- 締切済み
張作霖爆殺について。
tak-mの回答
- tak-m
- ベストアンサー率19% (8/41)
はじめまして! 張作霖爆殺について、私の個人的見解の範囲で 回答させていただきます。 まず、日露戦争に勝利した日本は、ロシアから 「南満州鉄道」の権益を手に入れます。 そもそも、この「満州」と言う土地は「清」王朝一族 の出身地でして、彼らが「清」王朝を立ち上げると、 彼らの民族は、いっせいに万里の長城の内側に移住し始めます。 そして、万が一の時には再び、満州の土地に帰れるように 無人の土地となっていました。 孫文も、革命の際には満州を「中国」とは考えておらず、 そこは、事実上「隙間の地」でした。 ところが、日本にとってはその満州こそが生命線で、 日本の安全保障のためには、満州と、朝鮮半島の安定が必要 不可欠だったのです。 で、当時の満州の支配者が、馬賊出身の張作霖で、日本政府は 彼と協調し満州権益を守ろうとしたのです。 しかし、彼は、住民を搾取し税収の9割以上を軍事費に使い さらには、当初親日だった彼が、反日に転向し、sikorskyさん がおっしゃるように、アメリカの資本援助で、満州鉄道と 利益がかぶる「併行線」を、日本との条約を破って建設してしまいます。 さらには、「満鉄」への営業妨害進め、排日運動を推進していく有様・・・ 満州鉄道は、アメリカにのっとられる寸前となります。 しかし、そんな状況でも、弱腰の日本政府は、張作霖と「協調」する 方針をとるのですが、危機意識の高い「現場(関東軍)」では そんな政府の姿勢に不満を持つのです。 そして、とうとう、河本大佐は本国を無視し、張作霖を爆殺してしまいます この事件の後、息子の張学良は国民党に「服属」してしまい 形の上で、中華民国の全国統一が成立したのです。
関連するQ&A
- 満州事変に関する重大疑問A
昭和6(1931)年9月に南満州・奉天近郊の柳条湖で日本所有の南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破された(柳条湖事件)。関東軍は、事件は中国軍(張学良軍)の仕業であるとして軍事行動を起こし、たちまち南満州のみならず、(ソ連勢力下の)北満州をも制圧してしまった(満州事変)。満州事変の結果、満州国が樹立された。 ところで柳条湖事件については、関東軍の板垣征四郎高級参謀や石原莞爾作戦主任参謀らの将校たちが満鉄線路を爆破を計画したと言われますが、関東軍の最高責任者だった本庄繁総司令官は、この計画について、事前に承認を与えたのでしょうか。それとも、何も知らなかったのでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 張作霖爆殺事件の真相を教えて下さい
僕は今まで張作霖爆殺事件は関東軍の所業、即ち河本大作大佐の謀略だと習ったので今までそう思い込んでました。ところが最近、新聞を見て共産党のしわざである可能性の方がずっと高いという事を知りました。やはり真相は共産党のしわざだったのですか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 満州事変に関する重大疑問B
昭和6(1931)年9月に南満州・奉天近郊の柳条湖で日本所有の南満州鉄道(満鉄)の線路が何者かによって爆破された(柳条湖事件)。関東軍は、事件は中国軍(張学良軍)の仕業であるとして軍事行動を起こし、たちまち南満州のみならず、(ソ連勢力下の)北満州をも制圧してしまった(満州事変)。満州事変の結果、満州国が樹立された。 ところで柳条湖事件については、関東軍の板垣征四郎高級参謀や石原莞爾作戦主任参謀らの将校たちが満鉄線路を爆破を計画したと言われます。しかし戦後の東京裁判では、板垣征四郎は満州事変の首謀者として起訴されて死刑になりましたが、同じ首謀者の石原莞爾が起訴されませんでした。なぜでしょうか。病気だったからですか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 軍部の暴走を止められなかった理由
