• ベストアンサー

道徳規範は 愚の骨頂

bananasandの回答

回答No.26

動性というものの少し踏み込んだ表現を試みます。 例えば、ちょっと極端ですが「逆鱗に触れる」というのがあります。 これは、ある規範に照らして、ものごとがその規範に大いに反するから そのように反応するのではなくて、具体的ものごとに対して規範なく直接反応しますね。 逆鱗の理由付けをしてしまうと規範になります。 これ程の情動が無くとも、要するに規範無く直接反応することが 動性たる所以でしょう。まさにこの部分に規範ではない豊かなる道徳が内在することを 規範道徳との対立的な概念として、動性道徳と表現してます。 「羞恥心」の話は、この動性とNo10の >一人ひとりの思考を基軸とした試行錯誤として 始まっているとも言っていいでしょう に反応しています。(道徳とは関連がありません。) 私には、「羞恥心」は単なる天然ボケ人気を越えた感があります。 「羞恥心」側ではなくて、その人気を作る側です。つまり、視聴者側です。 彼らの規範無く直接反応する心地よさ、つまり、あるがままの動性への みんなの気づきが始まっているように思うわけです。 対象に対する一人ひとりの動性が強く反映されたものが「人気」 となりますから、その時代の動性●●を象徴する面があるわけで、 羞恥心人気にはさらに単なる人気に加えて、その動性そのものへの気づきが 含まれると思うわけです。Exileや大橋のぞみ人気とは質的に違います。 それはさておき、国家の時代の問題、《市民‐公民》構造を持って生活する社会まで発展は、 は、もしかして、brageloneさんが引っ張りたい方向性でしょうか。 愚の骨頂が解消された暁には、国家の発展的解消があると・・ 紙に書いたルールではなく、それぞれのものごとに具体的な豊かでダイナミックな動的な道徳を要求するわけで、 その発展形として、国家の発展的解消(内部での消失)や 国境が消失するかどうかは、(その方向だとは思いますが) 予測不能ではないでしょうか。動性にかかるからです。 それぞれの対立に対して一律の規範を当て嵌めるのではなくて、 動性道徳を持ってくるわけで、ものごとそれぞれの結果を予測できません。予め条文の当て嵌めたり判例を適用することに意味がありません。 確かに、平等の概念も発展的に消失し、所有権絶対の原則も市民レベルで崩れ、 規範によってバランスされるのではなくて、個別のものごとにおいて具体的受容的に バランスされるでしょうけど、壁を作っておくことがそのものごとの道徳になる 場合があるでしょう。風土、文化、宗教への寛容ある振る舞いにはなりますが 同化、併合、相溶する場合もあり、単に認め合うに留まる場合もあるでしょう。 《和》は実現は、ダイナミックに成されるという状態が続くことになります。 民も公も《市民‐公民》構造への変化するでしょうけど、決してスタテックな 状態にはなりません。 緩やかながらも、さらに《市民‐公民》を越えた発展に向かうとも想像できますが 予測はできないでしょう。 予測するには動性道徳の何が道徳であるかを言語表現することになって、 やわら規範になりますね。

