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道徳規範は 愚の骨頂

arayata333の回答

回答No.23

そちらへの疑いが解けたので、けんかは終わったということで^^(解かりやすいので^^マークをつけておきました。) このテーマでの論戦はまだこれからですよ。 * 喧嘩という言葉は それこそ誤解されるかと思いますが、 お互いがそれを「見つめる」ことが出きる場合は あきらかにおもしろい発展とか会議の活性化をもたらします。  時には愉快にすらなり、 スポーツとかのバトル以上の 熱とかをも生みだすと思います。 まさに 喧嘩はいけないという 規範ではとらえようのない地点で笑(しょう)ね。 又、私は 相手が弱いとみたら喧嘩はしません。 計算しての発言が出来ていることを知ってるから 全体の活性化のためにも、こちらも鬼のふりをして計算して 喧嘩もしたりするわけです。 ただし、 相手の表情とかが見えない現時点でのネットでの会議に このやり方を使うのは、ひやひやものですね。   例えば その格闘がプロのリングであるならば、思いっきりたたいても 相手もまた回復してこちらのぶつかってくるだけであることとかが解かっていますが、  相手が素人であれば、 軽くたたいただけで、鞭打ち症にもなってしまうかもしれません。  犯罪にもなってしまうでしょう。 ともかく 今回の件は 終わってしまったことですので、 次の論戦へと進んでいきましょう。 蚊論争は 蚊論争ですよね。  頭が言いわけではないので、 言われてる意味合いはよく解かりませんでしたが、 それは蚊似すぎないこととして次に進んでよろしいでしょうか? * とりあえず、つづけます。 >・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。< ここから行きます。 これこそ、相手のことを思っての寄り添うコツの問題だと思います。 昔 新聞配達をしていた時、 配達順路を教えるのに、みんながさじを投げ出した人を わたしは教えるのがうまいということで、店長がわたしにその子に配達順路をおぼえさせてほしいと頼んできたことがあります。 まったくの無表情の人で、「おはよう」と言っても もちろん知らん顔であり、なによりもまったく反応が無いのです。 でも 私は それを、何かの原因があって こうなっていてその原因は解からないけれど、  《別に 普通の人だ》と気がつくことが出来たんです。 あとは 信頼すればいいだけでした。 むしろ、いつもより以上に こちらもつっけんどんに ただだまって後をついてこさせただけでした。   ほかの人と同じようにです。 そして、ほとんど同じに そろそろという時に 短い路地を5件ぐらい配らせたのです。  ただあたりまえにです。 一件まちがえて配ってきたので その事を いつもどおりに 指摘したら    その子は その時始めて苦笑いしました。     信頼(この場合つっけんどんな態度が それを可能にしたということです。 親切という道徳にしたがっていたらけして 彼の表情は、動かないままだったでしょう。) 見てみぬ振りです。 ほんとうは、誰よりも その子が普通に戻って欲しかっただけです。 同じ人間なんですから。  それだけです。   だから 道徳とは逆な態度になれたということです。 生きた指導と 道徳規範とは たしかに別ですね。(もちろん、その子は他の人たちと全く同じ期間で 配達順路を憶えました。) 今回は ここまでとします。(昼休みですので) つづく。

noname#80116
質問者

補足

  arayata333さん ご回答をありがとうございます。  まづ ★ 蚊論争 ですが  ☆ 拉致は 無効の行為です。一方には かっさらうという内容の意志があるように見えますが このように存在あるいはその自由意志たる善を阻害する行為は 存在していないという判定になります。  (《悪は 存在しない》を このように 法学理論として 考えればよかったかも知れない)。  被害者は 相手のかっさらうという意志(じつは 存在しえない意志行為)に同意したという場合が ややもすると 考えられるかも知れません。けれども 刑事が追求するときの自白強要と同じで 拉致された状態において 《連れて行って》と意思表示したとしても それも 無効です。  拉致は その意志のありようからして 行為から何から全部が 無効です。無効ということは 初めから すべて 何もなかったという意味です。理論上は 拉致行為の直前の原状に 無条件に 復帰することが するべきことです。  時間を取り戻すことは出来ないと同時に それにもかかわらず その拉致行為は まったく なかったことになります。時効も 問題になりません。これが 原則です。  そうして こういう場合の《原則》は――いま 気がついたのですが―― きわめて 《規範》に似ていますね。  《人間の個別の存在と それらの関係構造》 言いかえると 《社会的人間》 これに内在する《原則》として 無効の理論は あると考えます。この原則(あるいは 公理)は 道徳をつくったり それを規範化したり それらの道徳や規範について それでいいとか悪いとか議論したりするときの基礎であるように考えます。  たとえば《殺すなかれ》は 無条件に求められる行為形式であると言えると思いますが 多少は――緊急避難の事例のように―― 社会的情況としての条件がつく場合があるかも知れません。ところが 無効の行為について 原状復帰というのは 無条件に そうするものです。条件づけられる場合というのは むしろ その原状復帰を どのようにして実現するかをめぐってであると考えられます。  極端に言って 被害者本人が 原状復帰を望まないと言った場合 それでも 原状復帰という原則は 無条件に当てはめられ そのあとの措置として 本人の意向に従うということになるのだと思います。  道徳規範は 話が別です。  ★ 生きた指導と 道徳規範とは たしかに別ですね。  ☆ の問題に移りますが この質問趣旨が言おうとしていることは 微妙でありまして 結論から先に言ってしまえば  ★ 道徳とは逆な態度になれたということ  ☆ という方程式化についても 問うています。規範化とまでは行かない場合にも 《つねに 動的であれ》という《規範》をあてはめようと考えています。つまり 《自由であれ》は 先ほどの《原則(公理)》と同じく 無条件に 社会的な生命存在にあてはまる考え方なのだと言いたいということになります。どうでしょう。  ★ つっけんどん  ☆ にしても だめだったという場合もあるだろうから 《自由であれ》と言いたいという趣旨なのです。  全員参加の井戸端会議によるしかないだろうし そのときには われらが旗には 権威権力 地位身分 いっさいから自由であれという標語が書かれているでしょう。プライドを持つのは 自由だが その思考において また 判断において プライドや面子から とうぜんのごとく 自由であれとなります。そういう質問趣旨でありますが どうでしょう。  * 疑いは 一たん 発表したからには 相手に ひとこと あやまりの言葉をかけても 罰はあたりません。

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