戦前の軍部はなぜ暴走したのですか? 張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか? そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか? 柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 満州事変 どちらの記載が本当なのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF 満州事変 張学良 1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満 邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と 集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと 言う。満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受ける と日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判 断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴び るなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取 材で述べている。 とあります。また・・・ http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/37350760.html 満州事変は関東軍の暴走ではない。関東軍は、満鉄の守備など日本の権益 を守る警察の任務を担っていた。 1万人の警察(関東軍)が、日本権益を侵 害していた30万人の武装盗賊(張学良軍)を追放するには、柳条湖事件の ような作戦が必要だった。したがって、日本政府は、事後であっても、関 東軍の警察行動を承認した。決して関東軍の暴走ではない。次に、満州の 武装盗賊を追放したのは関東軍(警察)だが、満州国を建国したのは日本 ではなく溥儀をはじめとする満州人たちだった。 とあります。がどちらが本当なのでしょうか? 武装盗賊が左派勢力なのかどうか分かりませんが、彼らは ただの「小競り合い」をしていたのでは・・・?? 軍隊を越境させたわけではないのでは・・・? 私は、満州事変は、侵略とはまでは言えないと思っています。 パリ不戦条約は事実上法的有効性が薄いと思うし、主権国家への 攻撃ではないので・・・ けど、林銑十郎越境将軍の独断による軍の国境越えは やはり、暴走とまではいかなくても、 とがめられてしかるべきで軍の独断による越境であり、 自衛でもないと思うのですが・・・ また、満州国を建国したのは溥儀等であっても そのような傀儡政権を創らせたのは、日本人なのではないか? 当時の戦略からして現地人に国を創らせた方が、上手に侵入できることは 当然であっただろうから・・
- ベストアンサー
- 歴史
- 張作霖列車爆破事件は関東軍の仕業でない?(田母神論文)
前航空幕僚長の田母神論文がマスコミを賑わせています。 http://www.apa.co.jp/book_report/ その中で、 「1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言わ れてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日 本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢 東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて 有力になってきている。」 とあります。 張作霖列車爆破事件の犯人はコミンテルンの仕業というのが有力なのでしょうか? 他にも「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党」などとあり、どこまで信用していいのかわかりません。 トンデモ論文なのか、現在の歴史認識をなぞっているだけなのか? どなたか解説お願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 満州事変は侵略ではありませんよね?
満州事変は侵略ではありませんよね? 1911辛亥革命 これ以降、一国多政府の時代に突入、天下大乱の時代が始まる。 1915年 二一箇条要求 日本が清と結んだ条約を、清が消滅したので中華民国と正式に締結し直す必要があった。 中華民国は旧清朝の領域の継承を主張したが、各地に軍閥が跋扈し治安維持能力がなかった。 1919年3月 コミンテルン結成、直後に北京で五・四運動 それまでの中国の伝統や歴史を一切否定する西洋化運動、そして排日運動 四年たってから二一箇条要求がやり玉に挙げられる。 1922年 九カ国条約締結 日本だけが違反したのではない。 蒋介石は1927年米英と紛争を起こしているし、張学良は1929年ソ連と紛争を起こした。 要するにそもそも中国側が違反していた。 1928年 六三カ国で不戦条約締結 米英が重要な点において留保を行うなど実質的に空文となった。日本は自衛戦争については留保していた。 