• ベストアンサー

道徳規範は 愚の骨頂

arayata333の回答

回答No.25

No21の最初に謝っていますが、 謝り方がおそまつでした。   実は ある配慮からわざと書いたものでもあったのですが、いらぬお世話であったろうことからも 二重にお詫びすべきところだったと思います。 申し訳ありません。 また恥ずかしいです。すみませんでした。 * また、無学さも今回は、身にしみました。 蚊論争、自体意味が理解できないだけでなく、 それと>拉致問題<との関連性にしても考えようとしても、手がかりすらつかめませんし、 また法学理論も知らないところ(これが、理解しえない原因なのかもしれませんが)、 今回は解からないことだらけです。 恥ずかしいですが どこがそんなに解からないのか わからない点を書いておきます。 >無効の行為< これは言葉自体の意味合いから解かりません。 もちろん そのまわりの文も同じくとなってしまいます。 せっかく >無効ということは 初めから すべて 何もなかったという意味です。<というところまで 詳しく解説してくださっているのに、それでも解からないのです。 >自由意志たる善< これも それ自体意味がつかめないでいるところです。前回の質問文の中に出ていたところでもあるのでしょうが 結局それを理解できていないのですから 解からないのは当然なのでしょう。 その周りの文も したがって同じくです。 そして、おそらく肝心の次の文へと それが何故つながるのかさへ 何故なのか 考えても考えても解からないのです。 >理論上は 拉致行為の直前の原状に 無条件に 復帰することが するべきことです。  時間を取り戻すことは出来ないと同時に それにもかかわらず その拉致行為は まったく なかったことになります。時効も 問題になりません。これが 原則です。< その次の文 >そうして こういう場合の《原則》は――いま 気がついたのですが―― きわめて 《規範》に似ていますね。< は、“国家という存在の《原則》は、 そのような性格の《規範(たぶん静的な)》になる”ということなのでしょうか? でも これが法学理論ということなのでしょうが、やはり無学ではこのへんの理解できないようなんです。 考えるすべすら失っています。 以下蚊論争に関しては、 以下 最後まで 同じ感じです。 論争以前に、 お手上げ状態ですね。 * それ以下の文は、 学問のあるなしとは関わらない問題でしょうが、 これも >結論<から書かれているからなのか、理解にまでは、いたっていない感じです。 <すべての規範から《自由であれ》が、方程式化されるべきか否か?> というのがとちらの問いであるならば、もしかしたら この質問は 私の回答能力を超えた質問であるのかもしれません。 * はて、さて、 つづけて書こうと思っていたことの概要は書くべきところかもしれません。 しかし、無学な者が 道徳に関する高度な質問に参加するというのは 土台が無理だったのかもしれません。 なるほど、無知を思い知らされました。 また ここは感謝すべきところかと思います。 お教え ありがとうございます。  自分を知ることが ステップになるところです。   ありがとうございました。 * ウィキペディアの道徳教育の 徳目どうしが衝突するという説明の仕方についての、 わたしの中の別な方向からの見方については、あいかわらず肯定的ですが、  しかし、 自信を失った感じの今の今だからということなのかもしれませんが、   うまく続けられません。 <流動性にも 明確な基準はある。> という見方であるわけなのですが、 次の > ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。 < についてこそ、「許す」とはということの理解の問題であるわけですから、キリストの言葉をいろいろ考えてきた私の得意とするところであるはずなのですが、 それも今は、 このような私にそれを論じる資格があるのだろうか?という気持ちとなってしまいます。 以外と弱いところがあるのかもしれませんね。 その次にしても、こんな感じでうまく書けません。 > ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。 < この二つの規範の流動性の基準は 一番簡単なはずです。 身なりとは、という事の意味合いがどこまで解かっているのか? というのが答えとなるはずですから。 しかし、これさへも ワーキングプアーが言うことではないという卑屈な気持ちになってしまうところなんです。 いろいろ 長い人生でいじけてきてもいますしね(とっとっと ここまでマイナス思考になってはいけないですね。) * 次に書こうとしていたことこそ、 例の「“全ての情報の無料化”論」です。 善の戦士というからには、 この自論にこそ筆の熱をこめるべきところでしょう。 しかし、小学年の道徳の問題ですら 今 答えを失っている人間に それを書けと言われても、 やはり、その気迫を失ってしまっている感じです。 いや、少しは書くべきでしょう。  本物の情報、あるいは考え、あるいは感性を持っている人間ならば それ自体ですでに大きな幸せを得ているはず、 清貧とかいうのではなく すでに豊かなはず、 苦しみは苦しみだが みずから その情報価値を儲けのために使う あるいは儲けと関わるのは、本来一番、その必要のない人間だ。  ならば。 そうならば、そうす「べき」なのは、 そうでない人よりはるかに強い「べき」だ。  とう道徳論との交差の問題です。 この質疑にて書くまでもないような内容でしかないのかもしれませんけどね。(むむむ。 あくまでかなりマイナス思考ですね。) * そのほか 論戦の部分もまだ残っています。 例の「多元性」の問題です。 しかし、このダメージ後にては、論戦は無理かとも思えてしまいます。 * そして 最後が その上での「霊」の問題についてなのですが、  でも こればかしは簡単には書けません。 流れから 後はむしろ、私の方からは 今回は、この問題だけ書くべきところなのかもしれません。 どうでしょうか?