noname#80116
質問者

お礼

   わぁっ 言いたい放題になってしまいました。とにかく 《なぜ 規範が なくならないか》の問いに対する答えは じつは すでに――わたしの主観では―― 得ているわけです。おかげで かなり 見通しがすっきりしました。ありがとうございます。  そして むろん すべて 吟味・検証していきたいとも思っております。  * いま ふと思ったのですが 《宗教》に対して 動性道徳を勧めるという反面で いわゆる《無宗教・無信仰》を名乗る人びとのその思想のあり方についても 何らかの《勧告》が必要ではないでしょうか。その無制約の道徳過程は たしかに動性であるかも知れませんが どうも いちばん悪くいえば くらげのような動性であるのではないか。軟体動物のごとく 背骨が その思想に 見えない。これじゃ 動性だと言えるのかどうか。  あぁ 口さがない能天気老人なり。  (あぁ この難局を 元に戻していただけると ありがたい)。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  なかなか つっこみますねぇ。いつものように えらそうに言い続けますが すごいことをおっしゃっていますよ。時代の・社会のうねりにうねろうとしている大波のことを 捉えて かんたんに言ってのけていますねぇ。おそれぇ入りました。  たぶん 社会思想家や社会評論家の誰も まだ 言っていない・捉えていないような思潮のうねりであるのではないでしょうか。わたしが  ☆☆(No.10) 一人ひとりの思考を基軸とした試行錯誤として 始まっているとも言っていいでしょう。  ☆ と言ったのは 古代市民の歴史を――日本人の祖先の人間たちのことですが―― 思い浮かべていたのです。  ところが いわく。――  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私には、「羞恥心」は単なる天然ボケ人気を越えた感があります。  「羞恥心」側ではなくて、その人気を作る側です。つまり、視聴者側です。  彼らの規範無く直接反応する心地よさ、つまり、あるがままの動性への / みんなの気づきが始まっているように思うわけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは 「羞恥心」の活躍じたいについては分かりませんが このように 社会現象として説明されれば その事態について 分かります。  ★☆ 動的道徳 動性道徳 動く道徳 生きた道徳  ☆ この用語については さらに 練って しゃれた言葉を作るといいでしょうね。《ダイナミック・モラル》では ださいでしょう。《エチカ・ディナミカ》も どこまで 浸透しましょうか。  ちなみに 天然ボケの《羞恥心》と もしこの質問者のわたしとに 共通点があるとすれば それは わたしの能天気でしょう。大きくは――大きくは つまり たとえば 国家の生成から衰退に到る歴史的経過を見とおそうとする大きな視点では―― 計算づくですが あとは まったく 能天気 つまり 早い話が 天然ボケなのですから。自然児とか野生児とかは 言って来ましたけれど。要するに スサノヲよ おまえだけが なぜ 自由なのかとつっ込まれるスサノヲの類型です。  ★ Exileや大橋のぞみ  ☆ に反応できないわたしが います。後者は 名前も聞いたような聞いていないような・・・でさえあります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それはさておき、国家の時代の問題、《市民‐公民》構造を持って生活する社会まで発展は、  もしかして、brageloneさんが引っ張りたい方向性でしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この分析と指摘については いくつかの局面に分かれます。  (1) まづ そもそもは 《道徳規範は なぜ なくならないのでしょう?》に答えるものとして 国家という社会形態をめぐる歴史を思い浮かべたという問題です。考古学の対象としてなら 道徳規範も 遺されるであろうというご指摘を受けて けっきょく 国家の今後の見通しにまで 勝手に 触れたというところです。  (2) しかも ただし 《動性道徳》の動向にもかかわって そういう歴史的展望を持ってもよいのではないか。こうも思います。  (3) むろん いくつかある中の一つの理論展望です。  (4) たとえば社会形態という視点を取り上げて 歴史的な見通しを立てるというのは 何も 規範を作るのではなく 規範になるものでもないでしょう。  (5) ただし 行為形式や行動方針にまで喰い込んでくるようないわば歴史の一つの方程式になるかも知れず 無理にそうしようとする動きが出てくるかも知れません。  (6) そうして 要は すべて 学問であったり 言論活動であったりするのみです。大前提は そこまでのものであるに過ぎないでしょう。  (7) でも たとえば国連をもっと機能的にするとか言う話よりも おもしろいと思うのですが どうでしょう。  (8) ただ地方分権なり道州制なりと言っているよりも 動性道徳の一つの実験になりえませんか。共同自治の首班を みんなが 当番制で担当するとすれば おもしろいじゃないですか。  (9) こういう方程式も 規範となり固定化するかと言えば どうなんですかね。  (10) まっ わたしなぞは スーパーや百貨店の品物を 市民は 好きなだけ 勝手に取って来て 消費するという社会を描いていますので(――究極的に 所有権解体論。占有は むろん 現象している――) そういう規範つまり 規範の無という規範 に凝り固まっているかも知れません。  (11)こうなると 動性道徳じたいも まるで流動的であるかも知れません。

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