1931年9月18日 柳条湖事件(満洲事変の発端) 中華民国が満州事変を日本の連盟規約違反として国際連盟に訴えたが、国際連盟は日本を侵略国と認定していない。 張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、 海外資本の提供をうけて、満鉄の平行線を建設し始めると、両者の関係は悪化しました。 当時中国は日本との条約を次々と破り、無知な住民を煽って暴力的なボイコット運動を起こさせ、 商鉱農工業妨害、日本国民の命に関わる圧迫行為、反日教科書などの侮日行為、 居留民襲撃や鉄道運行妨害など数百件のテロ行為を重ねていました。 満州には清や列強から承認された日本の特殊権益が存在しました。 日露戦争で日本がロシアに勝たなければ満蒙はロシア領になっていたはずです。 中華民国や張作霖は日本の勝利に何も貢献しなかったのに 日本が10万の戦没者、20億の戦費を費やして得た権益を 「満州は中国だから出て行け」というのはとうてい受け入れられません。 それに満州は万里の長城の外であって満州族の土地です。 もともと、満州に合法的に駐留していた関東軍はそれを守ろうとしただけです。 中央政府の中華民国も現地軍閥の張学良も犯罪に対する治安維持能力と条約遵守能力がなかったのです。 こういった事情から関東軍は権益を自衛するためには満州全土から匪賊同然の奉天軍を追い出す必要があると判断しました。 これは侵略に当たりません。 外国人への犯罪が放置され責任を持って対処する政府が存在しない。 これは国際法的には「無主の地」です。 責任を果たさないのに権利・主権など主張できない、という慣習国際法である。 こうしたなかで不法行為を黙って許容しているとそれを認めたことになります。 ラストエンペラー溥儀の英国人家庭教師であったジョンストンはリットン報告書の ”満州独立運動が日本による教唆によって発生した架空の民族運動であった” という点を全くの事実誤認であるとして批判しています。 溥儀の忠臣たちは満州族による帝政復古運動を展開していた。 満州事変は日本がこれらにさんざん隠忍自重した末に起きた事件です。 満洲事変は侵略ではなく自営のための軍事行動であったのです。 戦乱と飢饉の拡大、繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって満州国こそ最後の駆け込み寺でした。 年間百万あまりの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことがその何よりの証拠です。 毛沢東はかつて「かりにすべての根拠地を失っても東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。 実際戦後の満州は中国の重工業生産の九割を占、中華人民共和国を支えたのは満州国の遺産であった。 豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は 「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。 満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語りました。 参考)黄文雄、岡田英弘、宮脇淳子、倉山満 歴史にお詳しい方、私が調べた上記の記述でどこかおかしいところはありますか? よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 満州事変が命令違反
満州事変が命令違反というのは、バカバカしい寝言ではないですかね? 〉そして、通説及び個人的な認識においても、そのような事実=命令は存在しません。 と言われてもねぇ。 満州には日本軍は一万しかいなかったんですよ。 三十万の張軍は、日本軍が大軍を配備した、と、勘違いしたから、戦わずして退却しました。しかし、関東軍は一万しかいないとバレてしまえば、総攻撃をかけるに決まってる。そうなれば、関東軍は全滅です。 日本軍にとって援軍は絶対必要でした。 わかりやすい日中戦争 三野正洋 光人社 260ページ 柳条湖事件は突発的に起こったものではなく、日本の陸軍の石原完爾、板垣征四郎らによって半年以上前から計画されていたと思われる。また、日本政府の一部閣僚も薄々これに気付いていながら、明確に阻止する手段をとらなかった。 板垣さんは関東軍のトップで、日本にはいません。なぜ、満州で極秘で進めている計画を日本にいる大臣が薄々気付く事ができるのでしょうか? 答えは、明らかでしょう。 関東軍の板垣征四郎から、参謀本部は柳条湖事件を起こすことを報告を受け、克つ、援軍を出す約束をしていた。だから、石原完爾、板垣征四郎らは、満州事変に関して、綿密な計画が立てられたんです。