noname#80116
質問者

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★★ (ANo.21) 誤解自体は すべて解けました^^。  ☆ とあれば 《誤解》のほかの《疑い》は まだだと取るのが ふつうでしょうね。じっさい そのあとに その疑いのことが述べてあるのですから。  ★ 謝り方がおそまつでした。   ☆ ということに尽きます。  ☆☆ (No.22お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★★ (arayata333) 蚊に刺されたようなものです。  ☆☆ (bragelone) 蚊が刺しただけです。  ☆ これら二つは まったくと言っていいほど 違います。  後者では 《蚊が刺しただけ》が 歴史事実です。前者では なにかが別に歴史事実としてあって それが《蚊が刺した》ことに喩えられると言っています。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この説明で通じないでしょうか。《なにか別に歴史事実としてあっ》たとしても もし 無効であれば その事実は すべて なかったと 法律上は 見なされるという意味です。拘束されない自由・生命を脅かされない自由あるいは表現の自由などなど 基本的人権としての自由を奪う行為は 法律上も 倫理上も 無効であると見なします。  無効であるとなれば そこで起こった行為事実は すべて 何もなかったことになります。実際には そう見なされるという意味です。そして その行為が起こる直前の原状に あたかも時間を戻すかのように 復帰するのが 絶対要請となります。  ★★ 蚊に刺されたようなものです。  ☆ という表現であるならば 行為事実じたいは あったと見なされます。あったけれども あたかも蚊が刺したようなものだと喩えていることになります。つまり 無効と捉えるのではないわけです。  わたしの場合の表現は 行為じたいが 無効であると宣言するものです。ちがいが分かりましたでしょうか。釣りかも知れないと思う心に逆らいつつ。

関連するQ&A

  • 道徳って何ですか・・・

    カテ違いだったらすいません。 大人になってみて、ふと疑問に思います。 道徳って何ですか? ちなみにgoo辞書だと以下のようになってます。 ---------- 1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。 2 小・中学校で行われる指導の領域の一。昭和33年(1958)教育課程に設けられた。 3 《道と徳を説くところから》老子の学。 ---------- 知りたいのは、1と2についてです。 (3から派生されているのでしょうけど) 道徳を「身につける」?にはどうしたらいいのでしょう。 義務教育時代に習ったことは覚えていません。 きっとちゃんと身についてるのだと思います。 明示的なものでなく、感覚的なものなのか。 大人になったら、社会から学ぶものでしょうか。 何か、参考になる本とかあるのでしょうか。 倫理と関係していますか。 考えれば考えるほど分からなくなってきます。 いろいろなご意見頂きたいです。

  • 道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

     ○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう?  ☆ という問いです。    趣旨説明です。  《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう?  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。  * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。   cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。  3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。  4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。  5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。  こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?  * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから  ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。  * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。

  • 思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが

    思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?  ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。  亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。  前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。  後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。  ご見解ご批判をお寄せください。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

     =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • 「罪に服する」は、おかしな日本語ですか?

    土屋道彦という人の書いた「おかしな日本語、正しい日本語」という本を読んでいたら、 「『すべてを申し上げて、罪に服したいと思います』はおかしい。服するとは、納得して従うことである。納得して罪に従うなどというのはおかしなことである。恐らく『刑に服する』の間違いであろう。」 というお話が出ていました。 辞書で【罪】を引きますと (1)法律的・道徳的・宗教的な規範に反する行為。「―を犯す」 (2)(1)に対して負うべき責任。また、それに対して科される制裁。刑罰。「―に服する」 と出ていて「罪に服する」の用例までキッチリ出ています。 それでも土屋先生の仰るように、『すべてを申し上げて、罪に服したいと思います』はおかしいのでしょうか? 教えてください。 Goo辞書↓ http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BA%E1&kind=jn&mode=1&kwassist=0

  • 宇宙と人間は偶々生じてきたのですか?

     http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1285468867 に人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)と宇宙の森羅万象, 万物に関する規範的関係性について質問があります。  要するに、人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)も、そして宇宙の森羅万象, 万物も偶々、勝手に生じてきているのではなく、当為規範的に存在するのではないか、という質問です。  皆さんにおかれては、この辺り(あたり)のことはいかがご批判されますか?  人間の宗教や哲学は宇宙万物に基盤を持ち、宇宙万物に価値的に関与する必要を意識しなければいけませんよね。

  • 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。