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張作霖爆殺について。

tak-mの回答

  • tak-m
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回答No.1

はじめまして! 張作霖爆殺について、私の個人的見解の範囲で 回答させていただきます。 まず、日露戦争に勝利した日本は、ロシアから 「南満州鉄道」の権益を手に入れます。 そもそも、この「満州」と言う土地は「清」王朝一族 の出身地でして、彼らが「清」王朝を立ち上げると、 彼らの民族は、いっせいに万里の長城の内側に移住し始めます。 そして、万が一の時には再び、満州の土地に帰れるように 無人の土地となっていました。 孫文も、革命の際には満州を「中国」とは考えておらず、 そこは、事実上「隙間の地」でした。 ところが、日本にとってはその満州こそが生命線で、 日本の安全保障のためには、満州と、朝鮮半島の安定が必要 不可欠だったのです。 で、当時の満州の支配者が、馬賊出身の張作霖で、日本政府は 彼と協調し満州権益を守ろうとしたのです。 しかし、彼は、住民を搾取し税収の9割以上を軍事費に使い さらには、当初親日だった彼が、反日に転向し、sikorskyさん がおっしゃるように、アメリカの資本援助で、満州鉄道と 利益がかぶる「併行線」を、日本との条約を破って建設してしまいます。 さらには、「満鉄」への営業妨害進め、排日運動を推進していく有様・・・ 満州鉄道は、アメリカにのっとられる寸前となります。 しかし、そんな状況でも、弱腰の日本政府は、張作霖と「協調」する 方針をとるのですが、危機意識の高い「現場(関東軍)」では そんな政府の姿勢に不満を持つのです。 そして、とうとう、河本大佐は本国を無視し、張作霖を爆殺してしまいます この事件の後、息子の張学良は国民党に「服属」してしまい 形の上で、中華民国の全国統一が成立したのです。

sikorsky
質問者

お礼

はじめまして。 ご回答有難うございます >さらには、当初親日だった彼が、反日に転向し、sikorskyさん >がおっしゃるように、アメリカの資本援助で、満州鉄道と >利益がかぶる「併行線」を、日本との条約を破って建設してしまいます。 この反日政策は爆殺後の親の仇討ちに燃える張学良による政策だと思うのですが、違いますでしょうか? この政策開始時期の年代が示されている本が無いもので、はっきりとはいえませんが。。。

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