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道徳規範は 愚の骨頂

arayata333の回答

回答No.28

蚊論争については、 私には無理です。  論争出きるだけの能力において、何かが欠けていると思うのです。 私は ちょうど分数をならう時期に 死の床をさまよっていました。 そのために、大学には入れたのは推薦入学によるもので、数学は全くわかりませんでした。 分母が下で分子が上のあの記号が どういう意味かを知ったのは、電気工事士の資格を取る必要があった時に、 盆休みいっぱい、小学生の参考書を勉強したかっらです。 それでも、もう頭が固くなっていて その部分は理解が進んでいません。 だいたい解かっただけです。  人それぞれ、 まさにかよわい存在で 欠点とかさまざま持ってると思います。 であって、この井戸端会議に価値を感じそれを ともかくもわたしなりに逆説的に 年寄りの知恵で守ろうとしてみたのは、 あるいは そのような動的和の実際を示そうともして、いわゆる和の道徳を踏みにじってみたのは、(ほんとうの和は 馴れ合いの産物では無い、という意味も含まれているわけです。)  弱くて間違いだらけでもそれでも 価値あるものは価値あるもの、という深い見解からのつもりでした。 人間は間違いだらけでしかたないと思います。 でも、 それでいて、その存在はたしかに 尊いわけです。 やはり、「霊」についての、私の考えをここに、まず書いておきます。 * むかし、ある親しい尊敬する物理学者が 神についてこんなふうに言っていました。 「存在を自覚するとは 手のひらの上に乗っているという事の自覚だ。 手のひらの後ろの事は つまり神の事は解らないということの自覚だ。 しかし、手のひらの上が こんなにも豊かであるのは、その解らない手のひらの裏の世界を 私たち人間は神と呼ぶことになる。」 もっと端的になのですが、 意味合いはこんなふうでした。 宇宙のはてまでその何がしかを理解しているのだろう物理学者がそのように、深い目でそう言われる世界には、 そのあまりにも 単純な 理論とすら言えないのかもしれない論理に、 まさにシンプル・イズ・ベストの反論しようのない 確かさを教えられた思いでした。 brageloneさんの 「霊」につての こちらからの質問に対する回答もずばり、 単純なものでした。 >霊とは 人間には 分かるか分からないかが分からない何かです。< 語彙は少ないです。 しかし、これが 私が実直さと 表現した内容です。 あくまで へたすれば頭のいい人たちから誤解されやすい文に通じるところです。 でも それはbrageloneさんご自身がすでに理解されていて計算の上で書かれている文とのこと、 そこは 私の失敗であったわけですが、  ともかく、こうして、 ほんとうは、この井戸端会議を守る目的の逆説的な試みの一つであったことは、 これを読んでいる人のために書いておきます。 いずれにせよ、まさに、実直という言葉では語れないような 何かの深みからしかシンプルな回答は生まれないという点を ここにさらに付け加えておきます。 それを 私は「科学者であり哲学者である者の信仰への気づき」というふうに呼んでいるわけです。 * そのbrageloneさんですら、たぶんですが 私の「喧嘩」という言葉を ほんとうの喧嘩と思ってしまったふしがあるかと思います。 でも それってふつうです。  神様じゃなくて人間なんですから。 私が 取り越し苦労をしたのも 神様じゃないからです。 また、これは、動的道徳にしたがうには、 実際問題としてはですが、 それだけすべてをわかって無いと無理だということをも意味するかと思います。    その深さの分の深さがそこには必要だということです。 私の失敗は、私が その深さ広さに達していなかった事実を ここにさらけ出してしまっています。 が これも ふつうかもしれません。 神様じゃないからです。 * ここに大事な、 そこに ほんとうの信仰の基準があるかどうかだけです。 あるいは、キリストの言われる意味での愛(そんなふうに私たち凡人が言う資格があるのかどうかは解りませんが、 どういうふうに言おうともキリストや神が怒るわけではないので、使わせていただきます。) が、そこに《どれだけ有るか》どうかだけが基準です。 私にとって、 理論家のbrageloneさんが、理論とも言えないあまりにも単純そのものシンプルそのものの>分かるか分からないかが分からない何かです。<とずばり答えた意味は大きいです。 つまり、これを読まれてる方も ここをこそ理解すべきだということです。( あ、 また余計なお世話をしでかしてしまってるのかもしれませんが。) * でも、ほんとうに、これこそ大事な点であり 基準だと思うのです。 物理学者の答えが 一番わかりやすいでしょう。   ビックバンの歴史の あまりにも広大な歴史を知る人が、語る無限の時間の人間にとっての「謎」、そのとらえることの不可能な「謎」の裏は あまりにも巨大です。  言葉で謎とか 無限とか 図式化してるのとわけが違うわけです。 言葉とは 詩あるいは、言葉の置き方で内面を現す何かです。 シンプルさは、この場合、 その感動の真実の何がしかを物語るものです。 ひとつ、人は感謝すべき という多くの人が常識として認めている道徳に関しても、 もし、そういう存在どうしであるという深さ、つまりリスペクトの基準がそこに無いのならば、  それは簡単におべっかとかごますりとかの嘘と摩り替わってしまう商売道具のレベルにもなってしまいかねないもの、 そんなんじゃないよ道徳とはということを語りたいのならば ありがとうってそんなもんやないよ、と語りたいならば、 その奥にそれを規範としてしまわない動的な流動性の 基準の確かさ、人間リスペクトへの深さが必要となるわけです。 ここから ストレートに語る「道徳規範は 具の骨頂」という文の 真意、裏の深さを 私たちは見抜くべきところなんです。  (あ、 又言ってしまいましたが。) * むかし、ロシアの共産主義革命が起こり、そこに多くの人が人間の夜明けを信じ、 その平等が実現したら 人間はどれだけ愛し合えるだろうと夢見ていた その革命前夜、  ロシアにはなんとも言いがたい 人間的なエネルギーが庶民のなかには起こっていたと私は思っています。 無学な私の歴史観は狭いでしょうが、 その頃のロシアに生まれたロシア民謡のすばらしさや、その頃のロシアに起こったスラニラフスキーという近代演劇の父と言われる人を中心として演劇のエネルギーにしても、 このエネルギーの深さすばらしさは とても語りつくせないものがあると確信しています。 それだけに 官僚主義となり腐りきってもしまったその後の世界についてはなんとも悲しい世界であるわけですが、 それは ここでは別の論議として、 私は ここにその頃の 偉大なロシアの人形劇の大家であり、かつドキュメント映画の世界にも、深い作品を残したオブラスッーフという方の その思想のすばらしさを紹介したいと思います。 紙数の都合で 一度とぎり、すぐつづけます。  内容の価値がゆえの規則破りです。   私たちのあたらしい情報化時代のすばらしい「Q&A」システムは、固まっただけの規範を土台としているのではない、という良識をここに信じます。 

