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明治憲法下でどうして政党政治が成立しえたのでしょうか?
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明治政権樹立後の権力闘争は征韓論で表面化しました。 倒幕の功績に比例し、薩長土肥が握っていた権力が分裂します。 薩摩の一部と、土肥が反対に回りました。 反対派の一派が、まずは武力で反発します。西南戦争で西郷と薩摩士族が敗れると、武力で政権を奪取する可能性は絶たれました。 そこで言論を使おうとして起きたのが自由民権運動で、近代的な政党が作られました。 この時期の権力を握っていたのは薩摩の蜂起しなかった組と長州で、いわば与党です。薩長は何より、それぞれ海陸軍に勢力を持っていました。 土肥は野党的な役割となります。 なので、自由党、立憲改進党の創始者らはそれぞれ土肥のリーダーでした。 この時期、政党=野党みたいな感覚です。 隈板内閣が最初の政党内閣といわれますが、土肥も藩閥にかぞれば、藩閥内の権力闘争に過ぎないと見ることもできます。 その後、この運動は政府の意図に反して国民の支持を受け、憲法の制定と、議会の開催を目的にします。 なので、ご質問に対しては、憲法制定と議会開催は同じレベルだと答えるべきでしょう。つまり、藩閥vs政党(与党vs野党)という奇妙な対決の場が、議会に移ったのです。憲法に対して政党がつくられたわけではありません。むしろ政党が憲法を作らせたという感じです。 これらの初期の野党的な政党が力を持つのと平行し、藩閥の巨頭である伊藤や山縣といった藩閥政治家は、政党を取り込みました(立憲政友会など)。そのため政党と藩閥が必ずしも分裂したものではなくなっていました。藩閥は政党に政権を譲ったけれども政党になった、という感じでしょうか。名目は政党でも、実際は半分は藩閥です。 その後、政党政治は大正時代にむけて政党議会政治は一応は栄え、薩摩出身の山本権兵衛は海軍(≒薩摩)から政党内閣の総理大臣となり、政党からスタッフを集め、山縣・桂の長州閥に対抗して軍部を抑えたこともあります。その後も多くの政党内閣が実現するものの、背後では、軍部が大きな力を持ってもいました。 昭和初期に、この権力闘争に決着がつき、軍部が勝利します。憲法上の統帥権に冠する欠陥から、議会や政府は軍部の暴走をとめることができず、結局議会も政府も軍の言いなりになります。 軍が藩閥の子孫であることを考えれば、どこまで政党政治が実現できていたかは疑問です。なので、本当に政党政治がなされていたか、断言するのも難しいと思います。
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