくれるもの」だからです。すなわち、現実を遊離した「理想」は、「現実―理想・対立二分法図式」を乗り越えることができず、非理性的なままに終わることになるでしょう。  そうそう、「現実的なものは…」という言葉に関連して、同じく『法哲学』序文には、    「ここがロードスだ、ここで飛べ。 hic Rhodus,hic saltus.」 という言葉がありました。「この与えられた現実の中で勝負しろ」というほどの意味になりましょう。  なお、mori0309さんの書いておられる(1)~(3)までについて。(1)と(3)に関しては賛成です。人間はそんなものでは計れないし、還元主義もロクなもんじゃないです。(2)に関しては、ちょっと保留。「本能とは何か」の方にでも、そのうち書かせていただくかもしれません。

mori0309
質問者

お礼

serpent-owlさん、回答ありがとうございます。 > 「現実」は絶えず「理想」を生み出し、「理想」は絶えず「現実」を変えていく。 > 「理想」が充分に現実を踏まえていて「現実」の問題の真の解決に役立つなら > それは「理性的」です。(文章を編集させていただいております。mori0309) 「現実」の不都合や不満足や苦しみが「理想」を生み出すということでしょうか。 私にとって「理想」とは「今」「ここ」に見えている美、感じられている愛 (こんなコソバユイことよく書けるなあ)のことであり、この美と愛の遠い背後に、 より大いなる美、より大いなる愛、真の幸福があるのだろうなあ、という予感のことです。 野の花、天の星、朝夕のお日様、そして人の笑顔に、そういう美や愛を感じます。 遠いというのは時間でもなく空間でもない、もっと違う種類の遠さです。 ちなみに私は特定宗教の信仰者ではありません。私にとって「理想」とは「改善努力」 という犠牲的な時間の経過ののちにやってくる未来の「現実」などではありません。 なんだか反論めいた文章で申し訳ありません。私は哲学にはまるで素人です。質問文に あげた哲学入門の本を読んだとき、「ロマン的幻想」という言葉が、自分の夢想のことを 言われているように感じたのです。 考えてみたら「現実」なるものは(1)(2)(3)の他にも、もうひとつありました。 (4)生活的現実です。飲み屋でカードを使いすぎて、どうやってカミさんに知られずに 決済金を工面しようかという悩みとか、会社への泊まりが長引いて、着替えがなくなり 夜中にこっそりパンツやくつ下を洗面所で洗う情けなさとか、子供連れでスーパーの バーゲンの行列に並んでいたら、会社の部下にバッタリと会ってしまったかっこ悪さとか。 哲学だ理想だなんて言っては見ても、しょせんかっこ悪い生活人。これこそが現実?

mori0309
質問者

補足

すみません。訂正させてください。 ■訂正前:私にとって「理想」とは「今」「ここ」に見えている美、感じられている愛 (こんなコソバユイことよく書けるなあ)のことであり、この美と愛の遠い背後に、 より大いなる美、より大いなる愛、真の幸福があるのだろうなあ、という予感のことです。 ■訂正後:私にとって「現実」とは「今」「ここ」に見えている美、感じられている愛 (こんなコソバユイことよく書けるなあ)のことであり、「理想」とは、この美と愛の遠い 背後に、より大いなる美、より大いなる愛、真の幸福があるのだろうなあ、という予感の ことです。

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