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豊臣政権、秀吉死後のIF

dora7075の回答

  • dora7075
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回答No.2

様々なケースが考えられます。 (1)豊臣秀長が長生きしていれば、朝鮮出兵はなかった、または、あれほど疲弊することはなかった。また、文治派と武断派の対立も豊臣秀長の仲介により、家康に付け込まれることはなかった。よって、関ヶ原の合戦以前の頃に家康に付随する大名が少なく、関ヶ原の合戦は起こらなかった。 (2)前田利家が生きていた場合も、(1)と同様に関ヶ原の合戦は起こらなかった。 そもそも、家康から見れば、関ヶ原の合戦は必ず勝てるという布石を打った上での戦いですから、東軍についた何名かの武将が西軍に組して、家康は関ヶ原の合戦が勝てないと判断したでしょうね。 そうして、家康が寿命で死に、秀頼が成人し関白を継いでいたように思います。 結局、豊臣に恩顧があり人望も高かった豊臣秀長、前田利家が亡くなった時点で家康の動きを止める人物はいなかったと思います。

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