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現実とは何か? それは理想やロマンをかみ殺すか?

serpent-owlの回答

回答No.9

 「お礼」拝読しました。お忙しいところ、ありがとうございます。では… >私にとって「現実」とは「今」「ここ」に見えている美、感じられている愛 >のことであり、「理想」とは、この美と愛の遠い背後に、より大いなる美、 >より大いなる愛、真の幸福があるのだろうなあ、という予感のことです。 という部分について。  私はヘーゲルで卒論書いているわりに、実は必ずしもへーゲリアンではないのですが、ここはヘーゲルにこだわっていってみます。(釈明的注:実は正確に言うと「へーゲリアンではなくなるよう努力している」です。ヘーゲルさんの呪縛力って、もう、すごいんです。)  上記引用部分から読み取れるmori0309さんのお考えは、CUE009さんのご指摘通り「二元論的」なものに見えます。つまり、mori0309さんご自身が否定的に見ておられるところの「理想と現実の二分法」的枠組み。…あるいは、言葉の用い方がmori0309さんの思想を裏切ってしまっていて、そのせいでそう見えるだけなのかもしれませんが。  とりわけ、プラトンの「イデア論」に近いものが感じられます。現実の万物を超え、それら一切の真の姿であり、本質であり、真実在であるところの「イデア」です。それはそれは、もうとんでもなく「遠く」に観念されております。  がしかし、一方で「やはり言葉が思想を裏切っているだけ」とも取れます。と、申しますのは、前回の書き込みで私が熱く支持しました部分、「私にとって現実とは、友からのメールであり、「教えてgoo」での出会いであり、仕事仲間や家族との時間であり、出勤時に見える朝の海の白銀色であり、春の沈丁花の匂いです。もちろんつらくて悲しい現実もある。けれどしかし、それは決して夢や理想やロマンをかみ殺しなどしない。逆にそれを育ててくれる」というところで、mori0309さんご自身が透き通った眼差しで現実を見つめ、「理想を育ててくれる」と認めておられるからです。  私は、前者の「二分法」を支持せず、後者の「現実の中に理想の種を見る」見方を支持します。  では、ここらでイッパツ、ヘーゲル節をかましましょう。リズムはお約束の「ワルツ」です。an sich、fuer sich、an und fuer sich、と、三拍子目で必ずコケる、例のアレです。  ヘーゲル『論理学』・第二部「本質論」より。    「本質は現象する!」  …って、なにつまんねーこと言ってんだとか、思います? 思わない? 思ってよ。その方が…って、これどっかで使ったな…。  ごほごほっ、げほっ…ああ、失礼。改めて気を取り直しまして。  えーと、つまりですね、「本質」というものは、みずからを「オモテに現す」のです。林檎だったら、「赤い」「丸い」「甘酸っぱい」「胸がキュンとする」…といったような、諸々の属性や感覚与件のうちに、本質はみずからを「規定」していくのです。そうして「現実」の姿をとる。  ここまでだったら、プラトンだってカントだって同じです。でもヘーゲルさんが違っていたのは、「現象しないのは本質じゃない」って言い切ってしまったことです。「本質はみずからを現象のうちに現すものである、それが本質というものの《本質》である、ゆえに現象のうちに現れていないものは、なんら本質ではない」という話。んー、ヘーゲル節(…と、言っても、実物はもっとまったりねちねちしてます)。  シンプルに言い換えてしまいますと、「現象そのものが、まさに本質である」ということです。この論法を当てはめれば、「この現実そのものが、まさに理想である」と言えましょう。「ここがロードスだ、ここで飛べ」…ということです。これはすぐ後で「ここに薔薇がある、ここで踊れ」と言い換えられています(『法哲学』序文)。…イマイチ笑えませんが、ドイツ語ではダジャレになっております。いずれにせよ、「この現実を享受し、喜び、そして歩んでゆけ」という意味になりましょう。  ただし、前回の書き込みと見比べていただければおわかりと思いますが、この「本質」なるものや「現象」なるものを固定的に捉えてはいけないわけです。林檎で言いますと、「ちょっと色っぽい」「どこかサイケデリック」「歌いながらではギターが弾けない」「“本能”は名曲だ」「でも他はイマイチ」などといった諸属性に、林檎の本質はみずからを規定しているわけです。また逆に、そうした諸属性から反射的に導かれることによって、この林檎は椎名林檎という本質を持ちます。が、この林檎は齧られて終わる林檎ではありません。流れる時間の中に置かれた林檎です。そのうち、歌いながらでもギターが弾けるようになるかもしれません。“本能”以外にも名曲を連発するかもしれません。でもその前に芸能界をやめてしまうかもしれません。突然、蜜柑になるかもしれません。が、それは常にその都度、理想に媒介された「現実」であり、また同時に現実の中に確固たる形をとった「理想」なのです。  すなわち、理想は常に現実の「すぐそばに」寄り添っています。「遠く」ではなく。 P.S.「補足」等は、ごゆるりと。手紙でも交わすように、ゆっくりやりましょう。