いつ、どのタイミングで、どれくらいの援軍がくるか分かっていなければ、計画が立てようがない。 参謀本部が事前に柳条湖事件を事前に知っており、援軍を約束していた。 これは、疑問の余地がないと思いますが? 張作霖爆殺事件の事後処理で田中義一内閣が総辞職に追い込まれたのは、野党の追及のため、という人は誰一人いないでしょう。田中総理を辞任に追い込んだのは、昭和天皇であることは疑いようのない事実ではないですか? 「自作自演で柳条湖事件を起こしますから承認して下さい」とか、「政府には無断で、満州国を建国しますから承認して下さい」とか、参謀本部が昭和天皇に対していえるんですか?いえるわきゃないでしょう。 参謀本部は「我々は必死でとめたんですが、関東軍が独断で」と、昭和天皇に報告する必要があった。 参謀本部は10月21日に関東軍の独走を抑えるための特使を派遣したり、11月2日に独走を戒める訓令を出す、という表の顔とは別に、裏では満州国建国のための後方支援を完璧に行っていた。 あなたは、あくまで、参謀本部に裏の顔なんてない。 参謀本部は正直者の集まりだ。 参謀本部は柳条湖事件が起きるのを知らなかった、と、主張できるんですか? 歴史を学べば、真実は明々白々だと思いますが
- ベストアンサー
- 歴史
- 1900~1940年くらいまでの日本の歴史を学ぶ本
こんにちは お勧めの本を教えてください。 日本と周辺国の歴史・政治・外交などについて学べる本を探しています。 韓国併合の前段階から併合に至る経緯、そして日清戦争やその背景、結果などなど 満州事変、満州国、関東軍、張作霖、ノモンハン・・・そして南部仏印進駐(1941)あたりまでをメインに知りたいと考えています。 学術書のような体裁のものは重そうで避けたいのですが、あまり簡潔に書かれすぎていても困ります。たとえば、「この頃、AさんとBさんが対立していたのでこの重大事件が起きた」くらいだと浅すぎます。何が起きたかだけならWikipediaなり年表を見ればわかることですが、先ほどの例で言えばなぜAさんとBさんが対立していたのかその経緯や背景がわかる本があるといいです。 戦争の悲惨さをアピールするような体裁の本や、歴史の新事実!のような触れ込みで書かれた修正主義的な本は避けたいと思います。現在の日本で主力とされている味方・説を手堅くまとめたような内容がいいです。 個人が単に興味のために読む本として考えてください。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 中国における反日の歴史とその現状
「中国における反日の歴史とその現状」を勉強しています。 そこで、下記文章を作成しました。間違いの指摘やアドバイスなど頂ければ幸いです。 1900年6月に勃発した「義和団の乱」は、そのスローガン「扶清滅洋」からも分かるように、清国を食い荒らす西洋列強を主敵とする、反帝国主義・反植民地主義を目指す反乱(戦争)であった。つまり、この時点では、未だ、明白な「反日」は起きていない。 1911年10月に辛亥革命が起こり、1912年1月1日、孫文は南京にて中華民国の成立を宣言、初代臨時大総統に就任する。しかし、清朝の北洋軍を率いる袁世凱が、孫文も合意の上で、同年3月、中華民国政府の第2代臨時大総統に就任し北京に遷都した。中華帝国皇帝になりたいという袁世凱の本質を見透かした上で、日本は、1915年、大隈内閣が、「対華21か条要求」を出し、シナ及び満州における既得権益の確保を計る。 1916年に袁世凱が死亡すると、シナ大陸は、各地域に軍閥が割拠する混乱期に入る。同時に、日本の既得権益確保の活発な動きは、欧米列強やロシア(ソ連)との縄張り争いを激化させると共に、シナ人共産主義者や民族主義者の憎悪を煽ることになった。 1917年10月、ロシア革命が起こり、1919年3月には第1回コミンテルン大会が開かれた。内外のシナ人共産主義者たちは、コミンテルンの指導に従い、1919年5月4日、「ヴェルサイユ条約反対」・「反日愛国」をスローガンとする五四運動を起こし、この運動の社会的影響を背景にして、1921年7月、中国共産党結成に成功した。従って「反日愛国」は、中国共産党にとり、単なるスローガンから、党結成の重要理念の一部となった。 以降、コミンテルンに指導された中国共産党は、日本を標的にしたテロ挑発を繰り返し、関東軍が対応策をとると、その正当な軍事行動すらも、残虐非道なものに歪曲・誇張・脚色して、シナ民衆扇動のための反日宣伝工作に活用した。一方、日本民衆の反中感情も増大して、コミンテルンの思惑通り、日中民衆の心の離反が進んだ。1927年3月~4月に南京事件と漢口事件(コミンテルン指示のテロ)が起こり、これに対し、同年4月12日、蒋介石が上海クーデターを起こし、国民党の反共方針が確定され、第一次国共合作は終わる。 