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん 一たん 振りかざした刀は きちんと鞘に納めてから 新たな話に入るものです。たとえ 竹光であったとしても 抜いたなら 相手との間合いを取り 場を納める話が 先になります。  ● 《Q:ポルノと言う存在》 ~~~~~~~~~~~~~~~~   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4533194.html   (ANo.48) 結論がまったく一緒だった?    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ とあります。《一緒ではありません》というわたしからの主張です。ふつうなら このやり取りに決着をつけて 新たな話に入るのです。  このように たとえ竹光でも抜くという動作に入りましたので ほかに 衝突している問題も この際 一気に 浮かびあがり 全体として 同じけんかを構成することになりました。その中から 二点だけを取り上げておきましょう。  ● 《Q:So this is Christmas,戦争のない世界について》~~~~   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4569432.html  (ANo.18)  表現の《ゆとり》が必要  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ この評言は わたしの投稿に対して言ったものだと受け取りました。つまり わたしの回答ぶりには 《ゆとりがない》という批判です。その点を明らかにしておかないことには 次へ進めないという情況になっている。というのが けんかを受けたこちらの言い分です。  自分中心に 世の中が回っていると言うわけにはいかないでしょうね。  ● 《Q:吉本隆明の思想について》~~~~~~~~~~~~~~   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4462818.html  (No.14補足欄) 〔kiさんとは〕見解が百八十度ちがう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのNo.14のあなたの回答を受けて このようにわたしが言っているのです。これだけを言って あとは あなたが 引き継がなかったから わたしは 放っておきましたが 問題は 深いのです。  はっきり言えば 何の価値もないという評価をしています。世の中成るように成る これだけの思想です。これだけが 思想です。まったくとるに足りないものだという評価です。それを あなたは 良く評価するところもあると言うのですから 真っ向から対立しているのです。そういう問題が 尾を引いています。  これらは 今回 けんかが明るみに出たから その勢いによって――つまり その勢いを わたしが受けて あぁ それなら こういう問題もあったなぁということで―― 全部 引っ張られ出て来たのです。  そういうけんかをおっぱじめたのです。加害者は 感覚が分からないと よく 言いますが そういう事態なのですよ。  ☆ わたしの言論について 解説を加えるのは 自由ですが そんな作業は おもしろくないでしょう? まっ わたしは 関知しません。  ★ セルゲイ・オブラスツォフ  ☆ については 次のやり取りの中に すでに 出て来ています。  ● 《Q:現代芸術における表現形式は どうなんですか》  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4338027.html  (No.8)  今回は こういう対応にて。

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