mori0309
質問者

お礼

 文理両刀の真に偉大な哲学者にして、和洋古今の言葉を自在に駆使する文学者、そして くつした開放戦線の勇猛なる隊長、serpent-owl自由哲学塾塾長。いつもお世話になってまぁ~す。 > 「補足」等は、ごゆるりと。  このお言葉に甘えているうちに、なんとズルズルひと月半がたってしまいました。本当に申し訳 ありません。いまごろお礼するmori0309をどうかお許しください。ド素人・ド初心者の私ですが、 自分なりに考えたことを述べさせていただきたいと思います。 > 「現象そのものが、まさに本質である」「この現実そのものが、まさに理想である」 > 「本質はみずからを現象のうちに現すものである、それが本質というものの《本質》である」  いま、主観と客観・存在と認識の問題にぶちあたっておりまして、どうにも先に進めない状態が、 このところ続いております。現象は、認識者とその認識能力を想定しないことには、それがどんな ものであるか、何も語れないと思います。昆虫・鳥・人間の三者の目の前に、樹が立っていて葉が 生い茂っているという現象を考えた場合、樹の本質は誰に対して現れているのでしょうか。 (三者が見て感じる樹の現象はまったく異なったものであると思います) 昆虫?鳥?人間? 人間も限られた精度の感覚器官を持つ生物であってみれば、より高度に進化 した生物は、樹の生育現象をもっともっと深く多面的にとらえることができるようになると言えるの でしょうか。樹が発するオーラとか。(←・・・・・こういう言葉はダメですか)  それとも樹はそれ自身が独立した存在であるから、認識者がいなくても、自分の本質を自分の現象の うちに現していると言えるのでしょうか。認識者を想定しなくても現象や本質というものは存在する のでしょうか。 (この質問、あちらこちらで何度も繰り返されていますね。自分で考えますので、どうぞ聞き流して ください。きっと哲学の初歩の初歩の問題なんですね)  私はどうも哲学的な思索をしているというよりは、詩的な空想をしているというほうが、あたって いるようです。私が求めているものはいつも美です。論理的真理ではなく。(←自分で言って恥ずかしい) 音楽や絵画だけでなく、自然の景色、野の草花、空の白雲、人の笑顔、人の人情。そういうもののなかに いつも美を見出して生きる糧にしています。  そしてこうも考えます。人が何かを美しいと感じるのはなぜか。それはいちいち論理的な推論をしなく ても真理(倫理的に正しいこと)を直観的に判別するためなのではないか。正しいことは自他を救う。 だとしたら人間(に限らず生物は皆)は、論理的推論能力を高めることよりも審美的感性を高めることの ほうが、大事なのではないだろうか。人間をその人の内側から見た場合、真の自分とは何なのだろう。 自分を動かしている本当の自分は何なのだろう。論理的な理性か、審美的な感情か、それ以外か、 それは真実在か。(なつかしいなぁ・・・独り言です) > 「神の目から見て美しい。」(「環境破壊がいけない理由」より)  こういう言葉、好きです。別にクリスチャンじゃないですけど。  神という言葉の各人が持っている意味や語感は、人によってまったくちがいますよね。これほど意味や 解釈が異なる言葉は他にないんじゃないでしょうか。「あなたは神の存在を信じますか」という問い 自体が成り立たないという気さえします。だって神の定義がないのですから。  あ~いけない。素人発言を連発してしまいました。どうぞお聞き流しを。  お礼が遅れてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。(下足番mori0309)

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