1928年5月、済南事件(コミンテルン指示のテロ)が起こり、これに関連し、1928年6月には張作霖爆殺事件が起こる。このようなコミンテルン指導の反日テロ、それに対する陰謀や報復対応という悪循環を断ち切るために、ソ連・コミンテルンが真の敵であることを見抜いていた石原莞爾は、1931年9月に満州事変を勃発させ、1932年3月に満州帝国を成立させた。 1935年に第7回コミンテルン大会が開催され、「民族解放・人民戦線戦略」が打ち出され、中国共産党に対し「国民党と協力して反日を推進せよ」という指示が出された。そして、1938年に張学良により西安事件が起こされ、その結果、蒋介石が寝返り、第二次国共合作が成立し、翌年9月、コミンテルンの指示により、盧溝橋事件が起こされた。 日本は、愚かにも、真の敵であるソ連・コミンテルン(=中国共産党)の挑発に乗り、欧米とソ連の単なる傀儡に過ぎない蒋介石を懲らしめるため、広大なシナ大陸における泥沼戦争へと居丈高に突っ込んでいった。正に、コミンテルンの思惑通りであった。 日中戦争が始まると、コミンテルン指導による、中国共産党の反日宣伝工作は、最大限に動員され、自らシナ民衆を虐殺することすら厭わないテロや軍事作戦を初めとして、あらゆる手段でシナ民衆の中に「反日」を浸透させていった。また蒋介石(妻の宋美麗が活躍)も、日本軍の残虐非道ぶりを虚実織り交ぜて最大限に歪曲・誇張・脚色して、米国を中心とする西欧諸国に対し、マスコミを初めとするあらゆる手段を通じて、国際的な反日宣伝工作を行った。 ソ連・コミンテルンは、1939年5月~9月にノモンハン事件を起こし、関東軍を叩きのめすことで、従来、日本軍部にあった北進論を挫折させ、南進論へ向わせることに成功した。かくして、日中戦争の泥沼化にともない、日本は、1940年北部仏印進駐、1940年日独伊三国軍事同盟、1941年南部仏印進駐と、大東亜戦争開戦への道を突き進んでいった。 日本の敗戦に伴い、利用価値の無くなった蒋介石は、既に強大となった中国共産党に追い出され、1949年10月1日、中華人民共和国が樹立される。かくして、中国共産党にとって、「反日愛国」は、新生中国を成立せしめた最重要理念の不可分の一部となった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中華人民共和国の樹立当時、青少年であった今の中国人長老指導者たち(現在70~80才代)は、「反日愛国」が心身に刷り込まれており、中国国内に何か問題があると、「反日愛国」を自動的に持ち出し、その問題から民衆の目をそらすのが、常識のようになっている。 歴史認識にしても、中国共産党が、1920~1940年代にかけて作成した反日宣伝工作資料は、戦勝国・中国の共産党にとって、あたかも聖書のごとく、歴史的に完全に正しい資料として扱わざるをえず、その拡大解釈はありえても、縮小解釈や修正などあってはならない。しかも、酷いことは、これらをそのまま、現代中国の青少年むけ学校教育に使用せざるを得ないことである。 従って、今後、中国が民主化され、共産党が政権を降りるまで、現在の歴史認識の問題は解決しないだろう。今の日本人にできることは、中国の民主化を支援しつつ、中国共産党の歴史認識が70~80年も前に作られた戦争宣伝資料に基づくもの以外の何ものでもないことを、粘り強く説明し、少しでも多くの中国人に、理解してもらう他は無いと思う。 一方、より大きな問題は、多くの左翼系日本人が持つ自虐史観に在る。彼らがマルクス・レーニン主義や毛沢東思想などを信奉するのは自由である。しかし、信奉する余りに、1920~1940年代のコミンテルン戦略であった反日宣伝工作によって歪曲・誇張・脚色された、事実と異なる歴史認識(中国共産党の歴史認識=左翼系日本人の自虐史観)を、自ら検証することなく、盲目的に受け入れることは、明らかに間違いであり、不正義である。 また、一部政治家のように、ひたすら波風を立てないために、歴史の歪曲・誇張・脚色に目をつぶるようなことは、真の平和には決して結びつかない。公正な歴史認識を持ち、なおかつ、それを堂々と対外的に主張できないならば、真に公正な国際関係などは、決して築き得ないと思う。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
はじめまして。 ご回答有難うございます >さらには、当初親日だった彼が、反日に転向し、sikorskyさん >がおっしゃるように、アメリカの資本援助で、満州鉄道と >利益がかぶる「併行線」を、日本との条約を破って建設してしまいます。 この反日政策は爆殺後の親の仇討ちに燃える張学良による政策だと思うのですが、違いますでしょうか? この政策開始時期の年代が示されている本が無いもので、はっきりとはいえませんが。。。